008譚 お尋ね者と家出娘(上)
「疲れた」
物置のほったて小屋の一角で、ケルバンが旅荷を枕に倒れ込む。その声には疲労の色が差している。初めて、人間らしい抑揚のある声を鳴らしたようにも思われた。
暫く顔を埋めて黙していたが、顔を上げて、黒髪に赤銅色の肌をした娘の方を向く。その眼はすでに包帯を巻かれて隠されている。ケルバンはおもむろに口を開く。
「そうだ。お前」
「は、はい」
アラニスは自然と背筋をピンと伸ばす。何となく、そうすべきだと感じたのだ。
一方でケルバンというと、のそのそと体を起こし、胡座をかいて座っている。ケルバンは姿勢を定めると、低く言い放った。
「グルネの街までは届けてやる。そこに着いたら、商隊か何かについて行って家へ帰れ」
グルネの街。それはこの村からもっとも近くにある商業都市だ。ケルバンの唐突な言葉に、アラニスは息を呑み、目を瞠る。唐突の宣言に、頭が追いつかない。茫然としながらも、どういうことですか、と震える声を鳴らすと、ケルバンは小さく嘆息する。
「世間知らずのお嬢サマはさっさとお家へ帰れと言っている」
近くの街まで送る。山道の一角で、彼は確かにそう言っていた。付き合う、ではない。送る、だ。つまりは、安全を見届けたら他の者へ押し付けて強制送還。アラニスは膝を付いて四つん這いのような姿勢になると、飛び出すようにケルバンへ詰め寄り、声を張る。
「嫌です」
大きな翡翠はまっすぐとケルバンを見詰めている。
「ぜったいに、帰りません。――帰れません」
その声は真剣、いや。切実そのものだ。だがケルバンが表情を変えることはない。いつものように淡々と、静かに問う。
「家出か?」
アラニスはうつむき、自分の手をぎゅっと握った。
「違います。会いたいひとが、いるんです」
「どこに」
「王都サラスです。そのひとに会うまで、ぜったい帰りません」
無論、アラニスも気がついている。知っている。これは我儘に過ぎないと。合理的で納得の行く理由も言わないで、ひたすらに意志を突き通す。駄々をこねる子どもと同じだ。
呆れた風に、ケルバンは深く息を落とす。
「あんたな……それならせめて信用のおける連れを同行させろよ」
全くもってその通りだ。だが。
「……家出同然に飛び出して来たので……」
「やっぱり、家出じゃないか」
ぴしゃり、とケルバンが一喝する。本当にその通りすぎる。アラニスは手を弄びながら、何と説明するべきかと言い淀んだ。だが、それらしい言い訳が見当たらない。とうとうアラニスは話をすげ替えることを選んだ。
「そ、それより、さっきの。どうやったんですか?」
「さっきの?」
包帯で見えないが、今絶対、思いっきり眉根を寄せた。だがアラニスはひるまない。
「顔です。だって、この街に来る前は綺麗な肌をしてたのに……」
チッとケルバンが小さく舌打ちをする。
「うっかり外してたのがいけなかったな」
簡単な話。山道でも、人を見かけたら包帯を巻くつもりだった。だがあまりにも
「あれ、どうやったんですか?それに……どうして顔を隠しているんですか?恥ずかしいなんて、嘘ですよね」
アラニスはさらにずいずいとケルバンへ寄る。当のケルバンはただ黙して、包帯越しにアラニスの様子をうかがっている。
「……あの似顔絵。あなたですよね?」
はじめは、そもそも愛らしい小さなお尋ね者だな、と思った。何年前のもの、とは言っていなかったから。だがあれは三年前のものと聞いて、自然とケルバンの顔が浮かんだ。
ケルバンは背が高いけれど、男の成長時期を考えれば伸びていてもおかしくはない。髪色も赤茶と異なるが、そんなものは染めればどうとでもなる。あの兵士もそれを疑ったのではないだろうか。
それでいて、ケルバンは傍目にはすらりと華奢で、顔も女の人みたいな繊細さのある美形。化粧を施してドレスを着せたら、きっと貴族のどのご令嬢よりも綺麗になると思う(発想がほとんど盗賊の男と変わらないことに、アラニスは気がついていない)。
「教えてください。あなたは何者なのですか」
アラニスの翡翠はそらされることなく、まっすぐとケルバンを見つめている。その翡翠の奥のケルバンもまた、アラニスから顔をそらさない。
「聞いて、どうするつもりだ?王都にでも突き出すか?」
常よりも冷たさのある声。その鋭い刃のような声に、アラニスはドキリとする。
「そんなこと……しません。できません」
「まあ……
いつもの何も感じさせない声に戻された。そのことにアラニスは拍子抜けてきょとんとする。
「え?」
「家出娘がそんなことして自分から場所ばらすかよ」
確かにそうである。異国の娘が賞金首を捕えたぞ!なんて幸運な娘だ!などと噂が瞬く間に広まりそうだ。
そのことに失念していたので、アラニスは赤面した。考えなしの無鉄砲。勢いだけで「言わない」なんて言ってる自分が恥ずかしい。
ケルバンは小さく息を落とすと、低く言い放った。
「――とにかく、この話は止め。あんたもグルネで引き返す。これでいいな?」
有無を言わせない物言い。彼は言い終えると、片膝を抱いて少し背を丸めた。おそらく、眠るため。アラニスは黙りこくった。ケルバンがもう何も言わなくなったのを認めると、そっと物置小屋を出る。
びゅうっと強く冷たい木枯らしが吹き付ける。
あまりの寒さに、アラニスはおのれを抱きしめるようにして腕をさする。きっと間もなく、雪の季節が訪れる。アラニスにとっては初めての雪。
アラニスは後ろに編んで下ろした黒髪を解いた。はらはらと自由を取り戻した黒髪は舞い、波打つ。豊かで見事な黒髪だ。頬を撫でる黒髪を耳にかけて、アラニスは山脈に縁取られた地平を見る。太陽は少しずつ顔を隠して、空は
(姉さん)
アラニスは内心で、呼びかける。
無論、誰からも返答はない。それでも、アラニスは語りかけ続ける。
(変な方に出会ってしまったわ。首にお金が掛かっているお尋ね者よ。若くて、強くて、とても綺麗な方。何を考えているのかちっとも解らない。さとらせない、不思議な方――まるで。)
まるで。
西日が眩しい。アラニスは翡翠を細める。
(姉さん。わたし、必ず。必ず、あなたを見つけて、
そのためには。
『やっぱり、かえされるわけには行かないわ』
それは異国の言葉だった。
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