始まりの海。

人間 越

始まりの海。

 大きく息を吸う。

 瞬間、冷たい空気が肺を満たす。

 呼吸という行為そのものが新鮮だ。

 まるで生まれ変わったように感じられる。

 何度もやってきたことなのに、覚束無く不自由。

 けれども、出来ることが増える喜びや新しい発見に彩られて止められない。


 ――はっ。はっ。はっ。


 呼吸するだけなのに、それが楽しくて繰り返してしまう。

 頭がくらくらしてくるのは、アドレナリンの過剰分泌のせいか。呼吸ができる喜びたったそれだけで頭のシナプスが連続して弾ける、そんな酩酊感。いや、或いは単純に過呼吸による酸欠か。


 ――ごはっ、ごほっ、おっええ。


 流石にやりすぎて、嗚咽交じりの堰が出る。

 糸を引く唾液がキラキラと風に揺れ、顎に伸びる。些細な不快感。


「気は済んだ? というか傍から見てて気が触れたのかビビったくらいなんだけど」

 

 呆れた声を掛けてきたのは、俺をここまで連れ出した張本人――上司であった。車のキーを指で弄びながら近づいてくる。肩で羽織ったダウンが風に揺れると、寒さに耐えよるように両腕を抱いている。ちゃんと着ればいいのに。

 とはいえ全く、不思議なことである。

 何一つ変わってはいない、言うなればただの気晴らし。いや、ただのということはないか。

 深夜の都会を抜けて、朝日に照らされかける海まで来る。

 随分と洒落た気晴らしである。


「いいや、ぜんぜん。けれど、悪くはない気分です」


 すっかり凍てついた肺が痛む故に、腰を折り膝に手を付きながらの解答。


「そう。それならここまで連れて来た甲斐があった」


 彼女は満足げに言うと、缶コーヒーを呷る。

 風に靡く白い息がやけに様になっていた。


 ☆        ☆       ☆

 

 本当に、数時間前の行き詰まりが嘘のようである。

 いや、問題は何一つ解決していない。現に今も期限は刻一刻と迫ってる。

 プレゼンの締め切りを控え夜を徹して作る覚悟を決めたものの、何一ついいアイデアなんかでなかった。出る気配がなかった。

 これというキャッチコピーの一つでも思いつけばすぐに進むであろう資料作り。

 それも今回の製品プレゼンは、開発部の同期が指揮を取り作り上げた自信作であり、そして営業の俺も初めて自分がメインで担当する案件だった。俺や同期が一人前と認められる重要な案件。そしてこれは、待ち望んでいたことであった。

 開発部の同期は力を出し切った。後は俺の番。待ち望んだイベントはそこまで来ていた。

 そんな場面で俺は、完全に行き詰っていた。

 浮かんだ案はいくつもボツにした。ボツにした中からやっぱりこれはいいんじゃないか、と思う段階も過ぎた。それでもこれぞと思えるものはなかった。

 もうダメだ。そろそろ中途半端なアイデアでも形にしなきゃいけない時間に差し掛かる。未完のままで終わることだけはしてはいけない。けれども、そんなアイデアを持っていくなんてことはしたくない。

 そんな誰一人いなくなったオフィスに、上司は現れたのだ。


「黙って着いてこい」


 ☆       ☆       ☆


「いきなり車に乗せられたときは何されるのかと思いましたよ」


 上司と並んで海岸線を見つつ喋る。


「酷い顔過ぎて見てられなかったからな。けど、眠れと言っても聞かないだろうし、帰れと言っても仕事をするだろうし。いいか、ああいう時は仕事から離れる以外、負の連鎖を断ち切る方法はないんだ」


 こともなげに喋る上司に驚いた。

 俺にとってこんなにも非日常なことも、この人にとっては時々起こり得る日常の延長でしかないのだ。


「ありがとうございます。おかげさまで、頭がすっきりしました」

「うむ。だが、そんな感覚はハマってる途中何度かあったんじゃないか?」

「え? いやそんな」


 否定しかけて、ふと思う。

 確かにあった。最寄り駅から家までの徒歩に、不意に大丈夫だと思える瞬間が確かにあった。けれども、家についてパソコンを開くころには何も浮かばない。

 もしかしたら、今の晴れ晴れとした気分もそうなのかもしれない。

 別に能力が上がったわけじゃない。

 そもそも出来ないことだとしたら、いくら仕切り直したところで。


「冗談だ。毒が抜ければ簡単に解決策は見つかる。私たちの仕事なんてそんなものだ」

「そう言われたらそうでしょうけど……」

「はぁ。それとだな、これは私の主義の話だが能力が足りないと判断した奴にはメインで仕事を振らない。成長のため、なんて意味づけはしない。なにせ、失敗されたら減るのは私の給料だからな」

「…………」


 何を言い出すんだろう、この人は。

 なんて思って何も言えないでいると、


「……だから、大丈夫だ」


 躊躇うような、照れるような笑みのような表情を浮かべて上司は言った。そしてすぐにそっぽを向く。


「――っ」


 言葉としてはあまりにも不器用なエール。いや、その分以上に行動で貰っているのだ。それに曇りも晴れた。人を見れる上司が、できると見積もっているのだ。出来ないわけがない。


「さて、そろそろ帰るか」


 そう言って立ち上がる上司。


「あの、本当にありがとうございました」


 その背に再度、頭を下げる。


「おいおい、なに全部解決しましたみたいになってんだ?」

「あ、そうですね」


 上司の声に少し恥ずかしさを覚える。感極まるには早かった――


「これから始まるんだろ? お前たちの時代は」

「っ! はい!」


 ――なんてことはなかった。

 そうだ、壁に当たって、プレッシャーに潰されそうになっていったが、乗り越えてようやくスタートライン。

 ――クルルルルルル。

 高く飛んだ海鳥が啼いた。

 俺たちの時代はこれから始まるのである。

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