第三章 ~軽震~ 5
「お久しぶりですね」
それは、フィルネがアウロイと話をした後の、望んで一人でいるときのことだった。
声を掛けてきたのはゴロイだった。彼は静かに彼女の向かいに座った。
ここは食堂。今は誰もいない、昼でも夜でもない中間の時刻。
「こんなところでお一人でいられるなんて、初めてのことではないですか?」
「ええ。ちょっと、考え事をしたかったもので」
「随分とお悩みのようですね。良かったら私に話してはくれませんか? お力になれるかは分かりませんが」
フィルネは微笑み、しかし答えなかった。
沈黙が答えと受け取ったゴロイが席を立つ。
今は一人にした方が良いと判断したのだろう。
「はぁ」
物憂(ものう)げにため息を吐いた。
自分がしたことははたして正しかったのだろうか。ただの自己満足と自我の保存ではないだろうか。
あれ――ついこの前思い出したあのときの最後の記憶で見たもの―ーを見てそれでも心から信じられる人はいるのだろうか。
フィルネには答えが出なかった。
どうして自分は彼を疑ってしまったのだろう。まだフェレンさんの話さえ聞いていないというのに。
こんなのではとてもじゃないが彼を理解するなどできはしない。
コトリ。
気が付くと目の前に湯気の立つコーヒーが置かれていた。
思わず顔を上げて前を見る。
そこにいたのは去ったはずのゴロイだった。
「いかかがです? そんな苦しそうな顔をなくす役に立てばいいのですが」
フィルネは微笑んだ。
先程とは違う、自然に出た笑みだ。
「ありがとうございます。いただきます」
礼を述べてからカップを手に取り、ゆっくりと飲んだ。
コーヒーは熱すぎず温(ぬる)過ぎず、滑り込むようにフィルネの喉を満たした。
味も申し分ない。フィルネは一息吐いてから感想を口にした。
「おいしいです。とても」
「それはよかった。顔色も良くなった。これで少しは安心できる。味が分かるということは、精神的にまだ余裕があるということだから」
フィルネは愕然(がくぜん)とした。
これほど悩んでいるというのに余裕がある? それは自分がこのことに関して本気ではないということを証明したように見えた。
「あ」
「? どうしたのだね」
「いえ、大丈夫です」
首を振って答えたが、どうやら彼には見透かされたらしい。険しい表情で考え込むでいた。
「どうやら私の言葉が君を傷付けたようだ。すまない」
頭を下げられた。
フィルネは慌ててそれを否定した。
「違います。私がただ気付いてしまっただけで、ゴロイさんに謝れるようなことではありません」
「……そうですか」
ゴロイはコーヒーに口をつけた。
それからはまったく会話はなかった。
フィルネもゴロイもただ黙って静かにそこにいるだけで、それ以上のこともそれ以下のこともしていなかった。
どれほど経っただろう。フィルネもゴロイも一口分だけを残してコーヒーを目の前に置いていた。
「一つ、言っておきます」
ゴロイがカップを手に取った。
「信じなさい。彼を」
飲んだ。
置いた。
フィルネは前を見た。
ただそこにある一点を。
「しん……じる」
フィルネは光明が指した、といった顔をした。
人に言われることで初めて力を持つものがある。
それが、闇の中にいるときの他者の言葉。自分がそうしたいと思うこと。
フィルネは立ち上がった。
「ありがとうございますっ」
礼を言って駆け出した。
後に残ったのは、カップが二つと彼だけだった。
「口惜しい、と言うことが許されるなら、私はこう言います」
残ったカップのうちの一つ。その中にある飲み干されることのなかったコーヒーを。
「残念ですね。まだまだ修行が足りません」
立ち上がり、去った。
後に残るものは何もなかった。
◇◆◇◆◇
ドアが開いたとき、アウロイは一つの書類と睨(にら)めっこをしていた。
「教えてくださいっ。どこに行ったのか」
「な、なんだ。突然」
慌てて隠す一つの書類。それに気付くことなくフィルネは捲(ま)くし立てた。
「シースさんは、今どこに行ってるんですか」
「あ、ああそれか。彼は今君がこの前行って襲われたという街に――」
「失礼しました」
ぽかん、と見送るアウロイ。
彼が咄嗟(とっさ)に隠した書面は左手に握られている。
そこにはこう書いてあった。
〝フィルネ・アノールの抹殺、及び現場移動はこちら側の関知せぬところなり〟
「……これは、隠す必要など無かったのだがな」
つい先程届いた資料。
彼はそれを読んでいたのだ。
「では誰が彼女の命を……」
彼には分からなかった。
報告は聞いていた。しかしその報告の内容から彼は安心していた。
〝アイレーンの災禍〟は原則として目標の前には現れない。
アウロイはこれほどの大事を起こすのに彼らが現れることはないだろうと思われた。だから無意識のうちにその可能性を捨てていた。
しかし気付いたとしてももう何もできることなど無かったが。
◇◆◇◆◇
〝災厄の墓場〟
シースは八年ぶりにここを訪れていた。
八年という月日は、最後に見たここの光景を変えるのに十分な年月ではなかったようだ。
いまだ残る災禍の爪跡(つめあと)。
ましにはなったがあの時のことがまざまざと思い出されるほどには酷い。
シースは見下ろす場所を変えた。
そこには街があった。
名は、キルクノーア。シースにとって始まりの街である。
もっとも、思い出など街にはなかったが。
風が靡(なび)く。意味もなく。することがないからするのだというように。
シースは街へと向かった。
街は数年前に災禍があったとは思えないほどに活気があった。しかしどこか無秩序さを感じさせる活気であった。
事実、この街はガベルの研究作品を流用している。独自に調べ上げ、使い方を知り、売り捌く。この街は何でも屋(ジャンキー)の巣窟(そうくつ)だった。
この街に多くの情報屋と闇の商人がいる証拠だった。
何でも屋はより良いアイテムを欲しがる。少しでも怪虫とガベルを相手に立ち向かうために。
言ってみれば何でも屋とは、ガベルのする仕事もしない仕事も請け負う者たちのことだった。
それこそ踏み入れない裏の仕事から表の仕事まで。そつなくする。
組織にとって短期間で力を付けた国家の次に厄介な相手だった。
シースは怪しまれない程度に周囲の様子を目に入れる。
目的は状況監査だった。
現在の危険度を改めて計るためだった。
前回の失敗により警戒度を高められ、そしてさらに多くの闇の商人と何でも屋を招き入れてしまった今、ここがどれほどの脅威なのかを早急に調べ上げる必要があった。
がさ。
腰に下げた袋が鳴った。
それはシースがもしまた会うことがあったなら、と持ち歩いているクッキーだった。
時間が経つと湿気(しけ)るのでたまに中身を入れ替えようと思っている。
「風が痛いな」
吹き付ける風は乾燥していて砂も一緒に運んでいた。他の街ではありえないことだった。
外の土地が荒れているといっても、それは土に栄養がない。というだけのことであり水分は十分に含んでいる。言ってみれば海岸の波打ち際の砂だ。
こんな風に砂が多く混じった風になる原因は八年前のことだった。
多くの組織の人員と怪虫が死んだ場所がすぐ近くにあるからだ。
学者の中でも意見が分かれているが、人々の間では〝怨念〟が通説だ。
無念のうちに死んだ隊員たち、ただ生きる為に戦った怪虫たちの狂気、それらが雑じり合い凍てつく風となっているのだと。
「おい坊主。死にたくなかったらそれ以上先には行かねぇことだな」
シースは声の主に目をやった。
大きな体躯(たいく)をした男。片目は潰れ口の半分は痙攣(けいれん)している。太い腕がカップを持ち上げそこから湯気を出している。服は下が長ズボン、上が半そでの黒シャツ。どう見ても砂が飛んでくる地域の格好ではなかった。
「最近来た〝蛇の鱗〟(スネークスケイル)っつう潰し屋が好き勝手やっててな、どうにも治安が悪くていけねぇんだ。面倒事に巻き込まれて痛い思いはしたくねぇだろ?」
シースは頷き。そのまま前へと進んだ。
「おいおい。俺は警告はしたぜ」
組織や大都市と違い、電気の通っていない街では主流のガス灯が灯るまであと二時間。空はまだ明るい。
騒がしかった街の一角を抜け出て、現在危険度急上昇中の場所へと歩く。
元々品の良くなかった街並みに、更に物の散乱という要素が加わった景色が見えてくる。そしてそこには活気というものが抜け落ちていた。
「小僧。ここより先、我ら〝蛇の鱗〟(スネークスケイル)の領域と知って入るか」
何処からともなく厳(いかめ)しい様相を呈(てい)した声音が聞こえてくる。
シースはそれを無視して先に進んだ。
「ならば歓迎しよう。貴公の行為しだいで中身は異なるが、な」
それきり気配はなくなった。
風が鳴り、肌を襲う。
どうやらただの調査で済むわけにはいかないようだった
シースは武器――いつもの如くブラインド――を取り出しダガーからロングソードへと変化させる。
こんなことはいつもならしないが、どうにも調子が狂っている。
それもこれもあの一つか二つ年下の新しいパートナーのせいだった。
「荒れるな」
いつもなら余分なことはしないで帰るのだが、そうも言ってられる程落ち着いてもいない。
初見の相手に明らかな敵意を持って接すること、与えられた命令以上のことや面倒事を起こすことは人間関係以外でここ五年はしたことがなかったのだが、どうしてか沸き起こるこの感情に振り回される。
あまり良い兆候とは言えないと思った。
苦々しく呟く。
「どうなるんだろうな」
風が音を立てて吹き、潜入捜査用に着た衣服を叩く。
ゆっくりと歩を進める姿がそこにあった。
〝蛇の鱗〟などという教養の欠片もない奴らのアジトが視界に見え始めた。それは馬鹿でかく、まともな神経の者が建てる本拠だとは信じられない。少し頭が回る者なら簡単に壊滅させることができる造りだ。
殺気を放つ者が一人、二人と増え、仕舞(しま)いには幾つも重なって感じられるようになった。
シースはにこやかに笑う。
彼らの不幸を思って。
下に着た昔の服は、今再び馴染み始めていた。
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