第三章 ~軽震~ 3
飛ぶ鳥が羨ましいと言う人がいるのなら、その人は死にたがっていると見て間違いないだろう。
一匹で生きていける猫になりたいと言うのなら、その人は周りの人との関係を断ち切りたいところがあるのだろう。
大海を泳ぐ鯨をカッコいいと思うのなら、その人は夢があるのだろう。
されど、人は知らない。気付かない。そのときに。
望むことがどれほどの犠牲を払わなければいけないのかを。
どうやってもできないことを望むのは危険だということを。
そして、ここにちょうどその真理を色々と曲解させれば理解した者たちがいた。
「……なぜゴマとコショウを間違えるかな」
「ごふっ、ごふっ」
「がっ、がふっ」
周りでは二人の人間がコショウに苦しめられていた。この場にいる半分である。
ビュアネとフェレン・アノガリーである。二人は思わぬ奇襲攻撃を受け呼吸困難に陥っていた。
アウロイもその攻撃を受けたはずだがケロッとしている。もしかしたら前にも何度かこの攻撃を受けているのかもしれない。
そしてもう一人、この攻撃に動じていない者がいた。シースである。
彼がこの事の原因であり自分自身その攻撃を受けているはずなのだがまったくの無傷である。支部長でさえ一度は咳(せき)をしたというのに。
「さあ?」
完璧に責任を放棄した人間特有の面持ちで答えるシース。もはや彼には自分で作ったゴマクッキー改めコショウたっぷりクッキーを食べないようにさせるしか他にやりようがなかった。
「もうこれから、お前が作った物には手を出さないようにしよう」
「そ、そうね。それが賢明ね」
「いやいつもは失敗なんてしないんだがな」
アウロイが取り繕うがフォローされた本人にその気がなければ意味はない。
だからアウロイのこの行動は徒労に終わった。
「たまにわざと失敗させることもある」
それはこの前の一件を指していたのだがそれを知らない者にとっては今回のこれは明らかにわざとやったのだという認識しか齎さない。幸いここにいたのは皆、非常に心の広い者たちばかりなので問題は起こらなかった。
「それでも、ここまで酷くすることはない。さすがにこれは不味いと思った」
フォローになっていない。誰もがげっそりとした心持ちになった。
「せめて味見くらいはしてね」
フェレンが優しく注意した。
「したんだがな。先に作った方で」
「他に誰にやるんだか」
シースのぼやきに食って掛かったのはビュアネ。いくらなんでもあんな物を食わされては彼も嫌味の一つは言いたくなるだろう。
「もともとはそっちの方だけにやるつもりだった。こっちのはついでだ」
答えになってない。しかもついでと言うとは。
嘆息を吐き、アウロイが再びフォローを入れる。
「頼むからここでケンカはしないでくれ。ここは私の部屋だ」
そう。今いるのは紛れもなく支部長アウロイの部屋だった。支部長室などという業務用の部屋ではない。完全な私室だった。
支部長という体面からか、部屋には彼の趣味に合わない調度品がいくつかあった。
絵画、壺、装飾の剣、世界地図は気が向いたから置いたのだとしてもこれら全てが彼の真の趣味と真っ向から対立し完膚なきまでに台無しにしていた。
美しい風景の絵の傍には雑多な書類群が。高価な壺の傍には何に使うのか分からない包丁が。壁に掛けられた剣の傍にはギターが。気色の悪いハーモニーを醸(かも)し出していた。
そこに出されたクッキーは、イメージに合わないことを差し引いてもお釣りが来るほどに素晴らしい物に思えたのだが……。
「死ぬほど不味い物を食わされて機嫌が良いわけないでしょう」
お人好しもここまでと思うほど性格の良いビュアネだが、さすがにこんな目にあってそうそう簡単に許すことはないようだ。まして相手がシースとくれば。
「はぁ、まあいいです。もう諦めました」
何を思ったか突然意見を翻(ひるがえ)した。
これ以上するのは得策ではないと思ったか、それとも不毛だと思ったか、とにかく彼からこの話を終わらせた。
はずだった。
「それで誰に上げようとしていたんだ?」
フェレンとアウロイはその行動に驚いた。
わざわざ終わったことを掘り返すような男ではないからだ。しかしあのことがあってはそれも仕方が無いかと二人は思った。
「先に作った方、味見までして万端を期したんだろう? そういう相手がいるように思えなかったが、ああなるほど、彼女か」
そういう気か。
二人はこれが話を掘り返したのではなく一応別な話になったのだと分かった。
確かにこの朴念仁とも唐変木とも言われるシースが誰かに私用でお菓子を作る。考えてみれば前代未聞だった。
「少なくともそれは違う。おそらくここにいる誰も知らない相手だ」
意味深。且つまるで自分と相手は好き合ってますとでもいうような物言いに、興味をそそられぬ者など居るまい。
当然の如く三人はどうやって口を割らせるか考え始めていた。
まさか、こんな答えが返ってくるとは。心して掛からねば。
へぇ、この子がねぇ。でも私はあの子とくっ付けたいのよね。悪いけどその相手にはリタイアしてもらわないと。
なぜこんな突然あいつに彼女います説が浮き上がってくる? 何もこんな時でなくてもいいだろうに。しかも私が知らないとは。なんたることだ。
三者三様。それぞれが好き勝手な考えを巡らした。
当の主役たるシースは周りの状況にまったくの無頓着である。一人、食えないクッキーを片付けていた。
なぜシースがクッキーを作ったのか。なぜここに皆が集まったのか。それはこういった状況から発生したものである。
シースの場合、クッキーを作ったのはビローという小さな少女に出会ったからである。
あれから昔のことを少し思い出して、お菓子という物があそこではとても興味深い物だったことを思い出したのだ。
「俺ね、クッキーが好きなんだ」
「私はクッキーよりケーキの方が好き」
「何言ってんだよ。チョコレートの方が断然うまいだろ」
何処の誰から始まったのか、〝外〟のことを知っている数人の新参者がそんな話をしていた。 仲間の中には外を知らない者も多い。外に憧れを持っている者もいまだ外に出ることを諦めきれずにいる者もいる。ましておいしい食べ物の話に食い付かない者は少ない。
いつの間にか三つほどのグループを作ってそれぞれお菓子の話をしていた。
あれはまだ一人一人に確かな〝名前〟が付く前のことだった。
それぞれがそれぞれに、子供っぽい理屈と理由を述べて好き勝手に論議していた。その中で彼はチョコレート派に属していた。
名前だけは他にも幾つか上がったのだが説明できなかったり本当に名前だけしか分からなかったりして、クッキーとケーキとチョコレートしかまともに想像できる物がなかったのだ。
本当は一番興味を持っていたのは綿菓子だったが、形が変わる・甘い・ふわふわ・白い・水に簡単に溶ける、となんだかどんな物なのか釈然としなかったので興味は持たれたがすぐに飽きられてしまったのだ。
だからここに来る直前に一度だけでも食べたことのある、チョコレートの話をしているグループに入ったのだ。あれは甘くて少し硬くて白と黒の二種類の色がある。形は四角や丸、ハート型とあるが知っている者が多く手で形を表すこともできたので人気があった。クッキーも同様だ。
ただ、ケーキだけは違った。人気はあったが分かり易い・説明が簡単に理解できるという理由から人が集まったのではない。
話している者の多彩な言葉ときらきらと光る目が人を集めていた。
次々と出てくるケーキという物の形、味、魅力に惹かれた仲間たちが多く集まっていた。少し知っている者はうんうんと頷いてもいた。
どうやら中心にいるのは最近来た仲間でここにいる中でも年長に入る部類だった。なんでもすぐそこにケーキ屋があったらしく毎日のように見ていたそうだ。
それから数日はこの話で持ち切りだった。
なにせ話題の少ない閉鎖されたところだ。外を知らない者も多いから余計にそういう話は興味をそそる。しかも最新の情報なら誰でも聞きたがる。外を知っていても古参の部類に入る仲間も積極的に質問をしていた。
そのうち、一人の仲間が彼の隣で呟いた。
「わたしはチョコもケーキも好きだけど、クッキーが一番好き」
だって一番色々な、その人だけの形を作れるんだもの。
小さな。とても小さな呟きだった。
だから彼以外の誰にも聞かれず、その仲間自身誰かに聞かれたとは思っていなかった。
三日後。その仲間が〝名付け〟を提案した。
そのせいか、その仲間の名付け親に彼はなりたくなった。そう思った瞬間、言葉が口を突いて出ていた。
自分の一番綺麗だと思う響きと、意味を乗せた名前を。
◇◆◇◆◇
フェレン・アノガリーの場合。
彼女はただ報告に来ただけだった。
〝アイレーンの災禍〟のことを。
理由は知らない。だが話しておいた方が良い。ここ最近の様子では何かが起こっているようだから。
支部の仲間を、シースを、そのパートナーである彼女を護ることに繋がるのなら、そう思って報告をしに行ったのだ。
それだけで終わるはずだった。
支部長室に、目的の人物がいてさえくれれば。
しかし彼はいなかった。
すでにフィルネは仕事で出掛けていていない。別に彼女が支部にいて困るわけではないがそれでも聞かれる可能性は低くしておいた方が良い。黙って彼女が話したことを報告するのだから。
〝アイレーンの災禍〟たる彼らが支部内に現れた。他のところなら報告する必要も無いだろう。まして本人が話していたときその場にいたのだから。そして彼らの姿を見ただけで地獄が訪れるわけではないのだから。
だがどうにもあの後小耳に挟んだ情報によると、馬鹿者は現実を認識していなかったそうな。そういえばすぐそこで話していたというのに何の反応も無かった。もっと早くに気付くべきだった。
そう思って出向いたのだ。
「それをあの馬鹿は」
いまになってももあっちこっちをうろついているなど、言語道断だった。
おかげでさっきからずっとアウロイを探すのにかなりの時間を掛けることになった。昼過ぎに支部長室に向かったのだから、あれから約二時間も経っていることになる。いい加減足が疲れた。
彼女は念の為にまだ一度も行っていない彼の私室に向かうことにした。
「これでいなかったら、消してやる」
精神的にも参っているために自分が何を考えても歯止めが掛からなかった。あまつさえ手段をぶつぶつと言い始めている。あまり人に出会わなかった所為もあった。
いまも周囲には人の姿はない。留まるところを知らない彼女の思考は、彼女を突き進ませるに十分な威力を持っていた。
「あと少し」
角を曲がって一つ目のドアが、アウロイの私室へと繋がる境界線。フェレンはふふふふふと笑いながら角を曲がろうとした。
「フェレン……さん?」
信じられない。
そんな響きを持った声音で呼びかけられた。
誰だ? 人の歩みを止めたのは。
ぬぼーっと、相手からはそんな風に見えただろう。事実相手は一歩引いた。
しかしこのときの彼女は正常な判断などできるはずもなく、ほとんど思うが侭に行動していた。
呼び止めた相手はビュアネだった。
「あの、大丈夫ですか」
本当に心配そうに訊いてくる。フェレンはそれで意識を取り戻した。
「え、あ、ええ大丈夫です」
慌てて取り繕うももう遅し。人間の二面性をまじかに見せられて彼は少々顔が強張っていた。「はあ、まあ。ところで支部長に用ですか?」
「ええそうなんです」
「そうですか。ちょうど私も用があって来たところなんですよ」
「それじゃあご一緒します?」
「ええぜひ」
この場は何とか、相手の努力もあって有耶無耶(うやむや)にできた。でも次からは気を付けないと。
フェレンはそう深く心に刻んだ。
「それじゃあ行きましょう」
「何をしている?」
ビュアネが笑顔で進もうとした瞬間、後ろからシースに呼び止められた。
「馬鹿」
フェレンは小さく声に出した。
最悪だ。おそらくビュアネはシースに対して良い感情を持っていない。表面上はちょっと仲が悪い程度にしかなっていないが、内心どうなっているのかは分からない。
はっきり言って彼がシースに対して怒りを露わにしたところを見たところがない。聞いたこともない。それが恐ろしい。いったい彼がシースに対してどのような感情を持っているか分からなくしている。下手をすれば彼はどのような手に出るか分からない。そして彼がどんな暴挙に出ようと、それを正面から止める資格を持つ者は誰もいない。なぜなら彼は……。
「これからアウロイさんのところへ行くところなんだ。それより君もその手に持ってるのはなんだい?」
「これか? これは……クッキーだ。支部長に食べさせる気で持って来たのだが」
お前達もどうだ?
フェレンが思考を巡らしている間にシースとビュアネは話を着けてしまった。
すなわち、快諾。
意外にもビュアネはシースに他の者よりも砕けたというか気を使っていないというか、まあ当然と言えば当然なのだが、どこかイメージと違う雰囲気で話した。
「これじゃまるで――」
「置いて行くぞ」
シースが追い抜きざま言った。
すでにビュアネはドアをノックしている。
フェレンは首を捻りながらも、頭の中にあった色々なこと――特に恨み言――を忘れて付いて行った。
そうした件(くだり)で彼らは一堂に会したのである。
ちなみにビュアネはあれからしばらく本当に相談するべきか悩み、昼を過ぎてから決断して部屋を出た。が、先に食事をすることにして来るのが遅れたわけである。
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