№170 インスクライブ~inscribe~ 心に刻む物
秋坂綾斗/ちんちん亭スナック庵
序章 ~カーテンレイザー~
「ねえ。私たち名前を付けない?」
それは、突然だった。
何の脈絡もなく告げられた少女の一言。それはいままで誰も思い付かなかった。否、誰も手に入れようとは思わなかった物だった。
「そんなものあってもしょうがないだろ」
周りからはそんな答えしか返ってこなかった。
「だって私は嫌だよ。このままL―3なんて言われ続けるの」
しんと静まり返る部屋の中。誰も何も言わない。誰も誰かを見ようとはしない。ただ少し荒々しい息遣いが聞こえるだけだ。
「でも、でも名前に何の意味があるんだよ。そりゃずっとこんな変な名前で呼ばれ続けるのは嫌だけどだからって無理にでも別な名前つける必要ないだろ? それとも名前を付けるのはただのあいつらへの当て付けか」
一人の、ここにいる中でもかなり前からいる少年が言った。
「ううん。違うよ。だってL―3て呼ばれてたの私の前にもいるんでしょ? それだとそのうちL―3て誰が誰だか分からなくなるじゃない。そんな誰かがいなくなって次に来た子がいなくなった子の名前で呼ばれるなんて、私たちでもそう呼ぶなんて本当にキボウも何もなくなっちゃうよ。だから私たちで一人一人新しい本当の名前を考えるの。自分で思い付かないなら誰かに付けてもらえば良いし、相手と名前の付け合いっこするのでも良いし。こうやって大切な物を一つでも持てば、他にももっと大切な物ができて生きていくキボウができるんだよ。だから皆名前を付けようよ」
今度は誰も何も反論はしなかった。代わりに出てきたのは、最近来た新しい子の意味の分からない言葉だった。
「リンナ」
「?」
「名前。俺が君につける名前。最後に聞いた外の音。鈴の音。だから鈴鳴」
それっきり。少年は口を噤んだ。
「リンナ、か。いい名前だね。うん、これから私は鈴鳴。皆、そう呼んで」
それを皮切りに周りでいくつもの音が飛び交った。それは全て〝誰か〟を表す音だった。
「私はツグミ。私がいたところの鳥がそう呼ばれてて、だから今日から私はツグミ」
「俺はキコリ。とっても太くて大きな木を倒すことのできる奴の名前だ」
「俺はシー。どっか遠い海を隔てたところから来た奴がシーシー言ってたんだ」
「私はアポ。約束と言う意味を持つ言葉の始めを取って、アポ」
「僕はレン。強くと言う意味や繋がり、激しい感情を表す文字の音を取って、レン」
そして中には自分で考えたのと相手が考えたのを交換するのもいた。もちろん誰かに付けてもらう者、付けられる者も。
「あなたはもう自分の名前、考えた?」
リンナが自分に名前を付けてくれた少年に訊いた。
少年は首を振った。
どうやらさっきのはかなり勇気を振り絞って言ったことだったらしく。今は俯(うつむ)いて床を見るばかりだ。
「そう、それじゃあ私がさっきのお返しに名前を付けるね」
少年は少ししてからゆっくりと顔を上げた。
そして少女の顔を見てこくりと頭を動かした。
「ふふ、じゃあね。あなたの名前は。ううん、何が良いかな。私にこんなすっごく良い名前付けてくれたんだからそれに負けないくらい良い名前を考えないとね」
少女は明るく笑った。それにつられて少年も笑う。
「あ、良いのを思い付いた。あのね。あなたの名前は――」
それは、今はもう遠い過去のこと。でも今でも大切で大事で、悲しくて嫌で、楽しくて嬉しくて掛け替えのない物を手に入れたであろう過去。
その掛け替えのない物はほとんど手から零れ落ちてしまって、二度と元には戻せない宝物。残ったのは記憶と印だけ。
それでも、まだこれはとてもとても大切な物だと胸を張って言える。
他の誰にもない。他の誰にも手に入れることの出来ない最高の贈り物をもらった過去。
だけど手に入れた大切な物を喪う時の方が強い、鮮烈な過去。
消える仲間。
変わる仲間。
どちらでも失うと言うことに変わりはない。
それらは皆に何度も何度もゼツボウという物を与えたけど、キボウを持って次を迎えられた。
消えた仲間。変わった仲間。どちらの仲間の名前も胸に刻み付け、皆耐え抜いた。
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