はじめまして、大親友

笛路

はじめまして、大親友

 



「はじめまして、大親友」


 そう言いながら笑いかけて来た男性に、私は目を奪われた。

 なんの変哲もない短髪の黒髪で、焦げ茶色の瞳の男性。白いシャツと黒いズボン。

 どこを見ても普通なのに、なぜか目が離せない。


 綻ぶように笑いかけてくる顔のせい?

 声が柔らかな低さで響くせい?

 太くもなく細くもない、威圧感のない体格のせい?

 こてんと首を傾げる、可愛らしい仕草のせい?


「はじめ、まして?」




 彼は、「遠山とおやま ゆずる」と名乗った。


 私はクリーム色を基調とした部屋のベッドに座って、彼の話を聞きながら、いつの間にか短くなっている髪の毛を触ったり、自分のものとは思えない薄水色の寝間着の袖を弄ったりしていた。


「ここのお医者さん?」

「そう!」

「…………大親友は、嘘?」


 ぽろぽろと涙が落ちてきた。

 

 私は仕事帰りに事故に遭って、数日のあいだ昏睡状態だったらしい。

 しかも、昏睡状態から目覚めて、三ヶ月も経っているらしい。

 仕事場は、復職が難しそうなので退職を勧めてほしいと言っていること。

 そして、私は毎日記憶を無くしている、と言われた。


 親友なんて、いなかった。

 遠山という男性は大親友ではなかった。

 事故や記憶などの訳のわからない話よりも、彼が吐いた嘘が一番悲しいと思った。


 私が無言でぽろぽろと泣いている間、遠山先生はただ黙って頭を撫でてくれていた。私がそれに気付き妙に照れて泣き止むまで、ずっと。


「うん、泣き止んだね」

「っ!」


 私を見つめる彼の瞳はとても優しかった。


「さて、今日も、覚えてる事の確認をしよう」


 

 毎朝、私が覚えていることの確認をしているそうだ。


 私が覚えていること――――。

 近本ちかもと 蜜柑みかん、という名前。

 両親は中学生の頃に他界した。

 親族は高校の頃からほぼ関わりがないこと。

 今は専門学校の一年で看護の勉強をしていること。

 アパートで一人暮らしをしていること。

 髪の毛は胸辺りまであって、手入れに気を使っていたこと。

 

「看護学校、一年?」

「はい」

「っん……そっか!」


 遠山先生が驚いた顔をしたあと、ふにゃりと笑った。

 その顔を見て心臓がドクリと跳ねたような気がした。




 遠山先生と他愛ない話を一時間ほどした。

 先生はそろそろ始業時間だと言って、少し寂しそうに笑ったあと、髪の毛を梳くように私の頭を撫でて病室を出ていった。

 どうやら、仕事前にここに立ち寄っていたらしい。


 触れられたところの髪の毛をいじりながらテレビを眺めた。

 見覚えの無い芸人や少し歳をとったタレントや俳優。

 見覚えの無い番組。

 見覚えの無い流行りのスイーツ。

 そっとテレビを消して、窓の外を眺めた。


 女性の看護師さんが来て、熱を測ったり、ご飯を食べる場所やお風呂、一日の流れなんかを説明してくれた。


「毎日、私に教えてるんですか?」


 なんとなく気になって聞いたら、貼り付けたような笑顔で「ええ」と返事された。それ以上は聞かれたく無いような、そんな顔。




 病室と同じフロアにある食堂で、朝ごはんを食べて部屋に戻った。

 そういえば、一人部屋だけど、入院費はどうなってるんだろうか? 大きな怪我はないみたいだけど、いつまで入院なんだろう? 見たところ大きい病院みたいだけど、病室数とかの問題で軽傷の患者は早期的に退院させられるものじゃなかったっけ?

 色々な疑問は尽きないけれど、誰に聞けるわけもなく、ただ外を眺めてぼうっとしていた。

 お昼の時間になり、また食堂へ行った。


「おっ、近本ちかもとちゃん!」


 急に年配の男性から苗字を呼ばれた。

 俺のことはわかるか? 今日は覚えてるか? 誰か見たことあるやつはいるか? しつこく聞かれたけれど何も覚えていなくてうつむくことしかできなかった。

 男性の隣に座っていた同じくらい年配の女性がたしなめるまで質問の嵐は続いた。


「失礼します……」

「あ、待って」


 急いでご飯を食べて食堂から逃げようとしたら、男性をたしなめてくれた女性に引き止められた。


「近本さんにとっては始めましてばかりで怖いわよね? でも、みんな貴女のことを知ってるから、わからないことがあったら気軽に話しかけてね? 大丈夫よ!」

「…………はい。あの、ありがとうございます」


 俯いてお礼を言って、食堂から逃げ出した。

 自分が知らない自分を知られているのが恐ろしいと思った。

 あの人たちにはある毎日が、自分にはないのが悔しかった。

 私が今日、今、感じたこの想いや記憶が消えるのが理解できない。




 看護師さんにお願いして夕食は部屋で食べさせてもらった。


 コンコンと軽いノック音のあと、病室のドアからひょこりと遠山先生が顔を出した。


「やぁ、大親友。ごはんはちゃんと食べた?」

「…………はい」

「ん? 少し顔色が悪いね」


 頬を撫でられた。

 私を…………私の知らない私を心配する顔が気持ち悪くて、先生の手を払い除けた。


「あ…………ごめんね」


 苦しそうな顔をされてしまった。

 まるで私がとても酷いことをしたみたいな反応をされて、余計にイライラもやもや。


「貴方は何なんですか? 誰なんですか?」

「きみの…………大親友だよ」

「お医者さんなんですよね?」

「うん、医者だよ」

「なんで白衣を着てないんですか?」


 ずっと違和感だらけだった。

 この人とは別のお医者さんや看護師さんを病棟内で何人か見たけれど、種類は違えどみんな白衣を着ていた。

 この人は、白いシャツと黒いズボン。普通の洋服。

 白衣は、着てない。


「白衣は……就業中じゃないから」


 寂しそうな顔で笑われた。

 そして、続けて言われた言葉は――――受け入れ難いものだった。


「俺は蜜柑の彼氏だから。蜜柑の医療には携われないんだよ」


 仕事の日は始業前と終業後、休みの日は一日中、私に逢いに来ているらしい。

 

「親友じゃないじゃない! ゆずの嘘吐きっ!」


 何もわからない状態で、他人からの言葉を信じるしかない状況で、嘘を吐かれる怖さ。

 どれが本当の言葉なのか全くわからないのに、この人は私に嘘を吐いた。

 ひと目見たときからなんだか気になっていた人に、嘘を吐かれていた。


「ゆ……ず?」


 遠山先生が目を見開いて、幽霊でも見たような顔をしていた。


「はい?」

「いま、『ゆず』って言ったよな?」

「……言いましたっけ?」


 さっき、感情に任せて叫んでしまったので何も覚えていない。


「…………っ、ごめん、もう一回…………ゆずって呼んで」

「ゆずって柑橘の?」

「違うっ! 俺のなま…………え、なんて覚えてないか…………」


 彼が力なく床に座り込んで、右手で顔を覆って俯いていた。

 その姿が、とても寂しそうで、悲しそうで、抱きしめてあげたいと思った。

 ベッドから降りて、彼の前に座って、顔を覗き込むけれど、手に隠れて何も見えなかった。


「……譲、だから、ゆず?」


 返事はないけれど、こくんと小さく頷かれた。


「ゆず」

「っ!」


 彼の肩が震えだした。


「ゆず」

「蜜柑…………思い出して。っ………………忘れないで……お願い」


 彼が小さな声で呟いた願いを、私はいつか叶えてあげられるのだろうか?

 今日以外の私が、彼を心から笑わせられる日はあるのだろうか?


 私は、なんという残酷な事を思いついてしまうんだろうか…………。


「明日も、今日みたいに、『はじめまして、大親友』って挨拶してくれる?」

「なんで?」

「貴方に…………一目惚れ、したから」


 勇気を持って伝えたら、苦しいほどに抱きしめられた。


「必ず、明日の朝も言う」

「うん!」




 面会終了時間ギリギリまで二人でベッドに並んで座って、他愛もないお喋りをした。

 今日あったこと、思ったこと。

 それは、ほんのちょこっとしかない今日の思い出。

 今日の私だけが体験した、唯一の思い出。

 もう少しで消えてしまうらしい、私とゆずの思い出。


「ああ、もう時間か。またね、大親友」

「うん。またね、大親友」


 ――――さようなら、大親友。




 ◇◆◇◆◇




 同じ病院に務めていた彼女が、帰宅途中に車に撥ねられた。

 多少の怪我はあったものの、死に直結するほど酷いものではなく、ほっとした。が、頭を強く打っていた事が災いし、記憶喪失になってしまった。

 しかも、毎日記憶がなくなるという、全く嬉しくないおまけ付きで。


 俺は担当医にはなれない。病院の規定で勤務中の接触さえも禁止だ。

 友人に担当医を頼み、顔見知りの看護師にも彼女のことを気にかけてほしいと頼むことが、俺に出来る精一杯だった。




「蜜柑?」

「…………誰ですか?」


 見覚えもないと言われた。


「蜜柑?」

「ひっ⁉」


 恐怖に慄かれた。


「近本さん……」

「…………はい?」


 彼女の記憶にいない俺は、果てしなく遠い存在になってしまった。




 ある日、彼女の記憶にばらつきがあることに気付いた。

 ベースになっている部分に数年のズレがある。

 しかも、日に日に増えているようにも感じた。


「徐々に思い出しているのかもしれないが…………彼女を急かすなよ? あと、あまり過剰に期待するなよ?」

「わかってる」


 友人に釘を差されてそう返事しても、期待せずにはいられなかった。


「蜜柑!」

「…………っ、いやっ!」


 少しの希望で気持ちが高揚。

 結果、彼女を怯えさせた。




 ある日、光芒が見えた。

 暗闇の中に淡く光る一筋の光。


「私達、親友だったの?」


 休みの日だからと、ずっと彼女の側にいた。

 この日の彼女は、いつもと少し違っていた。なんでも興味津々に聞いてきて、沢山の話をした。

 中身は、小学生だった。


「こんなに沢山の話をしたの初めて!」


 いつも、休みの日は俺と沢山の話をしていたよ。

 ケンカして一言も話さない時もあったけど、なるべくその日の内に仲直りしていたよ。

 いっぱいいっぱい話し合って、ダイヤの付いた指輪を贈ったんだよ。

 君の左手には…………もうはめられていないけれど。


「私ね、親友って呼べる人いないの」

「俺がいるよ?」

「確かに! 年が離れてても親友になれるの?」


 君と俺は二歳しか違わないけど。今はとても遠いんだろうね。


「大親友にだってなれるさ」

「あははは!」


 おどけて言った『大親友』の言葉に、彼女はありえないほどに笑い転げた。

 久しぶりに見た彼女の満面の笑みと、部屋に響く明るい笑い声は、折れかけていた俺の心を癒やしてくれた。


「じゃ、今日から大親友ね! ねぇ、明日も来てくれるの?」

「もちろんだよ、大親友。明日も来るよ」

「あははは!」


 面会終了時間になり、おやすみと言うと、彼女も明るくおやすみと返事をしてくれた。


 ――――さよなら、大親友。


「また明日」




 あの日から、一言目は必ず『はじめまして、大親友』と言うようになった。

 今日がどんな彼女でも、あの日の彼女との約束を守りたいと思ったから。

 絶望に打ちひしがれる日も、光芒に踊りだしそうになる日も、ずっと言い続けた。




 ◇◆◇◆◇




「はじめまして、大親友」

「あはは! ゆず、何その挨拶!」

「――――っ!?」




 ―― おわり ――



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