蜘蛛

三好祐貴

蜘蛛

 2月2日の日曜日だったと思う。洗面台に、ふと、目をやると、洗面器の内側に蜘蛛がいた。足を折りたたんだ丸まった状態で、セーターからとれた毛玉かな、と思ったが、よく見ると蜘蛛だった。全く動いていなかったので、もう死んでいるものと思い、フーッと息を吹きかけて、排水溝に落とした。水で流してしまうつもりだったのだ。しかし、蛇口を開く前に、蜘蛛は排水溝の奥から這い上がってきた。まだ、生きていたのだ。「蜘蛛は益虫で悪い虫を食べてくれる。」 そんな祖母の話を思い出したので、別に殺す必要もない、そう思って、そのまま放っておくことにした。

 しばらくして、手を洗おうと洗面所へ行った。洗面器の中には、まだ、蜘蛛がいた。今度は足を延ばした状態で、白い陶器の側面を登っていた。手を洗うことに、少し、ためらいを覚えた。ティッシュにくるんで、外へ逃がしてやろうか、そんな考えも一瞬よぎったが、わざわざ蜘蛛一匹のために、そこまで気を遣うというのも馬鹿々々しい、ここで流されてしまうのなら、それがこの蜘蛛の運命、そう思って、そのまま蛇口を開けた。ただ、蜘蛛に水が掛からないよう、若干の配慮をしつつ、手を洗うことにした。

 手を濡らし、石鹸を付けながら蜘蛛を見ていると、蜘蛛は洗面器の内から外へ出ようと壁を登るものの、すぐに元の場所まで滑り落ちてしまい、そこからまた、同じルートで壁を登り、またすぐに同じところまで同じように落ちる、そんなことを繰り返していた。そこで、別のルートを使うように促そうと、息を吹きかけて、蜘蛛を少し移動させた。滑りやすい地点を回避させようと思ったのだ。しかし、どういうわけだか、蜘蛛はわざわざ、さっきの出発地点まで戻って行き、またそこから、さっきのルートで壁を登り、またさっきと同じように、さっきと同じ地点で壁から滑り落ちた。そして、また同じように壁を登り始め、また同じように壁から滑り落ちる、そんなことを繰り返した。その光景は、なんだか、とてもイライラするもので、蜘蛛を水で流してしまいたい、という衝動にかられた。手に付いた石鹸の泡をいつもより水圧を上げて洗い流してやろうか。そう考えたのと同時に、こんなことを思った。

 神様も、こんな風なんだろうか? 目の前で、必死に藻掻いている特定の人間を助けてやろうと、色々と策を練って、手を差し伸べてやるのに、その人間は、それに気が付かず、全く何も学ばずに、同じ過ちを繰り返す。健気にバカな努力を繰り返して、失敗する。そんな人間の姿にウンザリして、もう、いっそのこと殺してしまおう。神様も、そんな風に思ったりするんだろうか? 不慮の事故。その人間にとっては、何の前触れもなく突然やってくる死の裏側には、実は、そんな真実が隠されているんじゃないだろうか? 神様が存在するなんて、全く信じていないのに、そんなことを思った。(もちろん、神様には存在してほしいのだけれど。)

 手を洗い終えた時、蜘蛛はまだ、壁を登ろうとしていた。どうやら、今回、蜘蛛は幸運に恵まれていたようだ。しかし、次はそうはいかない。後で、まだ蜘蛛がいたら、その時は、もう、流してしまおう。そう思った。

 数時間後、また手を洗おうと洗面所へ赴いた時、そこに蜘蛛の姿はなかった。なんだか、ガッカリしたような、寂しい気分になり、辺りを探してみたが、蜘蛛は見当たらなかった。 しかし、その後、また、しばらくしてから、洗面所の方へ目をやった時、洗面台の脇の壁、床から20センチくらいのところに、蜘蛛の姿を見つけた。あっ、いた。そう思って、少し嬉しくなった。けれども、それ以上、特にどうということもなく、その日の蜘蛛への関心は途絶えた。

 人が寝ている間に、蜘蛛が口のなかに入ってしまうという確率は、結構、高く、人は一年間の内に、何匹もの蜘蛛を食べていると、以前、誰かが言っていた。今頃、あの蜘蛛は元気にしているのだろうか? もう既に、この身の血肉と化してしまったのだろうか? 家の中で、また蜘蛛を見かけた時、いったい、いつまであの蜘蛛のことを思い出すのだろう?

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蜘蛛 三好祐貴 @yuki_miyoshi

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