第26話
こちらの誘いに応じてくれた凛音と共に、学校の屋上へ向かう。
屋上にはハナコさんが佇んでいた。
「思ったより早かったな」
そう告げるハナコさんの足元には、魔法陣のような幾何学模様が赤いペンキで派手に描かれていた。円周上には紙をぶら下げた杖のようなものが、等間隔に置かれている。
「……あの、先輩。これは?」
異様な光景を目の当たりにして、凛音は困惑していた。
「さっき画像で見せた人には必ず会わせる。ただ、先にこの人と話をしてくれ」
凛音がハナコさんを見る。
その様子からすぐに察した。凛音はハナコさんのことも忘れている。
「静真凛音。巫女舞はできるな?」
ハナコさんの問いに、凛音は目を細めた。
「何故、貴女がそれを知っているんですか」
「今は私の質問に答えろ。舞は誰かに教わったのか?」
「……いえ、独学です」
「ふむ……流石に神事会のことは忘れているか」
凛音の答えに、ハナコさんは顎に指を添える。
「神事会のことは忘れているのに、巫女舞は覚えているんですか……?」
「日誌によると、凛音は八歳から神事会に務めていたらしいからな。経験が濃すぎて無かったことにはされなかったのだろう。代わりに、歪な形へ書き換えられたわけだ」
人から伝授されたという記憶が、独学で身につけたという記憶に書き換えられた。
「凛音。巫女舞で
「
凛音が首を傾げた、次の瞬間。
床に描かれた幾何学模様が湾曲し、その内側から黒い火花のようなものが散った。
「下手に刺激すると歪みが広がるな……悠弥、
「御幣?」
「そこにある杖のようなものだ」
言われた通りに従い、俺は御幣という二本の紙を吊るした杖らしきものを握る。
良く見れば杖と床の接点から、黒い瘴気が漏れていた。
「な、なんか噴き出てるんですけど!?」
「浴びるなよ、悪霊に集られるぞ」
ハナコさんの警告に、顔を引き攣らせながら頷いた。
「凛音。そこにお前の巫女装束があるから、すぐに着替えて来い」
ハナコさんの視線の先には、床に転がった体育着入れがあった。
その指示に、凛音は無言で俺の方を見る。
「凛音……頼む」
杖を支えながら懇願すると、凛音は小さく頷いた。
数分後、屋上の扉の向こうで着替えた凛音が、やって来る。
「お待たせしました」
縁は解けても経験は消えない。複雑な巫女装束を、凛音はきっちり着こなしていた。
「――よし。始めるぞ」
ハナコさんが凛音を所定の位置まで案内する。
凛音は緩やかに、その全身を駆使して舞い始めた。
そんな状況ではないと分かっていても、俺は凛音に見惚れずにはいられなかった。赤と白の装束が舞の動作に応じて揺れる。風と共に浮かび上がる凛音の黒い髪は、しなやかに、まるでそれ自体が舞を飾るかのように月明かりを反射した。
「凛音には、
舞を見ながら、ハナコさんは俺に説明した。
「
その言葉を信じて、俺はハナコさんと共に凛音の舞を見届けた。
やがて凛音に異変が起きる。
「あ、あぁ、あぁぁ……っ」
唐突に凛音は呻き声を漏らし、舞を終えた。
「私……私は……っ」
頭を押さえながら苦しそうにする凛音に、俺は思わず駆け寄った。
「凛音。記憶が戻ったのか?」
「先、輩……」
伏せられていた瞳が上を向く。凛音は涙を流していた。
「――先輩っ!」
勢い良く、凛音に抱きつかれた。
動揺はない。動揺よりも、今は凛音を安心させたい気持ちでいっぱいだった。
「……落ち着け。もう大丈夫だから」
胸元に寄せられた凛音の頭を軽く撫でる。
その様子だと、記憶は元に戻ったのだろう。
「ひ、一人でした……」
嗚咽に混じって、凛音の呟きが聞こえる。
「家族も、友達も失って……それが、当たり前みたいな……。ずっと一緒に過ごしていた家族ですら、私のことを赤の他人のように見て……私も、それに疑問すら抱かずに……」
俺も凛音に「貴方のことは存じ上げません」と言われて、複雑な気持ちになった。家族が相手なら尚更だろう。凛音が感じた恐怖は想像に難くない。
「……私、分かりました。縁解きは、ただ縁が消えるだけじゃ、ありません」
凛音は身体を震わせながら言う。
「思い出が、消えるんです……誰かと一緒に過ごした、大切な思い出が。全部、全部……無かったことにされる。……こんなの、絶対に許してはいけません……っ」
強い意志と共に凛音は告げた。
その頭を撫でながら、俺はハナコさんの方を見る。
「……歪みは、一先ず落ち着いたな」
ハナコさんは足元の幾何学模様を見て言った。確かに瘴気の流出が収まっている。
「悠弥。静真和花が目を覚ましたら、すぐ私に報告しろ。説得を終え次第、早急に
ハナコさんの指示に、俺は深く頷いた。
次いで、ハナコさんは凛音の方を見る。
「凛音は休んでいろ」
「……はい」
凛音は大人しく頷いた。
「あの、先輩。……記憶を失っている間、お世話になりました」
罪悪感と気まずさを綯い交ぜにしたような表情で、凛音は俺に言った。
「気にするな。まあ、思った以上に態度が冷たかったから、ちょっと驚いたが……」
「す、すみません」
凛音は素直に謝罪する。思ったより凹んでいる様子だ。
「いつも、他人に対してはああいう態度なのか?」
「……まあ」
「じゃあ、俺には優しくしてくれていたんだな」
冗談交じりに笑って言う。
どうやら凛音は、俺と接する際、赤の他人と比べれば優しくしてくれていたらしい。
調子に乗らないでください――なんて言葉が返ってくるかと思ったが、予想に反し、凛音は薄らと顔を赤く染めて俯いた。
「……そう、ですね。先輩は、その、色々と気心が知れた相手なので……正直に言うと、話しやすくて嬉しいです……」
訥々と言う凛音に、俺は思わず硬直した。
まさかそんなに信頼してくれているとは思わなかった。
「ええと……その、どうも」
「……いえ」
互いに目を逸らす。
気まずい状態となった俺たちを、ハナコさんが白けた目で見つめていた。
「乳繰り合うのは全てが終わってからにしてくれ」
「ハ、ハナコさん!」
怒鳴る凛音に対し、ハナコさんは愉快そうに笑いながら屋上を去って行った。
冷たい風が吹き抜ける。凛音の纏う巫女装束がパタパタと音を立てて揺れた。
「……和花さんの様子を確かめないと」
用務員室のソファで寝かせていた和花さんのことを思い出す。
屋上を下りる階段へ向かおうとすると、傍にいた凛音が、俺の服をそっと摘まんだ。
「凛音?」
「……私も行きます」
少し考えてから、首を縦に振る。
用務員室の扉を開くと、その時の物音が切っ掛けになったのか、ソファに横たわっていた和花さんがゆっくりと身体を起こした。
「悠弥君。ここは一体……?」
戸惑う和花さんに、俺は用意していた嘘を伝えた。
「……学校の用務員室です。和花さんが急に倒れたので、さっきまで学校の保険医に診てもらっていました」
「そ、そう、なんだ。……用務員室?」
部屋の内装を見て、和花さんが首を傾げる。俺もこの内装を初めて見た時は、オカルト研究部の部室に入ってしまったのかと勘違いした。
和花さんは次に、俺の隣で俯く少女を見た。
「えっと、貴女は……」
「……凛音です」
短く答えて、凛音は和花さんへ歩み寄った。
「ごめんなさい」
小さな声で、凛音が謝罪する。
「ずっと、私ばかりが苦しんでいると思っていました。でも、本当は私より、姉さんの方がずっと苦しんでいました」
「えっと、凛音……ちゃん? その、何を言っているのか、よく分からないんだけど……」
当惑する和花さんに、凛音は悔しそうな顔をした。
「……今はまだ、何も言えません。ですが、必ず……」
独り言のようにそう呟いて、凛音は踵を返す。
「もういいのか?」
「……これ以上、ここにいると、また縁解きを受けてしまいそうですから」
そう言って凛音は部屋を出た。
これ以上ここにいると、凛音は自らの複雑な心情を吐露してしまうと判断したのだろう。
「え、えっと、悠弥君? その、凛音……ちゃんは、一体どうしたのかな?」
「……すみません。俺の口からは何も」
凛音の心境は本人から聞いている。俺はそれを語れないわけではないが、これは本人が語るべきだと考えて、和花さんの問いには答えなかった。
「身体は、大丈夫ですか?」
「うん、全然平気。いつの間に倒れたのか、あんまり覚えてないけど……」
小首を傾げて、不思議そうにする和花さん。
きっと今までも、本人の知らないところで、色んな問題が起きていたのだろう。
「和花さんにとって……大切な思い出って何ですか?」
殆ど無意識に、俺はそんなことを訊いていた。
縁解きによってあらゆる記憶を失った和花さんにも、ひょっとしたらまだ、一つくらいは思い出が残っているのではないかと、淡い希望を抱いた。
しかし和花さんの答えは、俺が全く予想していないものだった。
「悠弥君とデートしたことかな」
柔らかく微笑んで、和花さんは言う。
「ああいう風に、誰かとお出かけしたのは初めてだったから、凄く嬉しかった。……誰かと一緒だと、街を歩くだけでも楽しい気分になれるんだね」
思い出に浸るように、感慨深い様子で和花さんは言う。
あの日のことは、俺にとっても大切な思い出だ。
だが、あれくらい……些細なことだった。その気になれば、これから何度でも同じようなことができる。今までも、家族や友人と似たようなことをしていたかもしれない。
凛音の言う通りだ。
大切な思い出が、無かったことにされるなんて――絶対に許してはならない。
「和花さん……約束します」
こぼれ落ちそうになる涙を堪えながら、俺は言った。
「失った思い出を取り戻すためにも、これから新しい思い出を作るためにも……」
何を言っているのか分からないのだろう。
でも、いつか必ず理解できる時がくる。
それを信じて。いや、その未来を誓うために――宣言した。
「俺は、貴女を助けます」
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