138話 十五歳の誕生日

 シャーペンの先端から出ている黒い芯が机にトントンと叩きつけられるような小さな音が無数に聞こえる。

 誰一人として言葉を発することなく、まっすぐに下ばかりを見ている。


 空白のボックスを埋めるように文字を書き連ねて、記憶してきた答えを必死に脳から絞り出す。

 一人はペンが止まり、もう一人は思い出したかのように急にペンを走らせる。

 さらにもう一人は諦めたかのように目を瞑り時が過ぎるのを待っていた。



「――はい、そこまで! 後ろから回収して〜」



 チャイムと同時にテスト担当の教師から終了の声。

 ペンを置いてテスト用紙を前の席の人へと渡していく。



「終わったぁ〜っ!!」



 前の席の千彩都が両手を上げて伸びをした。


「光流、どうだった?」

「ある程度いけたと思うんだけど」


 最後のテストは歴史だった。全ての解答は埋めたし、間違っていると思うところはないように思えた。

 記憶系の授業は得意分野だ。数学のようにそれほど応用もなく、ただ記憶すれば良いだけ。何度もテスト範囲を見返して記憶に刻む。

 勉強の仕方は人それぞれだが、俺のやり方はとにかく繰り返し教科書を読んでノートにそれを書きまくることだ。


「私は……わからん!」

「なんだよ。微妙だったの?」


 千彩都が元気よくそう答えるが、わからんって言う時は大抵良くない点数だと思う。


「八十点はいってると思うんだけど」

「及第点じゃない?」

「うーん。九十は欲しかった」

「ならテスト返ってきてからだね」


 俺はもちろん百点を目指して勉強してきた。

 最低でも九十五点以上はいっているとは思う。


 ともかく期末テストが終わり、開放感に包まれた。


 一緒に勉強をした皆はいつもより良い点数がとれただろうか。

 とれていたら良いな。




 ◇ ◇ ◇




 翌日の土曜日。

 中学三年生、最後の誕生日。俺は晴れて十五歳になった。


 いつも思うが、誕生日になったからといってそれほど特別感は感じない。

 一日なんて一瞬で終わってしまうし、翌日になれば本当に昨日は誕生日だったのかという気分にもなる。

 それほど一瞬で誕生日は過ぎてしまうのだ。


 そんな一瞬の誕生日でも、今日はどんな日になるのか。

 自分のためにたくさん人が集まってくれて、毎年人数も少しずつ増えていった。

 本当にありがたい。


 誕生日会は十七時から順番に集まり、十八時に開始する予定だ。


 文化祭もテストも終わり、心も体にも余裕ができた。

 日中時間ができたこともあり、俺は一人で出歩くことにした。



 向かったのは、あの公園。

 土曜日ともあって、少しだけ子供たちが遊んでいた。


 俺は子供たちが砂場やブランコで遊ぶ様子を横目で見ながら、目的のドーム型遊具に向かい、その中を潜っていく。


 今日の気温は十五度ほど。それほど寒くはないが、分厚いドーム型遊具が太陽の光を吸収。中もほとんど影になっているために少しだけひんやりとしていた。

 俺はそんな空間で一人、壁に背中をつけて腰を下ろした。


 両耳にイヤホンを装着。スマホを操作し『包帯ガール!』の動画を再生。

 曲を聴きながら目を瞑り、体の力を抜いた。



「五年……かぁ」



 ルーシーと出会ったのは確か十二月に入ってすぐだったろうか。

 あの日の東京は雪が降るにはまだ早く、代わりに雨が降っていた。


 少し大人になった今なら、あの時がどんな状況、状態だったのか十分に理解できる。


 傘も差さなかったのかずぶ濡れになっていて、恐らく気温も十度は切っていたはず。雨に濡れたことで体温も低下しとても寒かっただろう。


 泣いている声が気になって話しかけてはみたが、今思えばもっと気を回せたかもしれない。

 例えばハンカチを渡して濡れているところを拭いたり、上着を貸して温めたり。


 結局ルーシーのことが気になりすぎて、そういうところには全く気が回っていなかった。

 次……もし次、会うことができたなら、ルーシーにちゃんと気を遣えるだろうか。


 冬矢だったら色々な気遣いができるんだろうけど、俺は女性のエスコートの仕方なんてわからない。


 そんなことを考えても、既に羽ばたいてる君にもう俺は必要ないのかもしれない。

 けど、ずっとできなかった何かを、俺ができる何かをしてあげたい。今はその何かはわからない。ただ、ルーシーがしたいということ、全部叶えてあげたい。


 五年の内のたった一週間。

 日数にすれば五年は約千八百日。そのうちのたった七日間だ。


 この五年間で本当に色々な出来事があった。

 でも、心の中でずっと大切だと思っていた一番の記憶は、あの刹那のように短い一週間のことだった。


 あの一週間があったからこそ、俺は変われた。

 ……友達ができて、色々なことを頑張れて、文化祭でライブなんかしてしまえるくらいになって。


 もしルーシーと出会っていなかったら、今の俺はどうなっていたんだろう。


 運動もすることもなければ、勉強もそこそこしか頑張らず、多分平均的でつまらない人間になっていたのではないだろうか。

 別にそれが悪いことではない。でも、確実に言えるのは、今よりも絶対に楽しいとは思えない人生だったということだ。


 今、ちゃんと生きているから言えることだけど、腎臓一つ失うことでこんなに幸せが手に入ったのなら、もう十分にその恩恵は受けているような気がした。


 でも、一つだけそこに足りないのは、ルーシーの存在。


 ルーシーの誕生日から今日でおおよそ一ヶ月と二週間。

 手紙の返事はまだ来ていないけど、やっぱり返事がほしい。


 返事が拒絶の言葉だったとしても、今の俺なら喜んでしまえると思う。

 だって、返事をくれたっていう、ちゃんと生きてるんだっていう証拠がそこにあるんだから。


 だから、どんな内容でも構わない。

 いつまでも、いつまでも待ってるから。



「よし、戻るか」



 俺は地面に手をつけて立ち上がり、手で軽くお尻の埃を払う。

 そのまま中腰になってドーム型遊具から出た。




 ◇ ◇ ◇





「「「誕生日おめでと〜!!」」」



 家に皆が集まり、揃ったところで俺にお祝いの言葉を贈ってくれた。


 それぞれジュースが入ったコップを片手に持ち天へと掲げる。

 俺は軽く一口、ジンジャーエールを喉に通した。



「――年々人が増えていくわね」


 キッチンの方で呟いていたのは母の希沙良と姉の灯莉。

 誕生日会の終わりには大量に洗い物が出るので、料理に使った調理器具を先んじて洗っていた。


「光流の魅力が伝わっていったってことでしょ」

「ふふ。そうかもしれないわね」


 二人は遠目に光流たちの方を見ながら会話していた。


「そういえば。アレ、ちゃんと隠したんでしょうね?」

「アレは私の部屋に運んでるから、さすがに誰の目にもつかないはずだよ」


 希沙良は食器洗剤をスポンジにつけ、少し温かいお湯を出して手元のフライパンを洗う。

 それを水で流すと横に並んでいた灯莉に渡して、乾いた布巾で水滴を拭き取っていく。


 そんな中、二人が会話していた"アレ"のこと。

 そのアレは、昨日のうちには到着していたのだが、光流には誕生日当日まで隠しておくことにした。

 なぜならそれは、光流の誕生日に渡すべきものだったからだ。


「光流、驚いちゃうでしょうね」

「驚くどころの騒ぎじゃないと思うけど……」

「皆が帰ったあとの方が良いよね?」

「そうね。一人で開けるのが一番良いでしょう」  


 そう洗いものをしながら微笑み合う二人。

 光流はどんな反応をするのだろうと想像しながら誕生日会が終わるのを待つことになる。




「――そういえば、来週三者面談だけど、皆大丈夫?」


 俺は、テスト結果の話はしなかったが、三者面談のことを話題にした。


「うげ〜」


 すると理沙が苦いものを食べたような顔をした。


「学年順位の紙さぁ、親の前で渡すとかないよな〜」


 理沙が言う学年順位の紙。それはテストの総合点数と同学年での順位が掲載されている紙のことだ。

 他のテストでは、個人で渡されるものなのだが、今回に限っては三者面談の時期も重なったのでその場で配られることになっていた。

 つまり、親の目の前で成績を知ることになる。


 親にテスト結果や順位を見せている人が普通なら多いとは思うが、親がいる目の前で渡されるというという状況は、心の準備ができていないというか、不安になってしまう場面でもあるかもしれない。


「今まで勉強頑張ってきてたらそんなプレッシャーはなかったのにね」

「マジでそれ。今更だけど……」


 自信を持てる結果なら、親にもビクビクしなくても良い。

 でも世の中には百点をとっても褒めてくれなかったり、厳しいことを言う親も存在する。

 うちに関しては成績や点数に関しては何も言われないので、その点助かってはいる。


「光流はどうなんだ? 総合一位とれそうか?」


 すると冬矢が期末テストの総合順位について、スプーンで掬ったグラタンを頬張りながら聞いてくる。


「うーん。それだけは結果もらわないとわからないかな。これだけやっても上には上がいるからね」


 三年生二学期の中間テストでは俺の順位は四位まで上がっていた。

 しかし、俺の上にはまだ三人もいるのだ。


「ははっ、そうか。別に一位にこだわらなくても十分成績良いしな」

「あぁ……うん」


 冬矢の言う通りではあるが、ぼんやりと一位をとらなければいけないような理由が俺にはある気がしていた。

 でもその理由はわからない。誰かと約束でもしていたのだろうか……。

 しかし、そんな約束に思い当たる節はなかった。



「――じゃあプレゼントお渡し会しまーす!」


 すると冬矢が話題を変えて、渡してくれるプレゼントの話に。


 そのまま立ち上がった冬矢が玄関の方へ向かっていくと、再びリビングに戻ってきた時には包装がしてあるかなり大きめの包みを運んできた。


「これは俺としずはと深月と陸からのプレゼントな〜」

「えっ」


 つまり一緒に買ったということだろうか。

 というか冬矢と深月は一緒にプレゼント買いに行かないって話じゃなかった?

 結局一緒に選びに行ったということなのかもしれない。


「ほら、開けてみろよ」


 そう言われたので、俺は立ち上がりデカい包みを開けていく。

 どこかで見たようなサイズ感のものではあったが、なんなのかよくわからない。


 紙の包装を開くと見えたのは、ダンボールに近い箱だった。

 俺は上部に貼り付いていたテープを剥がし、その部分を開いた。


「えっ!?」

 

 俺はその大きな物体を箱から取り出す。


「わああああ」


 すると、鞠也ちゃんがそのプレゼントに反応する。

 俺も同じ気持ちだった。


「――アコギじゃん!」


 アコギ――つまりこれは、新品のアコースティックギターだった。


「でも、高いんじゃ……」


 すると冬矢が鼻を指で擦りながら「へへん」と微笑んだ。


「だから皆で割り勘して買ったんじゃねーか」

「あぁ……!」


 多少高かったとしても、割り勘にすれば一人当たりの金額はそれほど高くない。

 それでも少し出費が多いのではないかとも思ったが、せっかく渡してくれたものにこれ以上ぐちぐち言うのも失礼だ。


「ありがとうっ!」


 俺は満面の笑みでプレゼントを受け取った。


「アコギはエレキとはまた別だろ? 暇ある時にでも触ってみろよ」

「うん。そうする」


 アコギと言えば弾き語りのイメージ。

 一人で弾く分にはとても良い。以前からアコギは欲しいとも思っていたので、これは嬉しいプレゼントだった。


「あとさ、お年玉入ったら、自分たちのギター買いに行こうぜ。今借りものだしさ」

「あっ……それ良いね! 俺もそろそろ自分のエレキ欲しいと思ってた」


 冬矢のこの提案も前々から思っていたこと。

 もう一年も透柳さんから借りている。多分凄く高いギターだし、新しく買うギターは借りたものよりは音が良くないかもしれないが、愛着が湧くものになるはずだ。


 透柳さんから借りていたギターは、手入れもほとんどやってもらっていた。弦が劣化した時にも無償で交換してもらっていた。

 次からは全て自分でやらなくてはいけない。それも良い経験だ。


「じゃあ決まりだな。――ってことでなんか弾いてみてくれよ!」

「今!?」

「ひかる弾いてよーっ!」


 冬矢の提案に少し驚いたものの、鞠也ちゃんにまでせがまれてしまったのでそれに応えることにした。


「わかったよ。もう夜だから少しだけね」


 アコギはアンプに繋がなくても大きな音が出る。ジャカジャカと音を出すには近隣住民に迷惑になる可能性がある。なので、軽く小さな音で弾いてみることにした。


「うわ。エレキよりデカい」


 ソファに座り、膝の上にアコギを置いてみると明らかにエレキより大きかった。そして弦もなんだか硬くて押さえづらい感じがした。

 俺は軽く弦を弾きながら、そのまま自分の耳だけでチューニングを済ませる。


「じゃあ『空想ライティング』のサビあたりね」


 そうして俺はあまり音が出ないように軽くアコギを弾き始めた。

 手元にピックがないので、直接指で弾いた。


「笑顔が見たくて 必死になって話して ♪」

「いつの間にか 一瞬で 時間が過ぎてゆく ♪」

「世界が君を 認めなくても 僕は ♪」

「刹那の思い出を 透明なページに 書き込んでいく ♪」


 サビの部分を弾きながら、その部分に当てはまるフレーズを小さな声で歌う。

 まさに弾き語りような感じになっていた。


「おおおおお〜っ。ひかるすごいっ!」


 鞠也ちゃんの称賛の声と共に皆から拍手をもらった。


「……別に歌ってとは言ってなかったんだけどな」

「あ……」


 すると冬矢からツッコまれた。

 確かにそうだ。

 いつの間にか口ずさんでしまっていた。


「まぁ良いんだけどよ。いいもん見れたわ」


 別に減るもんじゃないし結果オーライだ。


「やっぱ音楽やってる男の子ってかっこいいね!」


 理沙がソファに座る俺を見上げならそう言ってくれる。


「はは、ありがと。でもバンドマンってあんま良くないらしいよ。付き合っちゃいけない3Bとか言われてるらしい」


 美容師・バーテンダー・バンドマン。

 俺にはよくわからないが、冬矢に昔聞いたことがあった。


「それは冬矢みたいなやつのことでしょ? 光流はそういうんじゃないじゃん」

「だとしたら、もうバンドマンって関係ないような気もするけど」


 理沙が冬矢の印象を落とすような発言をする。

 冬矢だってバンドしなくても女性に囲まれていたわけだし、それを考えるとバンドをしてるかどうかは関係ない気がした。


「バンドってモテたくて始めるやつが多いからな」

「ほら〜。やっぱそうなんじゃん」


 自分で自分の首を締めることを言い出す冬矢。

 それを聞いて理沙が少し引いた表情をしていた。


『やっぱモテるにはバンドだよな!』


 バンドを一緒にやろうと冬矢が病室で言った時の言葉だ。

 確かにこいつのことだった。


 いや、俺だって透柳さんに言われてルーシーの為にギターをやろうと思ったなら冬矢と似たようなものかもしれない。




 …………




 そうして、弾き語りを終えた後は続々と他の面々からもプレゼントを渡された。


 女子が多いせいか、女子が好きそうなプレゼントが多かった。

 ただ、その中でも別ジャンルのプレゼントをくれたのが千彩都と開渡だった。


 そんな二人からプレゼントされたのは腹筋ローラーだった。


 持っていない器具だったので普通に嬉しかった。

 その場でやってみせてと言われたので、なんとかやってみせた。


 普通は膝をつけた状態でやるらしいのだが、俺は立った状態から膝をつけずにやることができた。

 せっかくなので、膝をつけた状態でしずはや陸、理沙や朱利などにやらせてみたのだが、一度もできずにベタンと床に伸びていた。


 女子の中でもただ一人できたのは鞠也ちゃんだった。

 吹奏楽部でトランペットを担当している鞠也ちゃん。走り込みや腹筋もさせられているようで、筋肉がついてきたらしい。



 そうしてプレゼントをもらった後はお喋りしたりゲームをしたりして楽しい時間を過ごした。

 外が真っ暗になり夜も更けていくと、誕生日会はお開きとなった。


 皆を玄関で見送り、家の中には家族のみ。




 …………


 


 俺は後片付けを手伝っていた。


「――ほら、灯莉。アレ」

「おっけ〜」


 キッチンにいた母と姉がそう会話すると、姉が俺がいるソファの方まで近寄ってくる。


「光流、ちょっと二階にきてよ」


 まだ片付けの途中だというのに、俺を二階に呼び出す姉。

 母も何か知っているようだった。


「光流、こっちは父さんたちに任せなさい」


 父にもそう言われてしまったので、俺は姉に着いていき二階へと上がった。



 すると姉は自分の部屋に入り、何やらゴソゴソとし始めた。

 数十秒後、部屋から出てきた姉の手には紙袋があり――、



「――光流、誕生日おめでとっ」


 そう言うと姉は俺にその紙袋を渡してきた。


「えっ? さっきもらったじゃん」


 しかし、おかしい。既に姉からは別にプレゼントをもらっていたのだ。

 その時姉が「大事に使いなさい」と言いながら渡してくれたのは爪磨きするためのやすりのようなものだった。

 長くギターをしてきて指先がよく汚れたりしていたので、綺麗にということだろう。


「まぁまぁ、いいから受け取っておきなさい」

「?」


 姉がニヤニヤしながら紙袋を渡してくる。

 俺は不思議に思いながらもそれを受け取った。


「じゃあ、あとは自分の部屋で中身確認してみなさい。私も中身はなんなのかわからないんだから」

「う、うん……」


 中身がわからないって、尚更意味がわからなかった。

 もしかすると家族で一緒に何かを買ってくれたのだろうか。冬矢たちも一緒に買っていたのでありえる。

 お金だけ渡して父と母に買うものを任せ、自分はその中身を知らないということかもしれない。


 姉が俺に紙袋を渡すと、再び片付けを手伝いに一階へと降りていった。



 そうして俺は一人で自分の部屋に入り、テーブルの上にその紙袋を置いた。


 テーブルの前に腰を下ろすと、訝しげにその紙袋を開けてみた。

 すると入っていたのはプレゼント包装された小包と封筒のようなもの。


 まず、封筒のようなものを紙袋から取り出す。


 手に取った封筒を目の前まで持ってくると見えたもの。

 それは――、





『――九藤光流様へ』




 封筒の表側、その中心に刻まれていたのは達筆でとても綺麗な文字だった。




「俺宛ての……?」




 そのまま封筒を裏返してみる。


 すると、裏側の右下に小さく文字が刻まれていた。

 それは、短くも……でも、ある意味長いとも受け取れる文字だった。



 そして、その文字はこの五年間ずっと待ち焦がれていた――毎日、一日たりとも忘れたことのなかった文字。





『――宝条・ルーシー・凛奈』





「ぁ…………」




 その文字を見た瞬間、声にならない吐息が漏れた。

 体の内側が一気に熱く燃え上がり、心臓がキュッと締め付けられたように全身が硬直した。

 今、目の前で起きている出来事が信じられず、頭が混乱する。




「あぁ……あぁ……っ」




 しかし、徐々に徐々に、これは現実なんだと理解していった。


 既に目の前には透明な靄のようなものがかかり、視界が見えづらくなっていた。

 何かが瞼と並行に溜まっていく感覚。今にも零れそうで、俺は一度上を向いた。


 すると部屋のライトが目に入り、視界が真っ白になる。


「すぁっ……」


 突如出てきた鼻水と息を同時に吸い込む。

 しかしその動作で、目端から雫が一つぽたりと落ちてしまう。


 一度目を瞑り、顔の位置を元に戻す。

 そうして、再び封筒を視界に入れる。


 そこに刻まれていた文字は、先ほどと変わらず俺の一番大切な人の名前が刻まれていて――、



「――ルー、シー……」



 その人の名前を呟きながら優しく優しく封を開ける。

 すると、そこから出てきたのは見覚えのある便箋だった。


 あの、金髪の青年が俺に渡してくれた便箋と同じデザインのもの。



「はは……やっぱり、そういうことだったんだ」



 あの人はやっぱりルーシーのお兄さんだったんだ。

 二人の兄のうち、どちらなのかはわからないけど、俺とルーシーを繋いでくれたんだ。



 俺が手紙を出してから一ヶ月と二週間。

 ルーシーから手紙の返事が届いた。



 そして、ルーシーと離れ離れになってしまってから約五年間。

 初めて彼女からのアクションを受け取った。



 この五年間で初めて、俺はルーシーとの繋がりを感じることができた。


 手紙には何が書かれているのか。

 拒絶のような言葉だったらと考えると少し怖い。


 でも、返事をくれたということだけで、俺の心は何か温かいもので満たされていた。

 その温かさのお陰で、もう怖いとは感じない。


 だから――、






 ――俺は意を決してゆっくりとルーシーからの手紙を開いた。






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