88話 感謝
――俺がしずはの告白を断って、少し時間が経過した。
夕陽ももう落ちてきて、暗くなり始めていた。
お互いに少し落ち着いてきたことで、冷静に会話ができ始めていた。
「光流……顔ひどいね」
「しずはだって同じじゃん。しかも――」
「しかも……?」
今日は言いたいこと全部言いに来た。
だから正直に全部答えるんだ。
「――ピアノ……下手くそ……」
この言葉はどうしずはに聞こえるだろうか。
「ふふ……」
俺はしずはの目を見る。
まだ笑っていて。冗談で言っているとわかっているようだった。
「あんなに下手くそな演奏したのいつぶりだろう。ピアノ始めたての頃かな」
「だってさ、手元も楽譜も全然見ないんだもん」
しずはは目を瞑っているし、目を開けたと思えば涙で前が見えていなかった。
「あーあ。終わっちゃったな……」
「ごめん……」
しずはは椅子に手をついて、天井を見上げた。
俺は謝ることしかできずに。
「光流が謝ることないよ。そういうものでしょ」
「それでもな。何度でもそう思っちゃうんだよ」
「ほんっと、光流らしいというか……」
だって、あんなに言ってくれたんだぞ?
今すぐ心を切り替えることなんてできるか。
「――――友達」
「え?」
しずはが一言だけつぶやく。
「友達、やめないよね? 私たち……」
これは……これは。
俺が望んでた未来だ。
「うん。ずっと友達でいたい。今日のことがあって、関わりが薄くなるなんて嫌だよ」
「よかったぁ……」
しずははうなだれるように閉じた鍵盤の蓋に寄りかかる。
「俺もずっと考えてたんだ。友達やめたくないよ……」
「でもさ、私。多分これから先もまだ光流のこと好きだよ? そんな状態なのに友達やっていける?」
そう簡単に割り切れないよな。
俺だって例えルーシーに拒絶されても、気持ちは変わらないと思うし。
「それは、わからない……。そうだとしても、俺は友達でいたいよ」
「じゃあ、いつかルーシーちゃんが日本に来たらどうする? 光流のこと好きな女が近くにいて、ルーシーちゃんどんな気持ちになると思う?」
そんなこと、考えたこともなかった。
そもそもルーシーが今も俺のことを想ってるかもわからないし。
けど、もし想ってくれてるなら、しずはみたいな存在が近くにいたらどうなるんだろう。
「それでも……わからない。それでしずはが俺と距離置くって……凄い悲しい気がするよ」
「ルーシーちゃんの気持ちはどうなるの? 私だったら、なんか嫌だなぁ……」
じゃあしずはと関わりないようにするって?
それはやっぱり違うよ。
でもこのことをルーシーに押し付けるのも違う気がするし。
「あぁー、わからない! 何が正解なんだ」
「ふふ。悩んでる」
「なんだよ。悩むよそりゃあ」
しずはが、俺をからかいだした。
何か少し吹っ切れたのだろうか。
「ほんと優しいんだから。私なんかもう近づくなとか言っちゃえばいいのに」
「嘘でもそんなこと言えないよ。俺が言えるはずないのわかってるでしょ?」
「でも光流はルーシーちゃんのためなら、何でもやりそうじゃん」
「それは違うよ。いくらルーシーのためだからって、俺がおかしいって思ったら指摘するし、相談もする。ルーシーのために頑張れるけど、言いなりになるわけじゃない」
まだよくわからないけど、仲良くなる人とは、対等であることが大事だと思う。
「じゃあ、相談してみなよ。私みたいな子がいるって。光流に付き纏ってる変な奴がいるって」
「もう……なんでそういうこと言うかなぁ」
そんな酷いこと言えるわけないのに。
でも相談か。他の女の子の話なんて、聞きたいものなのだろうか。普通は嫌なはず。
俺だってルーシーが他の男の話を楽しそうにしていたら嫌だもん。
なら、相談ってできるのか? でもルーシーは人の話を無下にする人じゃないと思う。
「ふふ。私振られたんだから、このくらいいいでしょ? もっとたくさん困ってよ」
「こわっ。俺に対する性格変わりそうなんだけど……」
「そりゃ変わるよ。今まで光流に対して言えなかったことも多分言っていくし」
良くも悪くも俺の影響を受けてるんだよな。
休み明けからのしずはは、どんな接し方になるんだろう。
文化祭は土日で行われた。
だから振替休日で月火は休み。水曜から授業が再開される。
「――俺、決めた。新しいこと、始める」
「なに……?」
ずっと返事をしてなかったあること。
もう三ヶ月も過ぎてしまったけど。
「ギターやる。今決めた。しずはが変わるなら俺も変わる」
「……お父さんのやつ?」
そう、しずはの父である透柳さんから誘われていた話。動機は何でもいい。好きな女に何かを伝えたい。そのためにやる。
「うん。だからさ、透柳さんと関わることになるから、しずはと離れるってことにはならないと思う」
「光流……」
透柳さんにメッセージしなくてはいけない。
俺が決めたことを。
「…………」
「――俺、そろそろ行くね」
「……うん」
俺は椅子から立ち上がった。
もう何を言えばいいのかわからず、そのまま出口へと向かった。
すると突然後ろから衝撃が加わった。
「しずはっ?」
「こっち見ないでっ!」
俺の両腕が後ろからしずはの手で掴まれていて、俺の背中に彼女の頭らしきものが当たっていた。
振り向こうとしたのに、拒否されてしまい。
俺はそのまま棒立ちになった。
「多分、こういうことも、もうできなくなるんだろうな」
「しずは……」
するもしないも、しずはの自由だけど。
でも、俺の気持ちを知ってるしずはには、できないのかもしれない。
「簡単に割り切れないよ? 大好きなものは大好き。ルーシーちゃんと光流がくっついたら絶対嫉妬しちゃうもん……」
「うん……」
その気持ちを止める権利なんてあるはずはない。
俺もルーシーが他の人となんて考えたら……。
「だからさ……今だけ、また花火大会の時みたいに背中だけ、貸して……?」
そう言えばそうだった。
あの時しずはをおぶったっけ。
「わかった……」
俺は特にすることもなく、ただその場に立っているだけ。
すると頭だけだった接触部位が増えて、体全体で抱きしめられている状態になった。
「光流からは何もしちゃだめ……そんなのルーシーちゃんによくないから……」
なんでそんなにルーシーのこと思いやれるんだよ。
今、目の前にいるわけじゃないのに。話したこともないのに。
「どうして……」
「光流が好きになった子だよ? 良い子に決まってるじゃん」
「――――ぁ」
しずはから見れば、そう見えるのかもしれない。だから、この場にいないルーシーにも気を遣えるのか。
「あったかくて、大きいなぁ……」
しずはが俺の背中に顔を擦り付けるように堪能する。
「身長も伸びてきたし……本当に男の子になってきたね……」
「成長期、だからね……しずはだって成長してるだろ?」
「あ、それセクハラだよ〜?」
と言いながら、自らの膨らみを俺の背中へ押し当てていて。
「ちょっ、これ、もう……」
「光流っ! ……振り返らないで、そのままいって!」
しずはが俺から離れた。
そして背中をトンっと両手で押して、体を前に進めさせる。
「うん……」
俺は振り返らないまま、扉へと向かう。
そして、扉の前で一瞬立ち止まる。
「しずは……俺からもありがとう。好きになってくれて……」
「――――っ」
しずはが今どんな表情をしているのかわからない。でも――、
「しずはと出会えて良かった。だから、休みが明けて学校が始まったら……また仲良くしよう」
俺からも感謝を伝えたかった。
「…………うんっ」
小さな声だった。
それは独り言のように喉から絞り出されたような、そんな声。
どんな感情なのかわからない。
でも、言われた通り振り返ることは許されない。
俺は音楽室の扉に手をかけ、スライドさせる。
そして、振り向かないまま扉を閉めて音楽室から出ていった。
◇ ◇ ◇
音楽室を出てから廊下を歩き、荷物を置いていた自分の教室に戻ろうと階段に差し掛かった時だった。
その階段に座っていた人物がいた。
「――深月、ずっと待ってたのか?」
上階へと上る階段の三段目あたりに座っていた人物。それは深月だった。
「――終わったの?」
俺の問いには答えず、今の今まで何が起きていたのかを知っているような口調で。
「あぁ」
すると深月が立ち上がり、スカートの裾についた埃を払う。
「酷い顔ね」
「しょうがないだろ……」
だって少し前にあんなに泣いたんだから。
「あとは私に任せなさい」
「……わかった」
そうだよな。やっぱりしずはのために待ってたんだよな。
義理堅いというか、優しい奴だって最近わかってきた。
今の深月はとても頼りに見えて。
しずはを任せられるのは彼女しかいないと思った。
俺は深月の背中を見送ったあと階段を降りた。
◇ ◇ ◇
――光流の背中を見送って、私は一人音楽室に残った。
音楽室の中央から歩いて、再びピアノ用の椅子に座る。
「ほんとに終わっちゃったな……」
結果は変わらなかった。結局今まで私が頑張ってきた努力も光流の心には届かなかった。
光流の様子を見れば、届かなかったわけではないと思う。
でもそれほど、光流にとってはルーシーちゃんが大きい存在なのだと気付かされた。
――全てを出し切って、告白できたような気がする。
だからなのか、やりきった感が出ていて不思議とすっきりしていた。
「これからどうしよう……」
一人の為に色々なことを頑張ってきたけど、頑張る理由がなくなってしまった。
好きな気持ちがなくなったわけでも諦めたわけではないけど、今は少し休みたいような気分だ。
「――私、今どんな顔してるんだろう」
ぐしゃぐしゃに泣いて、ピアノもちゃんと弾けなくて。
でも確かに光流に想いは届いていた。
光流は泣いて酷い顔になっていた。私も酷い顔になってるんだろうな。
『ガララ……』
そう一人で感傷に浸っていると音楽室の扉が開いた。
「深月……」
深月が音楽室に入ってきて扉を閉めるとズカズカとこちらに向かって歩いてきた。
その表情は何を考えているかわからないような無表情で。
なぜか深月に顔を見られるのが恥ずかしくて、私は下を向いてしまった。
すると深月は先程まで光流が座っていた椅子に座った。
「――それで? 金賞とれたの?」
音楽をやっている人ならではの聞き方だった。
「……参加賞かな」
これはどうなんだろう。演奏自体は酷いものだった。
でも、気持ち的には金賞をあげたい。そんな演奏だったように思う。
「ふーん……」
「な、なにさ……」
深月の言いたい事がわからない。
でも、ここに来てくれたということは、私を気遣ってくれてのことだろう。
私は残ってなんて言ってないのだから。
「ちょっとこっち向きなさいよ」
「あっ……今はだめっ」
深月が近づいてきて、無理矢理に私の顔を両手で掴んで前を向かせた。
「あっ……これっ……だめ……」
「――酷い顔ね」
「あれ……私……なんで、いま……っ」
告白して、やりきって、すっきりしたはずなのに。
深月の顔を見たら、なぜかこうなった。
さっき泣き尽くして、もう涙は流れないと思っていたのに。
なんで今、こんなにも気持ちが溢れてくるんだろう。
「うぅ……うぅ……っ」
止まらない。だめだ。
やっぱり私、すっきりしてなんか……。
深月が私の顔を掴むのを止めて、手を下ろした。
「あんたの演奏、今までで一番よかった。――私が金賞をあげてやるわ」
深月の一言。それが心に響いてしまって――。
「ぁ……ぁ……」
だめ。そんなこと言われたら。
溢れてくる。
「みづ、き……そんな……こと……」
もう抑えきれない。
「みづきっ、みづきぃっ! わたし……わたし……振られちゃったぁぁぁっ!!」
私は深月に抱きついた。
誰かの温もりが欲しくて寂しくて、気づけば目の前の親友に飛びついていた。
普段こんなことはしないはずなのに、深月は優しく私を抱き締め返してくれた。
そのまま頭も撫でてくれて。
それがどうしようもないほど嬉しくて、すがってしまう。
「はぁ、なんで最強のあんたを私が慰めなくちゃいけないのよ……」
「みづきぃ……つらい……つらいよぉ、悔しいよぉぉ……!」
止まらない涙が深月の肩にぽつりぽつりと落ちていき、ブレザーに染みていく。
小学生の時はちーちゃんだったけど、今は深月。
いつも私の近くにはこういう存在がいて本当に幸せ者かもしれない。
…………
…………
しばらくそのままでいて、十分くらい経過しただろうか。
私はやっと深月を離した。
「あんた力強いのよ……」
「ごめん……」
力が強いというか、思いっきり抱き締めてしまったせいだ。
「で? あんたこのまま落ちぶれないでしょうね?」
「――――っ」
ドキっとした。
ほんの少し前まで頑張る理由が消えてしまって、休みたい気分だと思っていたから。
「あんたね……」
私の顔を見てか、深月が心を読んだようなことを言った。
「そんなの……許さない」
「――え?」
深月は鋭い目をこちらに向けてきた。
「許さないって言ってんのよ!!」
「深月……でも……私……」
深月が私の両手首をぎゅっと掴んでくる。
ブレザーの裾が皺になってしまいそうになるくらい強く。
「あんたはねっ! ずっと昔から凄くて……憧れで……ライバルなのよっ!!」
「…………」
真正面から。
こんなに強い感情を向けてきた深月はいつ以来だろうか。
それとも、はじめてだろうか。
「だからここで落ちぶれて、ピアノを頑張らないなんて絶対許さないっ!!」
「でも、私……今はちょっと……」
自分でもこんな感覚になるとは思わなかった。
燃え尽き症候群……みたいな感じなのだろうか。
「――たかが男一人に振られたくらいで!」
「そ、それは……! 深月にそんなこと言われたくない!」
ムッときた。光流についてそこまで言われる筋合いはない。
"たかが"なんて一言で済ませられる相手じゃない。
深月だって、それはわかっているはずなのに。
「うるさいっ! ……そんなにあいつのことが好きならねっ! もっと頑張って見返してやりなさいよ!!」
「――――え?」
どういうことだろう。
深月には私には見えない何かが見えているのだろうか。
だから、呆けた声を出してしまって――、
「あんたを振ったこと後悔させるくらい、すごい奴になりなさいよ!!」
「ぁ……ぁ……っ」
そっか。そういうこともできるんだ。
今はまだ、視野が狭くなっていたけど。
悔しいパワーを前向きに変えることだってできるんだ。
「手の届かないくらいすごい奴になればっ……あいつだって、悔しがらせることくらいできるはずよっ!!」
「みづ、き……っ」
深月の声が、どんどん強くなる。
そんなに大きい声で言わなくても目の前にいるんだから、全部聞こえているのに。
それでも必死に私に伝えようとしてくる。
「あんたはね、この私が認めてるくらいすごいのよっ!! まだなんも持ってないあいつよりすごいの! だからっ……だからっ……」
私の手首を掴む深月の腕が震えだす。
「――そんなこと……言わないでよぉ……」
深月は最後には力なく、私の手首を掴んでいた手を離して、下ろした。
そして、深月の目には今まで見たことのないくらいの大粒の涙が溜まっていた。
その溜まった涙が次第に零れていって――、
「ぁぁ……ぁぁ……っ」
私もそれを見てしまったことで感情が動かされる。
再び感極まってしまい、深月と一緒に泣いてしまう。
「みづきっ……私、みづきと友達で……よかったっ」
「そう……思うならねっ……強いあんたでっ……いなさいよっ」
いつの間にか、再び深月を抱き締めていた。
深月も今度は力強く抱き締め返してくれて――、
「うんっ……私……まだがんばるっ……もっと、もっと凄くなるから……っ」
深月が私の友達で良かった。小さい頃から一緒にピアノで競ってこれて良かった。
光流が傍にいなくても、こんなに自分を想ってくれる人が近くにいて、私は本当に幸せな人間だ。
何度流したかわからない涙で体中の水分が抜け落ち、酷かった顔もさらに酷くなった。
ただ、音楽室に入ってきた時に私の顔を貶していた深月まで酷い顔になっていた。
…………
…………
深月と一緒に音楽室を出た時にはもう外は真っ暗で、そのお陰で他の人に顔が見られなくて良かったと思った。
家に帰ると私の顔を見て母が察したようで、今日の夜ご飯は自分の部屋で食べられるよう運んできたり、温かいココアを淹れてくれたりした。
他の家族とはできるだけ会わせないよう配慮し、何も言わずに淡々とこなす母の気遣いに私はつくづく感謝した。
もう人生でこれ以上の恋はできないかと思うくらい全てを注いできた。
これからの恋愛は、良くも悪くも光流のことが頭を過るだろう。
光流よりも好きになれる人ができるのだろうか。
そんなの、まだ中学生だしわかるわけもない。
このあとしばらく引きずるのは確定してる。
でも、一つだけやりたいことができた。
より高みに行くために高校を卒業したら海外の大学に留学する。
世界の音楽を学んで自分のピアノの技術をもっと上げる。
深月に言われた通り、光流の手が届かないくらいすごい人になってやる。
大変な一日だった。
顔も感情もぐちゃぐちゃになって。自分じゃないみたいに。
終わってしまったと思っていた私の人生の演奏。
でも、深月の話を聞いて私はまだ
何の曲を弾くかは自分次第。
それなら、
――私の人生をかけた告白の日は終わりを告げた。
でも、私の人生はまだ始まったばかり。
ここから、いくらでも色々な世界を見ることだってできる。
その一番のきっかけをくれたのは、やっぱり一人しかいない。
ちーちゃんでも、深月でも、お母さんでもなく。
だから、何度でも言いたい。
――光流、私と出会ってくれて本当にありがとう。
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