細君は静かに笑う

@d-van69

細君は静かに笑う

「もう、食べちゃいたい」

 ベッドの上で俺はモエの豊かな胸にむしゃぶりついた。

「やだもう。さっき食べたばっかでしょ」

 身をくねらせて逃げた彼女は、シーツを手繰り寄せて体を隠した。

「でもモエちゃん可愛いからさ、何度だって食べれるんだよ~」

 妻にも見せたことがないような甘えた態度でモエの隣にごろりと体を投げ出した。すると彼女が俺の耳元に唇を寄せ、囁くように言った。

「ねぇ。私たち付き合いはじめてからもう3ヶ月なんだけど」

「ん?なんだよ急に」

 モエは含み笑いを見せてから、

「その記念にさ、旅行へ行けないかなぁ、って思って」

「旅行?俺、結婚してんだぜ」

「わかってるわよ。だから奥さんには、出張ってことにすればいいじゃん」

 大丈夫だろうか。そんなときに限って会社に電話をかけられて嘘がばれそうな気もするが……。そんな不安が顔に出ていたのか、彼女は見透かしたような視線を俺に向けた。

「奥さんが会社に電話かけてきたらどうしよう、なんて思ったでしょ」

 図星を指され、苦笑交じりにうなずいて見せる。

「心配ないって。結婚してから今日まで、奥さんが会社に電話をかけてきたことなんてあった?」

「いや、ないな」

「でしょ?急用があれば携帯にかけるんだから、会社に電話することなんかないって」

「そうかなぁ……」

 逡巡する俺を、期待に満ちた眼差しでモエが見つめる。彼女と会うのはたいてい仕事が終ってからだ。食事のあとこの部屋に来て、セックスをして別れる。たまに買いものに付き合うこともあったが、人目を気にしてのデートなので気が気ではない。旅先でならのんびりと、そして堂々と手をつないで歩けるのではないか。そう考えた。

「うん。行ってもいいかもな。旅行」

「やったー」とモエが小躍りする。

「で、いつにするんだ?」

「来週の金曜!」

「来週?」

 驚く俺に彼女はいたずらっぽく笑ってから、

「実は、もう予約もしちゃったの」

「おいおい。待ってくれよ」

 慌てて飛び起き、スケジュール帳を取り出した。

「大丈夫よ。何も入っていないのは確認済みだから」

「え?勝手に見たのかよ」

 モエをひと睨みしてから来週のページを開く。そこには彼女の筆跡で出張と書き込まれていた。



 妻は出張だと言う俺の言葉に疑う様子など全く見せず、笑顔で見送ってくれた。

待ち合わせの駅近くの喫茶店には約束の5分前に着いた。ところがモエの方は30分が過ぎても姿を見せなかった。携帯電話にかけてみるものの電源が入っていない状態だ。とりあえずメッセージを送ってみるが既読のマークもつかない。

 1時間が過ぎたところで仕方なくモエの自宅へと向かうことにした。彼女の身になにかあったのではと不安になったからだ。

 部屋のドアには鍵がかかっており、ノックしても応答はなかった。どうしたものかと途方に暮れていると、お隣さんのドアが開いた。出かけるところのようだ。

 慌てて呼び止めてから名刺を差し出した。

「すみません。私、石川モエの同僚で浜田と申します。実は今朝から彼女と連絡が取れなくて困っているのですが、なにか心当たりはないでしょうか?」

「ああ、田舎に帰ったみたいですよ。昨夜、お母さんが急に倒れられたみたいで」

 隣人の話によると、1時間ほど前にモエの部屋から見知らぬ女性が出てくるのを見かけた。大きなスーツケースを運んでいたので不審に思いつつ見ていると、モエの友達だという。昨夜遅くにお母さんの知らせを受け、モエは慌てるあまりに体一つで田舎に飛んで帰り、今日になって身の回りの荷物を持ってきてくれないかとの連絡が入った。と言うことらしい。

 なるほど、そういうことなら気が動転して俺に連絡がないことも頷ける。

 隣室の女性に礼を言ってからアパートを後にした。

「さて、これからどうするか……」

 まずはお母さんの容態を知りたいところだが、これはモエからの連絡を待つほかない。次に宿のキャンセルもすべきだろうが、行き先は彼女しか知らないのだからどうしようもない。

 それから俺だ。有給をとっているので会社に顔を出すわけにもいかないし、だからと言ってすぐに家に帰ることもできない。出張と偽っているのだ。それにこの辺りは妻の生活圏でもあるからいつまでもうろついてはいられないし。

 仕方なく隣県に移動し適当なビジネスホテルに一泊することにした。それから家に帰れば問題ないだろう。



 翌日、玄関のドアを開けるとカレーのいい香りが漂っていた。それに誘われるように進むとキッチンに妻がいた。

「あら、おかえりなさい。昨日から煮込んでいたんだけど食べる?それとも先にお風呂?」

「じゃあ、先に風呂にするよ。さっぱりしたいし」

 湯船につかりながら考える。昨日も今日も結局モエから連絡は来なかった。お母さんの具合が相当悪いのか、それとも単に俺のことを失念しているだけなのか。とにかく後でまた電話をかけてみよう。

 風呂から出るとテーブルの上にはカレーライスが一皿置かれていた。俺の分だけだ。

「ん?お前は食べないの?」

 シンクの前に立つ妻に問いかけると、

「うん。今日は食欲がなくて」

「え?こんなカレーのいい香り嗅いでおいて、食欲わかないの?」

「しょうがないでしょ。肩がバキバキに凝ってるんだもん。昨日今日とやりなれないことやったせいかな」

「やりなれないことって?」

 問いかけたもののそれには答えず、妻は辛そうに首をぐるぐる回しながら、

「私もお風呂に入ってちょっとほぐしてくるわ」

 そう言い残してバスルームのほうに消えた。俺の質問に答えないことが気に障ったが、風呂から出たらまた訊けばいいだろうと思い直し、目の前のカレーに手をつけた。

 全て平らげたところでふとモエのことが頭に浮かんだ。そうだ。妻が風呂の間にもう一度電話してみよう。

 携帯から電話帳を呼び出し彼女の番号をタップする。呼び出し音を聞きながら待つうち、どこかで聞き覚えのある着信音が鳴っていることに気づいた。

 耳をそばだてるとそれは普段使っていない和室から聞こえてくるのがわかった。閉じていた襖を開けると、部屋の隅に置かれた大きなスーツケースが目に付いた。音はその中から聞こえてくる。

 どうしてこんなところでと思いつつ灯りを点け、部屋に入ったところで気づいた。スーツケースの下に敷かれた新聞紙。そこに赤黒い染みができていた。

「やだ、電源切り忘れていたのね」

 背後からの声にびくりとしながらも、慌てて電話を切ってから振り返る。全裸にバスタオルを巻いただけの妻が立っていた。その視線はスーツケースに向けられている。

「おい、あれ何だよ」

 妻はすっと俺に視線を移すと、

「どうしたの?顔色悪いわよ」

「そんなことどうでもいい。あれはなんだと訊いてるんだ」

「スーツケースじゃない」

「中は?」

 すると妻はうっすらと笑い、

「なによあなた。もうわかってるくせに」

 スーツケースに向けていた指先がいつの間にか震えていた。もう一方の手でそれを押さえながら妻を睨む。

「なんで?どうしてこんなことを」

「最初は私だってこんなことするつもりじゃなかったのよ。ただあなたに手を出すなとだけ言いたくてあの娘の部屋に乗り込んでやったのよ」

「は?お前あいつに会ったのか?」

「当たり前でしょ。その結果がこれなのに」

 まさか、妻は全部お見通しだったってことか……。

「じゃあなぜこんな結果になったんだよ。話に行っただけだろ?」

「だって、あの娘が勝ち誇ったように自慢するんだもん」

「自慢?」

「食べちゃいたい、なんて言われたことあります?ですって」

 うんざりした顔で言ってから、

「あまりにも腹が立ったから、あなたの願いを叶えてあげようと思ったのよ」

 妻は意味ありげな笑みを見せた。

 それで悟った。

 なぜ妻は肩が凝っていたのか。

 なぜ妻はカレーを口にしなかったのか。

 そして、そのカレーに何が入っていたのかを。





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