03 見届けるつもりで
果てのなき広大なる世界、フォアライア。
世界には三つの大陸が存在した。南にファランシア、北西にリル・ウェン、そして北東にラスカルト。大陸の奥にはそれぞれ、天頂の見えぬ大山脈や霧深き大森林、灼熱の無限砂漠が人の行く手に立ちふさがり、その向こうへ行って戻ってきた者はいない。
世界の果ての謎は一部の
ラスカルト大陸の北部に、マールギアヌと呼ばれる地方がある。
小さなものから大きなものまで、いくつもの国々がひしめきつつ、それぞれの領土と分を守っている時代。
二大国のひとつカル・ディアルを主な仕事場としていた
四十ほどの男と女がふたりで旅をしていれば、夫婦ものだと思われる。彼らは遠慮する間柄でもなかったから宿はひとつ部屋であったし、食事も一緒に取った。そうしたことからも彼らは「護衛とその護衛対象」と考えられるより、自然と夫婦に見られた。
タイオスは、そう思われようと言われようと何も嫌ではなかったが、こそばゆい感じがした。
結婚だの妻だのということを考えなくなって久しい。いや、「いつか引退したら、平和な村で境を守りつつ、できれば若くて美人の妻を傍らに」というのは彼がよく口にする「将来の夢」であったが、殊に後半部分については、そんなに真剣に考えていた訳でもない。たとえば小さな子供が「大きくなったらすごい戦士になるんだ」と言うような、茫洋とした思いである。
もしも真剣に考えるとしたら、若くて美人の妻も――得られれば――悪くないが、傍らにはティエ、というのが落ち着く想像だったろう。実際、たまにそうしたことを思いもした。ただ、想像の域を出なかった。
それがこの旅で、思いがけない仮想体験だ。
単に「旦那が戦士じゃ、奥さんは心配だろう」だとか「かみさんを守って旅路とは、いい旦那だな」だとか、そうしたことを言われるだけだが、不思議な気分だった。
もしかしたら、それは有り得たことだったのかもしれないな、という感覚。
選ぶ道が少しだけ違えば、彼らは本当に夫婦ものだったかもしれない。
(まあ、だからどうだと言うのでもないが)
いまさら、若者のように照れるでもない。
ティエも初めのうちは苦笑など浮かべていたが、次第に「旦那の戦士」を時に持ち上げたり、時に腐したりする「長年の妻」の役割を演じて楽しんでいる風情だった。
コミンを出て、およそひと月半。
国境を越え、アル・フェイル国入りをしてからも、もう長い。
アル・フェイル。それはカル・ディアルに隣接する大国だ。二国はマールギアヌ地方における二大国で、その国土も国力もほぼ拮抗していた。過去には小競り合いも多々あったが、いまでは盟約を結び、長い国境線での諍いはほとんどない。関所によっては兵士同士の仲が悪いこともあるものの、逆に同僚のように親しみ、食事を共にするような場所もあると言う。
彼らふたりの通った関所は何の問題もない場所で、簡単な質疑応答だけで彼らもまた国境を越えることができた。
その先は旅慣れたタイオスにも知らない土地であったが、常識がそうそう大きく変わることもない。ふたりは順調に旅路を進め、ついにホルッセ劇団の滞在する街ワイディスにたどり着いた。
「やれやれ。ようやくだな」
戦士は大きく伸びをした。
「さあ、早速、劇団を訪れるか」
「あら」
ティエは片眉を上げた。
「そんなに早く、厄介払いしたいの?」
「馬鹿言え」
タイオスは苦笑した。
「何のためにここまできたんだ」
「もちろん、劇団に雇ってもらうためだわ」
コミンの町で彼女が偶然再会したラサードは、かつてティエが踊り娘として所属していた〈バスド一座〉で
それからティエはコミンの娼館〈紅鈴館〉で、半ば身体を売りながらも踊りを続けていたが、年齢と共に春女としての仕事は減っていった。彼女が首を切られなかったのは、わずかながらもタイオスのような固定客がいたことと、あとは指導の才があったためである。
ティエが指導に回るようになってから〈紅鈴館〉の踊りは見違えるほどよいものとなり、タイオスは実にもったいないと思っていた。あの店は芸事を見せることも売りにしているが基本は娼館であり、訪れる客のほとんどは、踊りよりもどの踊り娘を指名するかということにしか興味がなかったからだ。
そこにやってきたラサードは、在籍するホルッセ劇団の踊りがいまひとつぱっとしないことを気にかけており、〈紅鈴館〉の教師は誰だと尋ねて彼女に再会した。
ラサードは彼女を劇団に誘ったが、ティエは長いつき合いのタイオスに何も言わずに去ることを躊躇い、彼の帰還を待ってから劇団を追うことにしていた。
ややこしい出来事の決着を見て――或いは、見ないままで――カル・ディアからコミンに戻ってきたタイオスは、ティエの話を聞き、彼女を劇団まで送り届けることにした。
そうして、ふたりでここまでやってきたのだ。
「まあ、アル・フェイルと聞いたときは、ちょっと引いたがな」
「思っていたより遠かった、ということ?」
「距離や時間は、別にかまわん。ただ、この国にはあんまり会いたくない奴がいる」
戦士は顔をしかめた。
もっとも、彼の「会いたくない相手」は首都アル・フェイドにいる。ここワイディスからは更に一旬ほどかかろうかという距離だ。偶然ばったり会うようなこともないはずである。
「それじゃさっさと仕事を終えて、いつでも逃げられるようにしましょうか」
くすくすとティエは笑った。そこでタイオスは、はっとした。
「おい、ティエ」
「何?」
「その、すまん」
彼が謝罪すれば、女は目をしばたたいた。
「何よ」
「いや、その……何だ。たどり着いたということは」
「ここでお分かれ」
ティエは先取った。
「いまごろ気づいたの?」
「いや、そういう訳じゃないんだが」
ホルッセ劇団は旅の一座だ。これからはもう、どこへ行けば――または、帰れば――ティエに会える、彼女を抱けるということはなくなる。
もちろん判っていて、見届けるつもりで、ここまできた。
「いま気づいた」のは、「さっさと済ませて分かれよう」と言ったも同然の台詞を吐いたことだ。
「――しばらくは滞在する。何か仕事を見つけてもいい」
「そうね。そうして頂戴。私が雇ってもらえなかったら、またコミンまで送ってもらうことになるかもしれないし」
「そんなことにはならんさ」
「どうかしらね」
彼女は笑って、じゃあ行きましょうかと言った。タイオスはうなずいて、ふたりは劇団が小屋を掛けているという広場に向かった。
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