幻夜の影―シリンディンの白鷲・3―

一枝 唯

第1話 灰色の影

第1章

01 酒場

 夜の酒場は、騒々しい。

 大きな店であればなおさらだ。

 深夜も近くなってきたというのに、店のなかは夕飯時と変わらぬ賑やかさを保っていた。

 商売繁盛、けっこうなことだ。喧嘩騒ぎの類さえ起きなければ。

 店の護衛は、酔っ払い同士がつまらないいがみ合いをはじめたらすぐに飛んでいこうと、あちこちの席に目を光らせていた。

 「見張られているようで嫌だ」と思う客は、やってこないようになるだろう。だが、「護衛がいるなら安心だ」と考える客も多い。店は不況知らずだった。

「おい、ちょっとこい」

 いつもながらの盛況の夜に護衛を呼んだのは、食堂と厨房を分ける役割も果たす長い台状の卓の向こうで客と話をしていた、白髪の老人だった。

 彼は酒場のあるじで、つまりは護衛の雇い主だ。彼はうなずいて親爺のところに向かった。

「どうした、おやっさん。暴れ出しそうなのでもいるか」

「いや」

 主人は首を振ると客から少し離れ、護衛にもっと顔を寄せるようにと手招いてから、声をひそめた。

「あれを見ろ」

「ああ?」

「馬鹿、見るな」

「どうしろって言うんだよ」

 彼は苦笑したが、主人は真顔だった。

「じろじろ凝視するなと言ってるのさ。お前、それでも戦士なのか?」

「ぴりぴりしながら危ない街道を渡るような真似は、もうやめたよ」

「街んなかをなめるなよ。酒場の騒ぎなんざ酔っ払いの小競り合いばかりだが、だからって甘く見てると、いまに痛い目に遭うぞ」

「気をつけるさ」

 戦士は肩をすくめた。

「それで、何をこっそりと見ろって」

「あれだ」

 主人はそっと示し、護衛も何気なくその周辺を含めて視線を流した。

「……あれが何だ?」

 再び主人に目を戻すと、護衛は不思議そうに尋ねた。

「何の変哲もない、それも実にひっそりとおとなしい旅人じゃないか」

「店のなかで、フードをかぶりっぱなしでもか?」

「そんなの、ちょくちょくいる」

 護衛は笑った。

魔術師リート連中には多いな。まるで人に顔を見られたら死ぬとでも思っていそうな」

「あれは魔術師じゃないだろう」

 護衛の言葉を遮って主人は指摘した。

 通常、魔術師と呼ばれる人々は真っ黒なローブを身にまとって生活している。もっともそれは決まりではなく、魔術師が白いマントを羽織っていたって、商売人が黒ローブを着ていたって、処罰などは下されない。ただ、魔術師たちはそれが彼らの制服であるかのように振る舞い、魔術師でない人物は、まさかそんな忌まわしくて不吉な連中と同一視されてはたまらないから、そんなものを着ない。仮に黒いローブを着用することになっても、どこかに差し色を入れるなどして「魔術師ではない」と示すものだ。

 主人が見ろと言った「あれ」――ひとりの客は、灰色のローブをすっぽりまとい、これでもかと言うほど目深にフードを引き下ろしていた。

「顔を見られたくないだけだ」

 護衛は言った。

「後ろ暗いことがあるんでも、理不尽な理由で追われているんでも。事情はどうあれ、それだって珍しくない」

 そうだろう?――と彼は主人の同意を求めた。

「三人目だ」

 だが主人はそうだとも違うとも言わずに、そんなふうに返した。

「何だって?」

 戦士は目をぱちくりとさせた。

「俺が見ただけで、この一旬に三人目なんだよ、護衛君。ああして顔を隠して、一言も口を利かず、酒だけ少し飲んで消える」

「消える? 魔術師でもないのに?」

「言葉のだ。もちろん、ぱっと消える訳じゃない。どいつもこいつも、出口から出て行った」

 茶化す様子の戦士を睨んで、主人は言った。

「何だか気味が悪い」

「たまたまさ」

 護衛は首を振った。

「顔を隠したい奴が、たまたま三人、この店にきただけ」

「俺が見ただけでだぞ。もっといるのかもしれん」

「いない。いたとしても、たまたま」

 彼は繰り返した。

「おとなしくしてて、少額だろうときちんと金を払って、出て行くんだろう? 何の問題があるんだ?」

「気味が悪い」

 主人も繰り返した。護衛は苦笑いを浮かべた。

「そりゃあんたには、自分の好みで客を選ぶ権利があるわな」

 戦士は笑った。

「つまりは、そういうことか。あれが不気味だから追い出せと。それで俺を呼んだって訳か」

 彼はひとりでうなずくと、胸を叩いた。

「任せとけ」

「いや、待て。そうじゃない」

 親爺はそれを引き止めた。

「ただ、気になったんだ。少し気をつけて見ていてくれればそれでいい」

「何だ」

 護衛は拍子抜けしたように言った。

「だが、見ているったって、じっとおとなしく座って……」

 くだを巻く様子もない。彼が何度目になるか、視線を灰色ローブ周辺に走らせたときだった。ローブはすっと立ち上がった。

 反射的に彼は警戒したが、それは不要だった。

 男――だか女だか――は、ただ静かに立ち上がって、店を出て行ったのだ。

「……ほら」

 戦士は言った。

「何もない」

「確かに、何もないんだがな」

「不気味だと?」

そうだアレイス

 主人は真顔だった。

「そんなに気にするなら、これから注意して見といてやるよ」

 苦笑混じりに護衛は言った。

「まあ、そうそういやしないと思うがね」

 気にしすぎだと彼は笑ったが、酒場の親爺はしかめ面を作ったまま、気味が悪いと繰り返した。

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