月面上の殺意

雨宮 徹

第1話

 黄色の地面に点在するクレーター。荒涼とした風景。ダンテは月面の景色が嫌いだった。田園風景の広がる故郷が懐かしい。だが、月面もニューヨークに比べればマシかもしれない。静寂を好むダンテにとって、研究所のあるニューヨークには辟易へきえきとしていた。あの人混み、複雑な地理。ダンテは地球を見つつ思った。

 

「ダンテ、いつまで地球を見ているの? 感傷に浸るのもいいけれど、今は目の前のことに仕事に集中して欲しいんだけれど」


 アリスの声で我に返った。


「ベンジャミンが戻るまでに私たちがこのイカれた機械を直さなきゃ、あの変人カンカンに怒るわよ」


 ダンテはその光景を想像して身震いした。この前なんか食事の時間が五分遅れただけで神経質な生物学者は怒り狂っていた。目の前にある生物保管室の故障を直さなければ、あのときの比べ物にはならない程わめくに違いない。何がなんでも間に合わせなくては。


「アリス、進捗はどうだい? あいつが戻るまでに間に合いそうか?」


 こちらに振り向いたアリスの眉間にはしわが寄っていた。


「まったくダメね。どこがおかしいのか見当がつかないわ」


 彼女は首を横に振る。切羽詰まっているのか、珍しく声にはとげとげしさがあった。普段はおおらかなのに。


「そうか……」


「ちょっとめまいがするわ。医務室に行くから、残りの作業をお願い」


 そう言うとアリスは壁を蹴って第一ブロックに続くドアに向かう。宇宙での体調不良は早めに処置しないと命にかかわる。考えるまでもない。彼女の作業を引き継ぐしかない。アリスの体調不良についてはミア先生に任せればいい。


「そうだ、ちょうどジャンは休憩中だろ? 体調が回復したら、一緒に休憩してこい。飯のとき以外に顔を合わせることはできないだろ?」


「そうさせてもらうわ。彼ったら、甘えん坊だから一日三回会うだけじゃ不満みたいだから」


 プシューと音をたててドアが開くとアリスの姿は消えた。さて、このイカれた機械を直すのとベンジャミンの帰り、どちらが早いだろうか。ダンテよりアリスの方が技術者としての腕は上だ。その彼女がお手上げだったのだ。嫌な予感しかしない。




「こちらベンジャミン。ダンテ聞こえるか?」


「ああ、よく聞こえるよ」


 耳元の通信機からの声に応答しつつ時計を見る。まずい、もうすぐ探査チームの帰還時間だ。とても間に合いそうにない。今のうちに言い訳を考えておくべきか? いや、無駄だろう。そのときだった。別の通信が割り込んでくる。


「み……な、聞こえてる? 緊急事態発生よ。聞こえ……ら返事をちょうだい」


 ダンテは通信機からアリスの緊張した声を聞きとった。月面での緊急事態。ことによっては地球基地の協力が必要かもしれない。大事おおごとでなければいいが。


「こちらマイケル。多少のノイズはあるが聞こえている。何があった。状況を報告しろ」


 今度はマイケル船長の声が聞こえた。こっちはクリアに聞こえた。


「今、第一ブロックのジャンの部屋なんだけれど……ジャンが血だらけで倒れているの!」


 アリスが声を震わせながら言った。一瞬の沈黙。最初に事の深刻さを把握したのはマイケル船長だった。


「ミア、今医務室だな? すぐに現場へ向かえ! 第二ブロックにいるダンテも急行だ!」


 指示の前から体は動き出していた。機械の故障にけが人! とんでもない一日だ。




 現場に着くと、すでにミア先生とマイケル船長の姿があった。部屋中に大量の血液が浮かんでいる。


「そ、それで、ジャンは大丈夫か?」


 聞く前から答えは分かっていた。ミアはジャンから離れたところにたたずんでいる。医療行為をしていない。つまり……。


「どうやら遅かったらしい」


 マイケルの声にはいつもの力強さがなかった。




「我々がいない間にことは起きたわけだ。死因は聞くまでもないな。この部屋を見れば素人でも分かる。失血死だろう?」


 ベンジャミンの淡々とした声が響く。ジャンが死んだというのに無神経な奴だ。


「ええ。でも、事故じゃないの。ジャンの首元には鋭利な刃物で切られた痕跡があるわ。つまり……」


「なるほど、殺人というわけだ」


 ベンジャミンがミアの言葉を引き継いで言った。

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