新雪の一歩。

貴津

新雪の一歩

「しくじったなぁ……」

 新年早々、最悪である。

 視界のすべては真っ白く染まり、ふわふわとした雪に閉じ込められて身動きすらできない。

 実際には足先や腕は動くものの、身体を動かして藻掻くとやわらかな雪に沈んでゆく感覚があったので、それ以上藻掻くのはやめた。

 多分、雪崩に巻き込まれた――と、思う。

 多分とか思うとか言うのは、はっきりとそうだと言いきれないからだ。

 ひどく疲れていて、重い足を引きずるように歩いていた。日は暮れ、雪山を歩くのには危険な時間になっても急いだ結果がこれだ。

 しかし、行かなくてはならなかったのだ。

 雪山を超えた先にある村では、自分を待っている人がいる。

 こんな風に雪に埋まってしまったとも知らずに、きっと薄暗くなる空を見上げいつ来るだろうかと今も待っているに違いない。

「しくじったなぁ……」

 雪に埋もれた男はもう一度、声に出して呟いた。



 雪山の村で待っているのは恋人だ。

 男は雪山での生活が嫌で、恋人と村を出ようと思っていた。

 しかし、恋人は雪山の村での生活を捨てて街に出ることは出来ないと言った。

 恋人の生活基盤はその村にあり、ここから離れることは出来ないと言われたのだ。

 男は恋人のことが大好きだったが、この山奥の村にいるのは嫌だった。

 そこで、自分だけ村を出て、生活基盤を作り、恋人を迎えに来ようと決めた。

 男は恋人に手紙を残し、雪深い雪山の村から出て行った。

 それから街で必死に働いた。

 仕事を得て、家を建て、基盤を築くまではそう時間はかからなかった。

 だが、それを失うのも一瞬だった。

 男には秘密があり、その秘密は街で暮らすには絶対に隠さないとならないことだった。


 男は財も家も失い街を出た。

 しばらく他の街へ移り、仕事を得ようとしたが、どこからともなく男の噂が流れてきて、それが自分だとバレるのが恐ろしかった。

 そして、待ちで暮らすことを諦めて、雪山の村に帰ろうと思ったのだ。

 男が村を出てから10年という時が経っていた。

(まだ待っていてくれるだろうか?)

 待っていてほしいと手紙に書き残してきたが、その後は生活に精いっぱいで手紙を送ることはしていなかった。

 心の片隅に恋人の姿は常にあったが、それよりも生活の多忙さに飲み込まれてしまっていた。

 男は有り金のほとんどを路銀とし、その後にわずかに残った金で恋人のために銀細工の髪飾りを買った。

 恋人の美しい毛並みを思い出すと、どうしても何かそれを飾るものを贈りたかった。

(これで許してくれるとは思えないが……)

 それどころか、もう恋人は別の伴侶を得て幸せに暮らしているかもしれない。

 待っていてくれと言ったのは、男の勝手な願いだ。

 考えれば考えるほど、もう恋人は待っていてくれないような気持ちになる。

 そんな焦りに急かされて、男は雪山の村へ続く山道を進み始めたのだ。

 あと少しで恋人に会えると思えば、疲れを押して無理して歩を進めてしまった。

 そして、今、男は雪に埋もれて身動きが取れなくなっている。

 これは、戻るべきではないと言う神の思し召しなのだろうか。



 あおおおおおおおん


 雪の中に埋もれていても、その声は聞こえた。

 男はびくっと体を震わせる。

 獣の声だ。しかも、そう遠くない。

 雪を踏む音は聞こえないが、遠吠えの声は近づいてきているように思う。


 あおおおおおおおん


 間違いなく狼の声だ。

「ヤバい……な……」

 多少雪に埋もれていても、獣の鼻はごまかせない。

 こちらに近づいてくると言う事は、狼には男の位置がわかっているのかもしれない。

 しかも、緩やかな声ではない。その声には明らかな怒気が含まれている――様に思う。

 雪を蹴り飛ばして外に出たいが、やはり少しでも身じろぐだけで身体が雪に沈んでゆく。

 もしかしたら亀裂の上に雪崩の雪と一緒に入り込み、雪が抑えとなって亀裂の中に落ちるのを何とか防いでいるのかもしれない。

 このまま、何も知らぬ狼が男の元へ来れば、狼の重さで雪が沈み、男もろとも亀裂に落ちてしまうかもしれない。

「ヤバい、ヤバい……」

 気が急くが、声はどんどん近づいてくる。


 あおおおおおおおん


 すぐそばで狼の声がした。

「駄目だーーーっ! 来るなーーーっ!」

「うるせぇ、この浮気者おおっ!!」

 男が叫ぶ声に怒声が返され、その瞬間、雪の中から荒々しく引きずり出された。

 そしてそのまま少し離れた場所に放り投げられる。

「うわっ!」

 男は柔らかな雪の上に放り出されたが、そこは雪の下はしっかりと硬く、身体が沈むことはなかった。

「俺が迎えに来たのは予定外だったか?」

 寝転がったままの男を上から覗き込むように、にゅっと大男が姿を現す。

「ひっ!」

 男は思わず大男の迫力に怯えたが、大男は構わず続けた。

「待っていてくれとか手紙を残していったくせに、お前はまた女と駆け落ちか? いい加減にしないと食い殺すぞ?」

 大男はそう言って大きく口を開く。そこには獣の牙が並び、喉の奥からはぐるると獣の唸り声が聞こえた。

「う、う、浮気ってなんだよ……」

 男は圧されながらも何とか雪の上に座り込み、大男を見上げた。

 大男は獣人だった。

 口に並ぶ牙だけでなく、その頭上には三角の耳が立ち、背後にはふさふさの尾がゆっくりと揺れている。

 先ほどの遠吠えもこの大男の声だ。

 そして、この大男は男が雪山の村に残してきた恋人だった。


◇◇◇


 恋人が出て行った。

 前から話はしていた。この村を出て、街へ一緒に行こうと。

 それを断ったのは男だ。狼の獣人である男は、雪深いこの山から出て暮らすことは現実的ではなかった。

 人間の姿に変化することもできるが、それを続けることがいかに大変かもわかっていた。

 でも、恋人はその苦労をしてでも、僻地のこの村を出たがったのだ。

 机に残された手紙の封を切る気にもならず、男は外に出た。

 満天の星空に、満月が輝いている。雪は深いが同じこの雪山で育った恋人ならば問題なく街へ行けるだろう。

 辺りにはもう恋人の気配はない。それに追いかけても連れ戻すだけの言葉がない。

「バカめ……」

 男も恋人も狼の獣人だ。

 雪深い山奥にある獣人の村以外でその正体を隠して生きて行くのは難しい。

 獣人は人間から見たら恐怖の対象でしかない。正体を明かして共に暮らすなどと言うのは無理な話。

 下手をすれば労働力としてとらえられ、鎖と首輪をつけて奴隷とされるのが関の山だ。

 人間を凌駕する力を持ってはいるが、人間はとにかく数が多い。

 1対1では勝てたとしても、大勢の人間にはかなわない。

「どうしてそれがわからんのか……」

 男はそうこぼしたが、恋人の気持ちが分からなくないわけでもない。

 雪山での生活は窮屈で退屈だ。

 日々の糧を得るために、雪のない時期は畑を耕し、雪の時期は狩りに出る。

 日が昇るのと同時に起きて、陽が沈むとわずかな明かりの下で家族と身を寄せ合う。

変わり映えなく、繰り返される毎日。それは確かに退屈なことかもしれない。

 しかし、ここに居れば、誰にも邪魔されることなく幸せに暮らすことができると言うのに。

 男は部屋に戻ると、机の上に残された手紙を手に取った。

 手紙の中身は案の定「待っていてくれ」という身勝手なものだ。

(どうするかなぁ……)

 とはいえ、そう言うならば待つしかない。

 男にとっても恋人は大切な存在だったから。



 ところが恋人は最初に手紙を残したきり、なんの連絡もよこさなかった。

「何なんだあいつは!」

 男は便りを全くよこさない男に、最初は大変なのだろうと身を案じた。

 次の年には便りが無いのは元気なのだろうと考えた。

 そして数年がたって、余りにも連絡をよこさない恋人にしびれを切らし、こっそりと村を抜け出し、恋人の後を追った。

 恋人が住まう住所はわからなかったが、優れた獣の嗅覚を持つ男は恋人の匂いを頼りに探した。

 探して探して探して、2つの街を過ぎた時、恋人の居所を見つけた。

 そっと影から窺った恋人はすっかり人間に慣れ親しんでいるようだった。

 小さいながら家を建て、朝から晩まで人に混じって働いている。

(元気そうでよかった……)

 男は胸をなでおろしたが、恋人の前に姿を現す勇気がなかった。

 男は一人で暮らしているようだが、もしかしたら他に思い人がいるかもしれない。

 待っていてくれと手紙を残してはくれたが、一緒に行こうと差し伸べられた手を断ったのは男の方だ。

(…………)

 男は恋人に声をかけずに立ち去ることにした。

 胸には恋人の残した手紙が入っていたけれど、どうしても男に声をかけられなかったのだ。


 その後も恋人から手紙が来ることはなかった。

 男は幾度か恋人の様子を見に行った。

 恋人は懸命に働いて、少し大きな家に移り住んでいた。

 窓から家の中を覗き込むと、寝室には大きなベッドが2つ並んでいた。

 それを見た瞬間の全身が一気に冷水をかけられたように冷え切った感覚は忘れられない。

 山で狩りをするときは色々な危険に遭遇することがある。肝を冷やしたのも1度や2度ではない。

 それでもこんな風に恐ろしいと思ったことはなかった。

 思わず、寝室の窓に繋がるバルコニーへ降りて、その家の中へと入りこんでしまった。

 新築の家の中は恋人の匂いしかしていない。

 だが、目の前には夫婦の部屋のようにベッドが2つ。

(そんな……)

 胸が締め付けられて苦しい。

 足が震えて立っているのもつらい。

 だが、その時、あるものが目に入った。

「え……」

 見覚えのある上着がベッドの横に置かれた椅子に掛けられている。

 薄い毛皮で作られた上着は、男が狩りに行くときによく着ていたものだ。

 手に取ると、綺麗に手入れがされていて、小さなほつれなどもきちんと繕われていた。

「どうして……この上着が……?」

 いつの間にかなくしたと思っていた。

 恋人が村を出る時に持って行ったのか。

「ずっと、持ってたのか……」

 その上着を大事にしている理由がわからないほど男も野暮ではない。

 それを寝室の置いておいてくれる意味も。

「…………」

 男はそっとその上着を元あった場所に戻すと部屋を出た。

 便りがなくとも、もう少し待ってみようと思いながら。



 それからも男は時々恋人の様子を確認しに行きながら、自分は雪山の村で暮らしていた。

 街にいる恋人は自分のことを思い続けてくれているようだが、もう10年という長い時間が経とうとしていた。

 恋人が男の元へ便りをよこさないのは、多分まだ自分を呼ぶには足りていないと思っているからだ。

 恋人は朝から晩まで必死に働いて、自分の買った家に色々なものをそろえていた。

 家具や食器、趣味の良いカーペットに、美しい刺繍の入ったカーテン。

 少しでも居心地よく、番を迎い入れる巣穴を整えるように、家を充実させていた。

 その様子を見ていたから、男も黙って恋人を待っていたのだ。


 しかし、ある時、恋人は失敗をしてしまった。


 運が悪かったとしか言いようがない。

 恋人の働く職場で、積まれていた荷物が崩れて、人が埋まりそうになると言う事故が起きたそうだ。

 恋人は咄嗟に職場で共に働いている仲間を庇い、獣の姿に変化して、崩れ落ちる荷物に埋まる前に仲間を引きずりだした。

 恋人のお陰で職場の人間に誰もケガが出なかった。荷物は崩れてしまったが、また積み直せばよい。

 だが、恋人は人間たちに獣人である姿をさらしてしまった。

 巨大な狼の姿に変化してしまったのだ。

 仲間だと思っていた人間たちは、その姿を見て明らかに怯えた。

 荷崩れがあったと駆けつけてきた人間は恋人を見て「獣人だ!」と叫んだ。

 それからはあっという間だったようだ。

 雪山の村にまでその噂が届き、身を案じて恋人の元に男が駆けつけた時には、恋人が男と暮らすために用意していた家は焼き払われて空き地となっていた。

恋人はせっかく用意していた家を捨て、街から追われて出て行ったようだ。

 別の街でまた働こうと思ったようだが、獣人の噂は広まってしまい、恋人の行く先々で囁かれた。

 恋人はその噂に追い詰められ、ついに人間の街で暮らすことを諦めた。

 男は恋人を追いかけて、最後の村でその姿を見つけた。

 安宿で身をひそめるようにしている恋人に、一緒に村に帰ろうと声をかけようか迷った。

 今、声をかけたら、男をずっと見ていたのがバレてしまう。

 何もできずに、ただ見ているしかなかった、意地っ張りな自分がバレてしまう。

 それでも本当は声をかけるべきだったのかもしれない。

 逃げ疲れた恋人は旅支度を整えた。

 村に帰ってくるのかと思った。

 ならば、急いで村に戻って、恋人を迎えるために待とう。

 そう思ったのだが――恋人は路銀の残りで銀細工の女物の飾りを買ったのだった。


◇◇◇


「この浮気者めっ!」

 尻もちをついたままの男――ルスは、自分を怒鳴りつけてくる恋人――ルーナに慌てて言い訳をする。

「浮気なんかしてねぇって! 俺は! ずっとお前と暮らすために……」

「そんなこと言って、10年も文の一つもよこさないで誰がそんなこと信じられるって言うんだ?」

「そっ、それはっ、俺だって連絡もしたかったさ! だけど、お前を迎えに行くって見栄張った以上準備だってしたかったんだって!」

 ルスは必死に説明するが、ルーナは仁王立ちでルスを睨みつけたまま不機嫌そうに尾を揺らしている。

「み、土産だって買ってきたんだっ! お前に似合うと思って……」

 そう言って、ルスは懐の中をバサバサと漁りだす。

 しかし、買ったはずの土産の包みが見つからず、慌てて羽織っていたマントを脱ぎ捨てた。

「ルス……」

 マントを脱いだルスを見て、ルーナはほんの少し頬を緩めた。

 ルスはそんなルーナにも気づかず、上着のポケットや懐の中をごそごそとして――ぽろっと何かがルスの懐から転がり落ちた。

「あ!」

「あ?」

 ルスの嬉しそうな声とルーナの不機嫌絶頂な声は同時だった。

「ルーナっ! これっ」

 雪の上からルスが拾い上げたのは銀細工の髪飾りだった。

 大切に懐に入れて持ってきたのだろう。繊細な花の飾りは歪みも曇りもない――

「このっ、浮気野郎っ!!」

「ちょっ! まてっ!」

「女物の髪飾りじゃないか! どこの女に贈るつもりだったんだ!?」

「おっ、女物っ!?」

 ルーナに怒鳴りつけられて、ルスは慌てて手にした髪飾りを見る。

 蔓を模した流線と小さな葉の上に大ぶりな花が1輪咲いている。

 それがすべて銀細工で作られていて、灰色狼の獣人であるルーナの銀色の髪に飾ったらキラキラと美しいだろうと思ったのだ。

 きっとこの髪飾りを付けたルーナは、真っ白な雪の中でもひときわ輝いて美しい姿を見せてくれるだろうと。

「似合うと思ったんだ……ルーナの銀色の髪に……」

「俺の髪に?」

 ぽつりぽつりとつぶやくルスの言葉に偽りはなさそうだ。

「信じてくれ、ルーナ。俺は本当にお前だけだ! ずっと……」

「……そうだな」

 ルーナは座ったままのルスに手を差し伸べ立たせると、脱ぎ捨てたマントを拾って雪を払ってやった。

「女のところに行くのに、俺の服を着て行くわけがないよな」

「あ……」

 ルスはマントの下にしっかりと毛皮の上着を着こんでいた。古ぼけて、少し毛皮のハゲたところもあるルーナの上着。

 ルスは今頃気がついたのか、少し気まずそうな顔をした。

 いつの間にか出ていた頭上の耳もぺたりと寝て、尾は心許なさげにしょんぼりとしている。

「これはっ……」

「俺の身代わりだったのか? お前は俺に手紙しか残してくれなかったのに」

 ルーナは首から革ひもで下げている小さな革袋を出して見せた。

 その中には小さく折りたたまれたボロボロの手紙が入っている。

「ルーナ……」

「まぁ、この髪飾りで勘弁してやる。ほらっ」

 ルーナは乱雑に結んでいた髪を解いて、ぐいっとルスの方へ頭を出す。

 ルスは手櫛で手触りの良い恋人の髪を梳いて整えると、銀色の花を挿した。

 そこへちょうど夜が明けたのか、陽の光が差し込んできた。

 鮮やかな夜明けの光は、ルーナの銀髪とそこに咲く花を美しく輝かせる。

「綺麗だ……」

 不器用なルスはルーナを見てそれだけ呟いたが、ルーナにはそれで十分だった。

「さあ、俺たちの家に帰るぞ」

「え?」

 驚き顔のルスに、ルーナは胸を張って言った。

「俺はお前が帰ってきた時のために、お前と住む家を建てたんだ。大きなベッドも二つ作ったし、暖かな毛皮の敷物と寒さをしのぐ織物のカーテンもそろえたぞ」

「え? え? それって……」

 それはルスがルーナのために整えていた家。

 ルーナは同じものをルスのために整えていたのだ。

「さあ、俺たちの家に帰ろう。一緒に暮らすための住処へ」

 ルーナはルスの手を握る。

 ルスもしっかりとその手を握り返した。


 そして、新しい生活を祝う様に、幸せそうに尾を揺らし二人が帰る道行を朝日が照らすのであった。

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