彼方かな

熟内 貴葉

初々しさ

「あなたなんて、産まなきゃよかった」

 母の声だった。仄暗い部屋に、彼は涙ぐんでいた。先日も似た夢を見てしまったらしい。決してそんな事を言う人ではないと理解できても、やはり心にくるものがある。

 彼は、歳相応の職には就かずフリーターの日々を送っていた。実家暮らしだが、彼の母ももう六十を迎え、体力的にきつくなっていた。そしてそろそろ職に就くことを宣告されたのだ。

 彼が休日のときは晩飯の準備を任されている。彼はいつものように、晩飯の買い物を近所のスーパーへと寄った。相変わらず値上がりがひどい。しかし卵は急に下がっていた。二百五十円から百五十円になったのをみて、喜びより驚きが支配していた。

 必要な商品をカゴに入れ、右端に二人並ぶ店員のレジがあったので彼は足早に向かう。いつものようにスーパーのポイントカードを出し、店員は手慣れた様子で商品を次々と読み込んでいく。

「二千八十七円です」

 読み取りが終わると、会計する担当の店員へとバトンタッチされた。

「二千百しち円いただきます」

(え?二千百いち円?)

 七円だったはずと思い、しかめっ面で店員の顔を見ると、真剣な眼差しでお金を待っていた。胸の辺りには手書きの名札に若葉マークのシールがを貼られている。

「二十円のお釣です」

 その手と声は震えていた。それが彼女の精一杯だった。

(あぁ。頑張ってるんだな)

 ショーケースに入っている子犬を愛でる感覚になった。初めてのことを、早速こんなに大勢の前で披露するのは不安なことだ。彼自身もアルバイト初日はこんな感じだった。彼は一言お礼を言ってスーパーを後にした。

 今日一日はいつもの日常だが、彼女にとっては非日常の始まりだった。そんなの至極当たり前のことだと彼は思っていた。しかし、それを思考したり、享受したりする余裕さがなくなったオトナになってしまった。

 そんな事を彼は憂い、また次の毎日を過ごすのだった。

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彼方かな 熟内 貴葉 @urenaitakaha

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