スクライブ・レジェーレの旅

そうざ

Scribe Legere's Journey

 茫漠とした砂の大地に青白い光が容赦なく降り注ぐ。

 振り返れば陽炎が目眩を、元に向き直れば逃げ水が幻覚を誘発する。

 刺すような白日に身を焼かれながらも、年嵩の行者たるスクライブ・レジェーレにはしるべとなる光明はない。しかし、自らの意志でこの地に降り立った以上、逃げ口上が即ち終わりフィーニスを意味する事は百も承知だった。


 小さな岩窟に逃げ込んだスクライブは、糸の切れた傀儡のように倒れ込んだ。

 然れど、待つのは安息ではない。直ぐに備忘帳を取り出し、遠路の最中に降りて来た言の葉ヴェルバの数々を書き付ける。それは夢見の記録にも似る営みだった。かすみを掴むかのような振る舞いだった。

 言の葉は手段であって目的ではない。稀有な言の葉であればある程、栄えある八芒星アステリスクを勝ちる事が出来るのだ。


 再び見上げた厚みのない空の彼方に、頑強な蔭が揺らいでいる。それは、スクライブの疲弊した眼にも確かな存在感を持って映った。

 あれこそがか――きしむ両の脚が悲鳴を上げながら突き進む。が、たちまち風紋の餌食となり、砂丘に無様な人型を刻んだ。

 いたところで、スクライブは未だ以てビブリオンの門をくぐる資格を得られていない。規定の八芒星を掻き集めなければ、何人なんびとも終わりなき旅の身空に甘んじるしかないのだ。

 どれだけの歳月を費やそうとも、どれだけの研鑽を積もうとも、資格をられるかどうかは分からない。誰もが旅の動機を有するが故に、この大地の其処彼処そこかしこで迂闊な悲喜劇が繰り返されるのだった。

「間尺に合わぬ夢を見たばかりに……」

 最早、落涙すら許されぬ程、スクライブは渇き切っていた。


 かつては、志を同じくする儕輩はいせいが存在した。現実から眼を背ける為のじゃれ合いも、漠とした緩やかな切磋琢磨も、ひた隠した鋭利な嫉妬も、途方もない旅の道連れとして機能していた。

 しかし、それをいさぎよしとしなかったのが若き日のスクライブだった。

 俺はあんた達とは違う――反発を胸に秘め、気付いた時には旅の道筋をたがえていた。


「お困りのようだ。儂ならば力添えが出来るぞぇ」

 いつの間にか昏倒していたスクライブの耳元に、ぬめっとした声音こわねが流れ込んだ。

 逆光でスクライブを覗き込むその顔は、既知のものだった。

「……また、お前か……」

 それはとの何度目かの邂逅だった。


 八芒星を安価で売り歩く行商人、通称〔アステ売り〕。言の葉の内実を問わず無分別に八芒星をばら撒こうとするそのやり方は往々にして侮蔑の対象となるが、その需要が途絶えたためしはない。

「あんたの顔馴染みは、うの昔に儂の常客ぞね」

「商売繁盛、何よりだな……」

 スクライブは驚きもせず、なけなしの笑みで応える。

 予感は常にあった。儕輩が挙って口にする崇高な標榜に隠された背徳の匂い。抜け駆け、取り引き、如何様いかさま――蘇る記憶は今でもスクライブを辟易とさせ、唾棄させる。

「それでも未だビブリオンの門に遭遇する事さえ出来ぬ者ばかりだがね。ふっはっは……」

 スクライブは安堵を覚える。下卑た連中が日の目を見ては、天網がにして漏らす事になる。

 その泰然とした様子に、アステ売りの悪戯心が頭をもたげた。

「あんた、この大地を覆う砂をよくよく見詰めた事がないね」

「砂がどうだと言うのだ」

 スクライブは怠惰な掌で砂を握り取ったが、眼をしばたかせるばかりで焦点が合わせられない。

「ふっはっはっ、これを使うと良い」

 見兼ねたアステ売りが、年季の入った天眼鏡を差し出す。

「……これはっ……」

 眼を見開いたスクライブの総身が、わなわなと震え始める。

「そう、あんたが追い求めていた代物……その成れの果てさね」

 無数の砂は、無数の欠片でもあった。その一欠片ずつが八芒星の名残りを留め、鈍く輝いていた。

「この大地を覆う全てが八芒星……?!」

 凪いでいた空気が一陣の風を呼び込み、見飽きた筈の風景が別様の姿で押し寄せる。

「脱落者が打ち捨てた八芒星が粉々になって出来た大地さね」

「俺は、死屍累々の上を彷徨っていたようなものか……」

 スクライブのひび割れた指先から欠片が零れ落ち、砂塵と化して散って行く。

「儂の錬星れんせい咒法じゅほうを用いれば、寄せ集めた欠片から幾らでも八芒星を生成出来るぞぇ」

「……ご免こうむる」

まがい物だと?」

「自らの手で掴まねば意味がない」

「この期に及んで未だ初志貫徹か。そんな事だから……ふふっ、余計なお世話か」

 アステ売りが立ち上がると、彼方のビブリオンの門が遠退くように見えた。

「一つ、教えてくれっ……」

 スクライブのしゃがれ声がアステ売りにすがる。

「実際にビブリオンの門を潜った者など居るのか?」

「狭き門と言えど、それが存在する以上、潜る者は居ろう」

「そうか……希望はついえておらぬ訳か」

しかるに、門の先にあるのは終着ターミナルでも楽園パラディススでもないぞ」

「……?」

始まりサートスでしかない」

「旅はいつ終わる……?」

「あんたが終わらせれば終わる」

 アステ売りはそれだけ言うと足早に去って行った。


 アステ売りの来歴は判然としない。一説には、旅を忘れた行者の転身とも幻影とも謂われる。

 いずれアステ売りの数は行者のそれを凌駕するに違いない、と囁かれて久しい。それは旅の時代に終止符を打つと共に、ビブリオンの門が固く閉ざされる事態を招くだろう。八芒星はその価値を失い、言の葉を書き留める素朴で地道な行為から生き甲斐を奪う事になろう。


 スクライブの末路はようとして知れない。

 晴れてビブリオンの門を潜れたとしても、その先に待つのは遥かに茫洋とした歴史の海原であり、八芒星の効力など及ばぬである。

 スクライブ・レジェーレの名は、一個人を特定する為に使われるべきではない。今この瞬間にも現れては消え行く無数の行者一人一人の全てを指し示し、見知らぬ個人史の主役として語り継がれるべきなのだ。

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