誘惑
文鎮猫
第1話 接点のなさそうな二人
その関係は、あまりに有害で、そして魅力的な白い粉から始まった。もし、この世に甘い菓子がなかったならば、おそらく二人が接点を持つのは、もっとずっと先のことになっていただろう。
それほどまでに、同じクラスにいる二人には、側から見るとなんの接点もないように見えた。長い黒髪を高く一つに束ねている、品行方正でどこかミステリアスな魅力のある
(でも、彼の場合作ろうと思えば、簡単に友人くらい、できるんだろうに。)
廊下側の一番後ろの席が定位置になっている三峰は、窓側の一番後ろの席にいる菱津がまた、話しかけている隣の席の男をすげなくあしらっているのを見て、呆れたように肩をすくめる。
菱津は三峰とは違い、興味のない人間に対してはほとんど空気のように接していたし、しかも興味のある対象そのものが、クラスでも三峰以外に一人いるだけという有様で、必要以上に話すこともなく、向こうから寄ってくるとにこやかに拒絶する。そんなふうだからこそ、さらに人を惹きつけるのかもしれなかったが。
『三峰、今日そっちに行っていい?』
ただし実態は、それほどいいものではないことを、三峰は知っている。ポイっと机に投げられた紙屑を開けば、やたら達筆な字が現れる。
(全く・・・構わないけれども。)
チラリとみると、何事もなかったようにしれっとしているが、その手は苛立たしそうに小刻みに机を打っていた。三峰は笑いたくなるのを堪えながら、この日は掃除当番をサボることになりそうなことを、ちょっと怯えた表情の同級生に伝えておくことにしたのだった。
*
三峰はさっさと帰り支度を済ませ、誰よりも早くに教室を出ると、一直線に帰路についていた。その後ろから、一定の間隔を開けて、足音が聞こえてくる。
二人は同じ目的地を目指しているのに、なぜか並んで歩くことをしなかった。三峰も、後ろを振り返って、菱津に話しかけようとはしない。ただ黙々と、時計の針よりも正確に足を運びながら、背後の気配に集中している。菱津も、三峰を追いかけることも、話しかけることもせず、彼が若干早歩きになればそれに合わせて足を早め、遅くなれば歩みを緩めて、密かに楽しそうについて歩く。葉桜から名残惜しげに舞う桜の花びらが風に乗って目の前を掠め、そろそろ蕾が目立ち始めたみかんの花の白さが、民家の庭を色付けている。
しかし、そんな奇妙な距離感も、三峰が大豪邸の門を開け、しばらくしところで終わりを告げる。
「今回は、多めに用意してあるよ。」
そう言って、自分より頭一つ分以上小柄な青年を振り返ると、さっさと門を閉めた菱津が、素早く隣まで距離を詰めてきていた。
「本当?本当だよね、それ?前回みたいに、ホールケーキ一個だけなんて言わないよね?」
「悪かったって。前回はあんまり時間がなかったから用意しきれなかったけど、今回は我慢した甲斐があると思うよ。」
「なら早速、お邪魔させてもらうよ。」
菱津は長い黒髪を楽しげに揺らしながらスラリと背の高い男の脇を通り抜け、わけ知り顔で庭を闊歩し、迷いなく、古びた洋館へと辿り着いていた。
「あーあ、あれ全部お菓子だったらいいのに・・・」
「毎度言うよな、それ。こんな古びた屋敷なんて食べたら、腹を壊すぞ。」
元来重度の砂糖中毒である菱津は、夢のようなチョコレートハウスを思い描きながら、喉の渇きにも似たものを、感じ始めていた。
「お?いい匂いが」
「おい、まだしないだろ。しかし、いつもながらありがたいよ。菓子を作るのは楽しいが、自分で食べられなかったから。」
「もったいないよね、本当に。まあ、そのおかげで、あの奇跡の調理実習の時に、僕は君の才能に気づけたわけだけど。あの時のロールケーキが本当に美味しかったんだよね。ふわふわで、チョコレートクリームと渾然一体となって口の中で溶けるんだ。また作ってよね。」
「はいはい。また今度ね。」
屋敷の中に入り、客間へ通されると、手近にあった黒いソファに腰を下ろした。どれをとっても骨董品といった雰囲気だが、菱津は特に気にした様子も、汚さないようになんて配慮もなくくつろぎながら、一枚板の巨大な机に並べられていく大量の菓子を凝視する。三峰の菓子作りに対する情熱も大したもので、前回のホールケーキから一週間ほどで、多種多様なスイーツを用意していたのである。
並べ終わるのすら待ちきれない様子でそわそわしていた菱津は、対面に三峰が座ったのを確かめて、にっこりと笑った。
「飴は最後にしておいた方がいいかな。目の前にこんなにたくさんあるんじゃ、味もわからなくなりそうだから。」
「君はそう言う反応をすると思ったよ。」
花瓶に挿した、飴細工のバラを見ての感想に笑いながら、マカロンに手を伸ばすのを見守る。
「うん、美味しい。・・・腕を上げたね?見た目も味も完璧。」
白く細長い指がマカロンの水色のかけらを拾い、少し名残惜しそうにしながら口に含んで、5個のマカロンはあっという間に姿を消した。
次に目をつけられたのは、見事にテンパリングが施された艶やかなチョコレートで、美しい顔を好調させ、壊れないよう、そっと持ち上げる。
「綺麗には作ったつもりだけど、あんまり持っていると溶けるよ。」
「いやあ、だってこれ芸術的じゃないか。もったいないから食べちゃうけど。」
「・・・いやそれ、食べたいだけだろ。」
「そうとも言うかな。」
笑いながら口に含むと、中に入れられたソースととおに、芳醇な香りが広がった。
「これ、えと、オレンジかな?凝ったことするね。」
「他にもいろいろあるぞ。食べきれなければ」
「そんなことないない。この日のために、ちょっと節制したんだから。」
「授業中にいちご飴食べてたの誰だよ。」
「あれは空気と同じ。食べないと死んじゃうの。」
そう入っておいて、クッキーを口に放り込んだ。口当たりがよく、微かな塩見が効いていて、何枚か食べた後、初めて紅茶を一口飲んだ。
「今回の一押しは?」
「アップルパイかな。でも、食べ切れる?」
「もっちろん!ああ本当に、君はお菓子作りが好きなんだね。君と話すようになって・・・えっと、3ヶ月か、4ヶ月くらいだっけ?もうずっと食べている気がするよ。」
そう言いながら、今度はブールドネージュに手を伸ばしていた。甘さで言えば次点と言ったところではあるが、食感がたまらなくいいのだ。
「あれ、ちょっと柔らかいかな?」
「甘ければいいのかと。」
「それなら別に、売っているので十分。」
そうは言いながらも、砕けてしまったものもなんとか救い出して食べ、次は崩れないようにと慎重に口へ運ぶ。
「やっぱり、君のが一番美味しいよ。」
そろそろ日が暮れると思われた。窓の外は明るさをなくし、電気のない屋敷は、急速に光を失っていく。青年は今日は帰らないかもしれない、と嫉妬深い相棒に知らせておいて良かったと、口の端についたものを拭いながら、怪しく微笑んでいた。
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