縁日

春野奈津紀

縁日

 大学生の平井公太は、日常を嫌い、非日常を愛していた。

 日々過ぎ去りゆく毎日など、同じような繰り返しで、彼にとって日常とは、退屈という言葉そのものだった。

 このどんよりとした倦怠感を、このまま一生内側に保ったまま生きてゆかねばならないのかと思うと、彼はますます日常を忌み嫌うようになった。そしていつしか、非日常への逃避を夢見るようになった。

 そんな彼の、唯一とも呼べる趣味は、夜の散歩であった。彼は夜の街が好きであった。とりわけ見知らぬ街の方が良い。何故かというと、見知らぬ夜の街というのは、まるで漆黒の天鵞絨に豪奢な宝石が所狭しと列んでいるような、妖しくも絢爛な雰囲気をたたえているからである。そこは日常という退屈とはかけ離れた異空間であり、彼はそこを歩くとき、いつも不思議な夢見心地の気分を味わうのであった。

 だからその日も、蓄えた貯金を使って遠出をした先で、夜の散歩を楽しんでいた。

 深夜、静まり返った街並みが、彼にささやかな興奮と快楽を覚えさせた。歩くたびに聞こえる自分の足音さえもが、何か未知へと向かっていく時の効果音にさえ思われた。

 この感覚だ、と公太は思った。まるで夢の中を歩いている時のように、一切のものが輪郭を崩し、夜と溶け合い、非日常を形作っている。彼はそんな、酩酊気分にも似た感情を味わいながら、夜の路地裏を進んでいった。

 こんな調子で浮遊するように歩くものだから、いつしか方向感覚はおかしくなり、自分が何処をどう歩いているのか分からなくなるのは必然であった。しかし彼にとっては、寧ろその方が都合が良かった。このまま闇雲に歩いていけば、いつしか別世界へと行ける気がする。方向感覚を失うということは、彼にとって不安や焦燥を意味するのではなく、逆に期待と高揚をもたらしてくれる、極上の喪失なのだった。

 天上の美酒に酔ったように、幸福感を味わいながら漫然と歩いていた彼が、路地裏の先の薄明かりに気がついたのは、しばらく経ってからのことだった。

 その明るさは、赤や橙や朱や真紅などの、主に暖色を基調とした色彩で彩られており、まるで水彩画のように薄ぼんやりと輝きを放っていた。それに加えて耳を済ますと、人々のざわめきや足音が、潮騒のようにゆったりと穏やかに聞こえてくる。

『ああ、縁日か』と公太は思った。続いて彼は、『はて、こんな時間までお祭りをやってるものだろうか』と不思議に思ったが、きっと自分の知らない地元のお祭りか何かだろうと見当をつけ、それならばちょっくら行ってみようという気持ちになったのだった。

 明かりに向かって歩き出すと、期待感がいや増してきた。見知らぬ街の夜に出くわした、見知らぬ華やかなお祭り。その雰囲気といい情況といい、公太が求める非日常に見事一致しているのだった。

 路地裏を出ると、一気に視界が開けた。

 ーーそこには、世にも不思議な縁日が開かれていた。

 眼前に広がる光景に公太は度肝を抜かれた。

 先ほどの暖色の正体は、やはり屋台の群れが放つ灯りだった。左右、等間隔に整然と列ぶ屋台群が、温かな光を放ち、また同時に包まれていた。

 しかし、彼の心は既にそんなところにはなく、専ら行き交う人々のことで満たされているのだった。

 何故ならば、そこにいる人々の姿は、およそ人の姿をしていなかったからである。

 妖怪、という言葉が相応しかろう。彼らの容姿は、大小様々、種々雑多であり、雪男のようなものもいれば餓鬼のようなもの、三つ目の男や六本腕の女などもいて、文字通り百鬼夜行の体を為していた。

 つまり、先ほど感じた人々のざわめきと聞こえたもの、人々の足音と聞こえたものは、実は彼ら異形が作り出す潮騒であったのだ。

 突如開けた異界の場面に、公太は初め恐れをなして逃げ出そうとした。しかしそれでも怖いもの見たさ故に、つい後ろ髪が引かれてしまう感覚を覚えた。そして次の瞬間には、これこそ自分が求めていた非日常ではないかと思い始めた。すると不思議なことに、恐怖感は徐々に薄らいでいき、次第に好奇心と高揚感が高まってくるのだった。

『ここは一つ、冒険といこうか』。公太は心の中でそう決めると、引き返しかけていた足を戻し、前方へと歩き始めていった。

 縁日を進んでいくと、実に不思議な光景を次々と目にすることとなった。行き交う人々もさることながら、左右に列ぶ屋台がまた、何とも異様な雰囲気を醸し出していた。一見普通に見えながらも、「目玉焼き」だの「紅葉おろし」だの通常の屋台では目にすることのない看板が掲げられており、加えてなんだか生臭い匂いがするのである。

 公太は初め、化け物たちが行き交う中で自分一人が人間だと目立つのではないかと不安に思ったが、それは杞憂だった。誰も彼もが公太なんぞには興味を示さず、とりどりの屋台に目を向けたり、連れと楽しそうに喋ったりしてお祭り気分に浮かれている。

 とこうするうちに、公太は二十分程歩いただろうか、いつまで経っても終わりの見えない道のりに、流石の彼も不安を覚え始めた。このまま行けば帰れなくなるのではないかと思ったのである。

 そろそろ引き返そうか。そう思い、来た道を戻ろうと振り返ると、


「お兄ちゃん、何処から来たの?」


 そこに、りんご飴を手に持った、和服姿の少女が立っていた。

 年は十代前半ぐらいだろうか。おさげの髪型をした、何処か気だるげな雰囲気を持った少女であった。

 周りが化け物だらけのこの場所で、突如まともな人の姿をした「人間」に出会うと、却って公太は得体の知れない薄気味悪さを覚えた。

「お兄ちゃん、何処から来たの?」

 先ほどと全く同じ問いを、少女は再び口にした。

 質問の割には、その口調はさも関心が無さそうな調子である。加えて、その内容も些か変だ。初対面の、それもただ歩いていただけの人間に対して、「何処から来たの」は少々奇妙である。質問の順序からいっても、先ずは相手に誰何してから聞くのが順当であろう。

 故に公太は、この少女に対し、少し警戒気味になって、

「東京から来たんだよ」

 と答えた。

 すると少女は、「ふーん」とどうでも良さそうに返事をしてから、

「私、迷子なの。だから一緒に付き合ってくれる?」

 と聞いてきた。

 迷子が発したとは思えないその誘いに対して、公太は当惑気味に、

「それはつまり、一緒にお父さんとお母さんを探して欲しいってこと?」

 と聞いた。

「そんな感じ」

 どうにも要領を得ない少女の言葉に、公太ははっきり断ろうと思った。こんな異界で、こんな得体の知れない少女と一緒にいるなど、一人でいるより尚のこと怖い。しかし、そういった思いとは裏腹に、何処か少女に惹き付けられている自分をも同時に感じているのだった。そして、「このまま彼女を放っておいてはいけない」という、彼にとっては相応しからぬ責任感さえ心の隅に芽生えていた。

 様々な思いで心の中が乱されるなか、しかし終いには、持ち前の好奇心が勝利を占め、彼に、

「じゃあ、一緒に行こうか」

 という言葉を吐かせるのだった。

「うん」

 少女は短く返事をすると、カランカランと下駄の音をたてて、公太の側に寄ってきた。

「何処ではぐれたの?」

 公太が問うと、少女は奥の道を指差し、

「あっち」

 と答えた。

 公太は少女の指の先を見て、先ほど感じた帰れなくなる不安に再び見舞われた。しかしそれでも約束は約束のため、少女と共に奥へと進んでいくのだった。

 屋台は続く。それに加えて、行き交う化け物の数も多くなっていく。今や賑わいは最高潮に達しており、うっかりすると人波に呑まれてしまいそうになる。

 道を行く途中、少女は時々、目の引かれた屋台へと近づくことがあった。そして、袖から小銭入れを取り出すと、気に入った食べ物だのヨーヨーだのを買うのだった。

 そうして買った食べ物を、彼女は公太にその都度勧めるのだったが、彼はそれを断り続けた。あまり腹が減っていなかったのと、紙トレイの上に乗った食べ物が食欲をそそられるものではなかったからだ。

 そのうちに少女が、公太に手をつなごうと言い出した。突然の申し出に、彼は大いに戸惑ったが、少女の方は相も変わらず無関心な風に、

「だって、はぐれちゃうでしょ?」

 と言った。

「それはそうかもしれないけど……」

「ね、お願い」

 その一言には、流石の公太も心を動かされた。この可愛げのない少女の口から、「お願い」などという言葉が出てこようとは夢にも思っていなかったからだ。それならと、公太は彼女と手をつなぐことにした。

「ところで、君はここら辺の子なの?」

 手をつないで歩きながら、公太がそう聞いた。

「そう」

「ここは何処なの?」

「#§じ¿ゴ&苦町」

「ふーん、そうなんだ。……あのさ、その」

 そこで公太は、ずっと聞こう、聞こうと思っていたことを口にした。

「ここにいる人たちはさ、人間じゃ、ないの?」

「…………」

「なんか、歩いている人たちって、皆普通じゃないような気がするんだけど……」

「…………」

 突如として、少女の口は貝のように固く閉ざされてしまった。

 この少女の雰囲気から言って、黙してしまうことはさして不自然とは言えない。むしろ寡黙の方が彼女の印象にそぐうのである。しかし、それまでの質問にはスラスラと答えていたのに対し、先にした質問から黙ってしまうと言うのは、やはり少女の気を悪くしてしまったのだろう。何か気に障るような内容だったに違いない。

 そう見当をつけると、公太は慌てて、少女に対して謝った。

「あ、ごめん、気を悪くしたんならあやまーー」

「……って、何?」

「……え?」

 公太を遮って言った言葉が、余りに小さく唐突であったため、彼は思わず聞き逃してしまった。

「今、なんて……」

「人間って何、普通って何、って訊いたの」

「……え? どういうこと……」

 唐突な質問に、公太は面食らってしまった。

 少女は変わらずの淡々とした調子で、矢継ぎ早に公太に質問を続ける。

「あなたは、何をもって人間を『人間』と定義するの? 四肢があって五体満足なら人間? 立って歩くことが出来れば人間? 自分の意思があって、意思表明が出来れば、それを人間と言うの? なら、その定義から外れた人たちは、お兄ちゃんの言うように『普通』じゃないってことなのね」

「いや、待って。僕は何もそこまでーー」

「考えてないであの質問を発したと言うのなら、お兄ちゃんは残酷だね。だってーー」


 周囲の喧騒が遠のく。


 隣の少女は、公太の目を見つめながら、


「ーーここにいる人たち、みーんな人間なんだよ?」


 突如、静寂が訪れる。


 時が止まっている。


 周囲の視線が、一斉に公太に集まっている。


「……それはーー」

「それにね、お兄ちゃん。そんなこと言ったら、お兄ちゃんだって、もう人間じゃないんだよ? だってほらーー」

 少女が、つないでいた公太の左手をあげる。

 そこにはーー

「もう、片腕、無いんだからーー」


 左腕が、影のように黒く染まっていた。


 ……そこからの出来事は、公太にとって曖昧だった。ただひたすらに、少女の手を振り払って、元来た道を走ったからである。

 走った。走って、走って、走って、走りつづけた。決して振り返らなかった。

 そして、祭りの影などないところまで走ってきた公太は、そこで意識を失ったのだった。……



 気がついた時には、公太は病院のベッドの上にいた。

 白い天井が見える。意識もまだ覚束ない。

 どうやら、一連の出来事は夢だったようだ。その感覚に、公太は心の底から安堵を覚えた。

 そのうちに、白衣の医者が看護師と共にやってきて、彼に説明をした。

 通りで倒れていたところを、通行人に発見されて、救急車で運ばれてきました。単なる貧血のようです。念のため、今日の夜はここで一泊してください。明日には退院できますから、と。

 医者が説明を終えた。公太は彼に礼を言った。

 医者が出て行ったあと、ふと、痛みを覚えた左腕をさすろうと右手をやった。

 するとそこには、あるはずの腕が、そっくりそのまま亡くなっているのだった。……


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