36㎠の夢

かえさん小説堂

36㎠の夢

 都会から随分離れた田舎町だが、そこには弓之池という場所がある。


 弓之池はその名の通り、弓のようにしなった円形の池である。ここは大昔、どこかの何とかという武将が建てた城の跡地なのであるが、まだ土地に食い込んだ石垣と、短い雑草ばかりが生える裸の平野だけがぽつねんと忘れ去られた、なんとも寂しい場所であった。そこの一角に、また忘れられたようにひっそりと水を抱えている池が、これであった。


 池の中には、膝が付くか付かないか程の量の黒い水が溜まっている。水面には埃に似たあやふやな物質が浮き、ぽつりぽつりと、いくつかの煙草の吸殻が揺れていた。


 見たところ小さな魚も泳いでいなければ、水草の一つも生えてはいないようだった。池の周りをいくつかの歪な石が取り囲んでいて、粘性を感じさせるコケ類がびっしりと取り付いていた。池と呼ぶよりかは、どちらかというと曲がった水たまりである。柵も用意していない、田舎らしい無法地帯の一つであった。



 城跡地と看板が立てられた道路から外れて、周囲には自然の香りを宿した山々がそびえ立っているこの場所だが、その様子はなんとも殺風景なものだった。この県の名所として、駅構内のパンフレットでは派手な文字と共に書き添えられていたものの、実際はただの平原であるようだ。


 周囲には私以外に観光客と思われる人はおらず、ここから幾分か離れたところにある記念館にすらも、人っ子一人として、見ることができなかった。道路の脇で悲し気にはためいた家紋が、どこか頼りなく見える。


 数時間ほど前まで、私が眺めていた姫路城とは、雲泥の差であった。


 丁寧に手入れされているあの国宝とは違い、ここは無造作に放置されているばかりである。この景色の節々から感じられる寂しさは、決して人の少なさのみが理由ではないのだろう。国宝は歴史を刻む標のようなものとして存在感を露わにしていたというのに、ここはむしろ、歴史に取り残されてしまったようだった。


 ところどころに落とされた建造物の影の隙間から、青々とした草木が茂っている。かつて轟音と鬨の声にゆらめいていたであろうその場所は、今や凪の如く、一縷の波すらも立ててはいなかった。国破れて山河あり、と詠った人の気持ちも、今ならば理解できるかもしれない。



 城巡りを趣味としている性分故に、城という文字に釣られて来てみたものの、実のところ、あまり落胆はしていなかった。そこまで期待していなかったのである。錆びたアナウンスが鳴る無人駅に降り立った時から、どうにもそのような予感はしていたのだ。




 私は踵を返して、帰ろうと足を踏み出した。が、その足は前に進まず、あっ、という少しの驚きと共に、留められることになった。


 私の数歩後ろに、初老の男性が、小さな木製の椅子に腰かけていたのである。折り畳み式のその椅子にどっかりと座って、男性は私の背後の山々を見上げていた。彼の傍らにずしりと置かれた荷物は膨らんで、何やら重たそうだった。


 気が付かなかった。普通、このような静かな場所ならば、人が来れば分かりそうなものである。いつの間にか現れた謎の男性に向き合う形になってしまった私は、その気まずさに喉元を押し上げられる。


「こんにちは……」


 つい口をついて出た挨拶だが、戸惑ったような私の声とは対照的に、男性は落ち着いた様子で会釈して返した。


 と、彼は不意に重そうな荷物の中を探って、絵筆とスケッチブックを取り出す。ああ、絵描きか、と私が理解するより早く、男性は取り出したパレットに水筒の水を垂らしていた。絵具が固まって凹凸の出来た、彼の手によくなじんだそれである。


 男性は手慣れた手つきで、スケッチブックに絵筆を滑らせていく。邪魔になるかと思い、私はすぐに彼の視界から外れた場所へ移動したが、どうやらそれは無用であるようだった。彼は目の前の景色に視線を向けることなく、一心不乱にスケッチブックへと意識を集中させていたのである。


 目の前の風景を描いているわけではないのか、彼は絵筆を紙に着けてから、一度も顔を上げようとはしなかった。彼は私のことも気にならないという様子で、休まず手を動かし続けている。


 風景を描く人たちとはこれまでにも会ったことがあるが、このような人は珍しい。私は興味本位で、男性へと声をかけた。


「何を描いていらっしゃるんですか」


 すると男性は筆の動きを一瞬止めて、何か考えるように口をもごもごと動かし、やがて低い声で呟くように言った。


「勝手に覗いてくれ」


 彼はスケッチブックを体から離し、私に見せるようにしてわずかに傾ける。




 そこにあったのは、若々しい少女の横顔だった。


 少女はどこか遠くを見つめ、身に纏うセーラー服を風に揺らしている。風を浴びた顔は清々しく、爽やかな表情をしていた。どこかを一心に見つめ続ける彼女の瞳は光に揺れて、なびいた短い髪が、茶色や赤に反射していた。それには、一種の眩しささえも感じることができた。


 そして色鮮やかな水彩絵の具が、紙の中の彼女を彩っている。柔らかな色を宿した風が、少女の顔に当たって、緩やかにほどけていた。全体的に色が多様に渦巻いた、朗らかな春のような印象であり、彼女の輪郭はハッキリとして、まるで現実の人をそのまま閉じ込めてしまったかのようだ。決して、格別に美人というわけではないけれども、魅力のある少女だった。


「お上手ですね。どなたですか?」


 私がそう尋ねるも、男性はすぐに返事をしようとしない。口下手な人なのだろうな、と思いながらも、それでも男性は何か返そうとしてくれているようだから、私は大人しく返答を待った。男性は頭を搔きながら、首をかすかに振った。


「分からん」


「……分からない?」


 私が再び問うと、男性はパタンと、スケッチブックを閉じてしまった。丸くなった背中をさらに丸めて、彼は深い溜息を吐く。


「知らんやつだ」


「知らん……やつって」


 どうにも曖昧な答えに、私は首をかしげる。あの鮮明な横顔は、架空のものとはどうしても思えなかった。あれほどまでに鮮やかな愛情を表した横顔など、想像だけで描けるものなのだろうか。



 と、私が黙っていると、彼はおもむろに、重そうな荷物のなかを探り始めた。ガサゴソと物音を立てながら鞄の中を引っ掻き回し、ようやく取り出したのは、手のひらに収まるほどの、小さなキャンバスだった。


 子供が遊ぶ人形のセットについているかのような、可愛らしい印象を受けるキャンバスである。しかし形は随分としっかりとしていて、裏側はきちんと木とネジで留めてあり、材質も通常のそれと何ら変わらなかった。男性はそのキャンバスを取り出すや否や、先ほどのスケッチブックと同様に、迷いなく絵筆を滑らせ始めた。


 小さいキャンバスは、あっという間に全体を絵具で染める。男性は裏側の木の部分を器用に持って、絵筆をほうきのようにはらっていく。


 全体が塗れてしまうと、次に彼は細い小筆を使って、何かの輪郭を描き始めた。筆の先が沈み切らないよう、表面スレスレで線を引いていく。虫眼鏡が欲しいほどのこまやかな作業に、私も思わず見入ってしまっていた。



「……絵の少女のことは知らん。が、モデルならいる」



 不意に、男性が話し始める。急なタイミングに面食らいながらも、私はなんとか返事をした。


「モデル、というと?」


「俺の妹だ」


 男性の姿を見るに、もう四十路を迎えていそうである。だとすればその妹さんの年齢は、少なくとも成人していなければ不自然だった。その疑問に答えるように、男性は続けた。


「もういない」


 淡々と言う男性の声には、何の感情も乗っていなかった。ただの歴史を話すかのように抑揚もなく、無愛想なアナウンスのようだった。


「……それは、お気の毒に……」


 その場に降りた沈黙を嫌って、ようやく口に出たのがそれであるから、我ながら情けなかった。しかし当の男性はと言えば、得にこれと言って気にしている様子もなかった。彼は依然として絵筆を小刻みに揺らし、作業を続けている。


「弓之池でな。溺れたんだ」


 私はハッとして、先ほど見下ろした池を見た。黒い水を抱えた、忘れられた池である。今は波一つとして立っていない、穏やかな水たまりだ。


「俺が悪かった。当時は生意気なガキで、村の仲間とつるんでは、悪ふざけして遊んでいた」


 呟くように言う男性であるが、彼はそのときにも、キャンバスから目を離すことはなかった。私がキャンバスをのぞき込むと、もう大まかな輪郭が姿を現し、絵筆は少女の影を形作っていた。


「……夏の夜、仲間と肝試しをしようってことになった。親が寝静まった後、こっそり抜け出して、この城跡に来るんだ。ただ仲間内でやるはずだったのに、妹はこの話を聞いてしまったらしい」


 浮かび上がったキャンバスの少女は、今度は随分と大人びた輪郭をしていた。長く、艶のある髪が綺麗に括られ、正面を向いた華奢な顔に、何かうっすらとした幕が下りている。


「妹はいつも、俺たちの遊びに入りたがっていた。だが、まだ幼稚園生だったから、俺は妹を遠ざけていた。危ない遊びをすることもあったから、危険から守るつもりだった」


 たどたどしい口調だが、その言葉には何の感情もなかった。彼は絵筆を雑に洗い、パレットにぷっくりと染み付いた白い絵の具を筆先に滲ませる。


「知らないうちに、あいつは俺の後をつけてきたらしい。俺が仲間の電灯に向かって手を振った時、後ろで激しい水の音がした。俺はそれを、妹だとは思っていなかった。妹は懐中電灯も持っていなかった」


 そう話しながら、彼は丁寧にキャンバスへ色を落としていく。小筆の先がゆっくりとキャンバスを撫でて、ようやく宙に浮いたとき、男性の皺のついた手のひらの中では、綺麗なウエディングドレスをまとった女性が微笑んでいた。


「……親には、何も言われなかった。朝日が昇って、ようやく妹が布団の中にいないことに気づいて、捜したときには、もう遅かった」


「……」


 私は何も言うことが出来なかった。周囲に重苦しい空気が宿り、吹き抜ける風さえもが、生々しくぬるくなっていた。


 男性は書き終えた絵をスケッチブックの上に置き、日光に当てて乾かし始める。太陽に照らされたウエディング姿の彼女は、まだ生きた絵の具で、キラキラと光を反射させている。


 男性はようやく顔を上げた。それと同時に、深い溜息を吐いた。


「……こんなもん描いたって、どうにもならんのにな」


 その口調には、わずかながらも感情が滲んでいるように聞こえた。


「こいつは妹じゃない。ただの、……俺の白昼夢のようなものだ」



「でも、妹さんを思って描いたんですよね」


 私は半ば夢中になって言った。胸にやるせない思いが溢れて、まくし立てるように口をつく。何かの情とでも言うべきなのだろうか、見ず知らずのこの男性に、私は慰みの言葉の一つでも、かけたくなってしまった。あるいは、私はこの静かすぎる悲しみを嫌がったのかもしれない。


「この絵は妹さんがモデルなのでしょう? だったら、これがただの夢だなんて……。確かに、もう妹さんは亡くなってしまっているかもしれませんけれど……。貴方の心の中で、彼女は、まだ生きているのではありませんか? そうでもなければ、このように鮮明に、描けるわけがないではありませんか」


 風の音がサアッとなびいた。池の中で黒い水が揺れる音がする。それに呼応するかのように、山がゴウゴウと唸りを上げた。男性は、力なく首を振った。


「いや、もう駄目だ。こんなに小さく描けるようになってしまったから、もう」


 私からは、男性の表情が見えなかった。彼は山の方を見上げて、どこかぼんやりとしていた。


「……こんなに小さなキャンバスに鮮明に描けちゃ、もうそれは夢でしかない。客観的に、論理的にな、それが空想だと認めたようなもんだ。こんな絵なんて、俺の匙加減一つでどうとでも変わる。これは完全な夢だ。現実ではないものだ」


 それは、どこか諦めの含んだ言い方だった。私は口を開きかけるも、彼はそれをふさぐようにして「それに、」と言った。



「妹のことはもう……完全に風化した」



 それで決着がついてしまったかのようだった。それと同時に、先ほどの感情のない言葉が再び響いてくる。悲しさも、寂しさも、怒りも、口惜しさも、すべてが消失したような口調である。しかしその言葉とは裏腹に、太陽に照らされた小さなキャンバスは、眩しいほどの光を放っていた。


「……こうは、なるなよ。お前さんはまだ若いんだから。全部大切に持っておくんだ。こんなちっぽけなキャンバスの中に、落とし込めるようなものは、描けるようになるな。小さく描けてしまったその時、もうそれは一生、叶わなくなる。夢は夢のままになる」


「……」


「分からんか。まあ、そんなもんだ」


 それだけ言ってしまうと、男性は小さな椅子から立ち上がって、重たそうな荷物に絵筆とパレットをしまい込んだ。ギュウ、と中で何かが潰れる音がする。しかしそんなことも気に留めず、男性は絵具がこびりついた手で荷物を押し込んだ。


 私はふと、彼が平原にスケッチブックと小さいキャンバスを置き忘れていることに気が付いた。


「あの、お忘れですよ」


 男性はその声が聞こえないとでもいうように、振り返ることもせずに立ち去ってしまう。




 私は少しの罪悪感に引っ掛かりながらも、草の上に転がされたスケッチブックを手に取り、パラパラとめくってみた。


 先ほど見た横顔が最後のページであったらしい。最初の方へめくっていくにつれて、少女は様々な表情と姿を見せた。少女の顔つきはバラバラで、最初の方のページへ行くほど、姿がぼんやりとして、顔つきや形、輪郭が曖昧になっていく。髪の長さも様々で、一番初めのページには、かろうじてウエディングドレスが分かるほどの、色がにじんだ絵が収められていた。


 私は直感的に、このときが一番、夢が現実に近いところにあったのだろうなと思った。そして再び、草の上にある小さなキャンバスに目を向けた。そこには依然として、ハッキリとした女性のウエディング姿が描かれていた。



 忘れ去られた城跡に、そのキャンバスは不思議と溶け込んでしまっていた。

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