スタートボタン、押すのが正解か?

いおにあ

第1話 スタートボタン


 金属製の机の上に、一つのボタンがある。プラスチック製の透明なケースに入った、赤いボタンだ。


 これはスタートボタンという名前だそうだ。押せば、なにかが始まる。ただし、何が始まるのかは分からないとのこと。


 付け加えると、このボタンを押せば何かが始まるのと引き換えに、私は何かを代償として失うという。その失うものについてもまた、知ることはできない。


 押すか押すまいか。今、私の前には二つの選択肢がある。




 小一時間ほど前、私はこの部屋で目覚めた。


 四方を灰色の壁に囲まれた、窓も出入り口もない部屋。飾りもなにもなく、あるのは部屋の中央に静かに置かれている金属製の机のみ。そして、その机の上に置かれている一つ赤いボタン。


 目覚めた私がまず試みたのは、この部屋からの脱出だった。だが程なくして諦めた。どこをどう探しても、出入り口らしいものは見当たらない。私がここにいる、ということは必ずどこかからこの部屋に入ったはずなのだが、不可解なことにその出入り口らしいものはどこにもなかった。


 その次に私は、己の記憶がないことに気付いた。自分の名前は、出身地は、どんな過去を送り、今日までどのようにして生きてきたか。不気味なことに、なにひとつ思い出せなかった。


 それから、部屋のちょうど中央に置かれたボタンを調べてみる。透明なケースに入れられた、赤いボタン。調べてみたら、ケースの裏に、このボタンについての説明が書かれていた。それで、これがスタートボタンという名前であること、他諸々の情報を知ることができたというわけだ。

 


 疑問なのだが、このボタンをずっと押さなかったら、どうなるのだろうか?時間切れで、私をこの部屋に連れてきて監禁した何者かが、私を解放してくれるのだろうか。


 いやいや、そんな甘い話ではないだろう。最悪、ここで餓死かも。うん、大いにあり得る。


 だが――ひょっとしたら、そのままという可能性はないだろうか。スタートボタンという名前の示す通り、このボタンはなにかを始めるための、きっかけとなる存在だろう。では、それを押さなかったら?私はずーっと、このままこの部屋にいるだけ。変化のない時間を、未来永劫ここで過ごすことになる。


 ・・・・・・私はなにを考えているのだろうか。


 常識に照らし合わせれば、今こうして私が思考している間にも、代謝は活発に行われていて、私の身体は刻々と変化している。


 いや、それもどうなのだろうか。そもそも私は人間なのだろうか。それ以前に生物なのだろうか。なにしろ私は、過去の記憶をすべて失っている。私が、生物ではないロボットか何かだとしても、不思議ではない。永久機関を内部に持つ、思考するロボットかもしれない。


 だとすれば――やはりこのボタンを押すべきなのかもしれない。一生をこの部屋で過ごすというのは、やはり寂しい。このボタンを押せば、なんらかの変化が起こることは間違いないようなのだから。きっとこのボタンを押せば、外の世界に出られる。そんな予感があった。


 でも、仮に外の世界に出られたとしても、そこは本当にこの部屋よりマシな世界なのだろうか?ひょっとしたら、全人類が滅亡して、ゾンビだらけかもしれない。で、私は命からがらこの部屋へと逃げてきた。だけれどなにかが原因で記憶を失ってしまった。その可能性もある。


 でもなあ・・・・・・やっぱり、ここから出たいという気持ちが強い。いや、ひょっとしたらこの部屋からは出られないかもしれないが、記憶は戻るかもしれない。うん、そうだ。このスタートボタンを押せば、記憶がよみがえり、私が何者なのかについて知ることができるかもしれない。


 だとしたら、やはり「押す」という選択肢を取る以外にないだろう。でもやっぱり、ちょっと不安があるな・・・・・・ここまで不安になるとしたら、少なくとも私はロボットじゃないだろう。しかし高性能なロボットかもしれないし・・・・・・。


 散々迷いに迷った。そして、やっぱりスタートボタンを押すことに決める。


 大きく深呼吸をして、私はボタンを覆う透明なケースを開ける。そして、もう一度大きく深呼吸をして、恐る恐るその赤いスタートボタンを押す。


 カチリ、という小さな音がした。

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