第64話 沼地の浄化作業⑤
三日間、不眠不休で行われたイリアスとパシィの魔法陣作成にアイラは極力邪魔にならないよう振る舞った。二人の作業が一段落した時に食べられるように料理を作って置いておく以外は、とにかくひたすら存在感を消す。まるで臆病な魔物ココラータに気がつかれないように追跡している時のようだったが、神経は今の方が使う。地下に長居すると余計な物音で二人の集中を乱してしまいそうだったので、アイラはあまり地下にいかないようにした。シングスは静かにするのも慣れているそうなので、地上と地下を行ったり来たりしている。アイラの行動はつまるところ、小屋で瘴気の成分を分析して研究している時とほぼ変わりがない。四日目の朝、朝食を用意していたら、石室からリボン結びにしたピンクのツインテールが突き出し、続いてシングスが顔をひょこりと覗かせた。
「アイラ、魔法陣完成したって。さっそく起動してみるから、来て欲しいって」
「わかった、今行く」
レンズ豆の角豚の煮込みを慌てて完成させて火を消すと、アイラはシングスに続いて地下の石室に飛び込んだ。
瘴気溜まりの中心部には、立派な魔法陣が描き上がっていた。複雑怪奇な魔法陣にはアイラたちが倒しまくった魔物の体内から取り出した魔石があちこちに配置され、魔力が流されるのを大人しく待っている。
イリアスとパシィは、少し緊張しているようだった。パシィが小さな手を伸ばし、魔法陣の中心に位置している大きな魔石に触れ、硬い声を出した。
「……では、起動します」
パシィの魔力が魔石に流れ、それが引き金となって魔法陣が光り出した。他の魔石も次々に発光し、陣に描かれた文字や記号が光線のように浮かんで紡ぎ出され、細い糸のように依り合い、青白い光が地下空洞を満たす。
魔力が地面に沿って流れていることにアイラは気がついた。まるで鍋に蓋をするかのように、隙間なくぴっちりと、地面が魔力でできたヴェールのようなもので覆われていく。魔力のヴェールが魔法陣を中心にさざ波のように広がり、地下空洞の四方八方に伸びて行った。
同時に、瘴気が揺らいで弾けて消えていく。細かな粒子に魔力が触れるたびに弾けて、無毒化しているようだった。
瞬く間に空気が清浄になっていく。
魔法陣がその効力を発揮しきった時、地下空間はもはや濃度の高い瘴気が溜まる空間ではなく、元の清涼な空気を湛えた空洞になっていた。
オデュッセイアが張り続けていた結界魔法を解除する。アイラは思い切り深呼吸をしてみた。
「わ、すごい……! あっという間に澄み切った空気になっちゃった!」
「地下から吹き出す瘴気を塞ぐだけでなく、瘴気を無毒化する記述も加えてある。万一漏れ出て来ても、これなら安心だからな」
イリアスは魔法陣の起動に成功したことに安堵の息を漏らし、額の汗を拭っていた。
「じゃ、これでおしまいってこと?」
「そうなる」
「うまく行って、よかった」
パシィが震える息をついた。
「五十年、ずっとどうしようか悩んでたの。どんどん瘴気の量が増えていって、道具が足りないから研究もはかどらないし、訪れる人からは敵視されるし、瘴気を吸い込んだヘルは成長し続けるし……」
これまでの苦労を思い出し、パシィの大きな瞳からポロポロ涙がこぼれ落ちる。五十年という長い間、周囲からの協力を得られないどころか敵視された状態で、たった一人沼地に止まり続けていたパシィの苦労を考えると涙が出そうだった。たとえ百五十年生きていてアイラよりずっと年上だとしても、見た目は十歳くらいなのだから、哀愁は尚更大きい。アイラはパシィの背中を撫でた。
「がんばったね、パシィ。よしよし」
「アイラ、ありがとう……アイラが来てくれなかったら、パシィもヘルも、お兄様にやられてたかもしれない。パシィは、人を説得するのが苦手だから、きっと誤解を解けなかったの」
パシィが背伸びをしてアイラに抱きつき、胸に顔を埋めてくぐもった声を出した。
「うんうん、一足先にパシィに出会えていてほんとによかったよ」
グスグスと鼻を鳴らして泣くパシィが落ち着くまで存分に背中をさすってやる。しばらくして落ち着いたパシィはアイラの胸から離れると、すんっと鼻をすすった。
「じゃ……上に行く?」
「うん」
一行は地下空洞を後にし、小屋へと戻った。窓の外は相変わらずのどんよりとした薄紫色だ。
「これ以上の瘴気の流出は防いだけど、今蔓延してるのはどうしようもないんだよね?」
「いや、多少ならば晴らすことができる」
オデュッセイアは小屋を出て、さらに結界に覆われている安全地帯を抜け出した。
「何するの?」
好奇心に駆られてアイラが後を追いかけると、彼は背中越しにアイラを一瞥し、短く告げた。
「気になるならそこで見ていても構わないが、結界を張っていても防ぎきれるかわからないぞ」
「……? あたしの結界は、ちょっとやそっとのことじゃ破れないよ」
「自信があるなら、試してみるのもいいかもしれないな」
オデュッセイアは、彼にしてはやや挑発的な笑みを浮かべてそう言った。
陰気に澱んだ空を見上げる。
両手を掌を上にして、胸元まで掲げた。
オデュッセイアの膨大な魔力が緑色の光となり、手の中で渦巻いている。注がれる魔力の量がどんどんと増え、暴発寸前に達したようにアイラには思えた。これ以上、あの小さな渦の中に魔力をとどめておくのは無理だろう。しかしアイラが予想するよりももっと多くの魔力が、渦の中に留まり続けた。膨大な魔力をひとところに留めておくことの難しさはアイラもよく知っている。同じ魔法でも、注ぐ魔力によって威力が変わるのだが、魔力コントロールは針の穴に糸を通すような精密さが必要なので、言うよりも百万倍やるのが難しい。シーカーに教えてもらった当初、アイラもよく注ぐ魔力の量を見誤って魔法を暴発させていた。
ある時、初歩的な火魔法に失敗してしまった。煤まみれになったアイラの顔をシーカーは袖でゴシゴシ拭い、身体中の火傷に軟膏を塗ってくれた。軟膏は痛みを和らげるだけでなく、ジンジンと熱を持つ傷口にヒンヤリ心地よかった。
「アイラは魔力が多いから、コントロールを間違えると大変なことになるよ」
とシーカーが言っていたのをよく覚えている。
そんなわけなので、今オデュッセイアが何の気なしに注ぎ込み続けている魔力量には驚きの一言だ。
尋常ではない量の魔力を注ぎ込まれた球体を、オデュッセイアは瘴気燻る虚空へと向け、掌から放った。
音なき爆風が吹き荒れた。
周囲の水面を波打たせ、オデュッセイアを中心とし、凄まじい嵐が巻き起こる。突如として襲い掛かる風圧に、結界を貫通してアイラの赤毛がなびいた。足を踏ん張り、吹き飛ばされないように耐える。普段前髪で隠している左目が顕になり、ピントが合わなくなった。慌てて左目をつむる。
あり得ない。アイラの張った結界はいつもと変わらない強度で、つまり万全なはずだ。ただ同時に納得もしていた。アイラには込められない量の魔力を注いだ魔法が発動したならば、アイラが防ぎ切れるはずもない。つまり、純然たる魔法使いとしての実力差である。
ーーふいに視界が明るくなった。
ヴェルーナ湿地帯に足を踏み入れてから常時紫色に霞んでいた視界が、青く澄む。暴風の最中に恐る恐る顔を上げると、オデュッセイアが立っている真上、霧が晴れて太陽が当たっていた。
(まさか……風で瘴気を吹き飛ばした? この量を?)
にわかには信じられない光景に、アイラの口がポカンと開く。オデュッセイアは台風の目の中にでもいるかのように涼やかな佇まいだった。ただただ、立ち上る風を、エメラルドグリーンの瞳で見つめている。
やがて風が止んだ。
「瘴気が……晴れた?」
「一時だけに過ぎないよ。さすがに湿地帯全域に漂う瘴気全てを吹き飛ばすのは不可能だから。ただ、薄まったはずだ」
言うより難しいことは明らかだ。息ひとつ乱さずに大技を使ってみせたオデュッセイアは、軽く肩をすくめた。長髪を手の甲ですくい背中へと流すオデュッセイアを見つつ、アイラは本音を漏らした。
「……すご」
「シーカー殿の育て子にそう言ってもらえるとは、光栄だな」
振り返ったオデュッセイアは、薄い緑色の長髪越しに、てらいのない笑顔を向けてくれた。
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