第2話 捨てた命と第二の人生②

「ーーんえ……」

「あ、目が覚めた?」


 次に意識を取り戻した時、アイラはふかふかな毛の中で目を覚ました。毛布だろうか。赤とオレンジ色が混じり合った風変わりな毛布と思しきものは、まるで布自体が発熱しているかのような、人肌以上の温もりを感じて心地いい。視線だけを動かすと、爆ぜる焚き火越しに柔らかな笑みを向けてくれる男の人がいた。濃茶のまっすぐな髪を高い位置でひとつにまとめた、綺麗な顔の人だった。炎に反射して、金にも銀にも白にも揺らめく神秘的な瞳が特徴的で、まるで満月のように輝いている。

 視界がおかしい。狭い気がする。アイラが左目に手をやると、包帯が巻かれているのに気がついた。お兄さんは眉尻を下げ、申し訳なさそうな顔をする。


「長らく栄養状態が良くなかっただろう。左目の視力は戻らない可能性が高い」


 そう言われても、別段絶望感のようなものは湧かなかった。死のうとしていた身だ、今更片目が見えなくなったところでどうということもない。

 それよりもアイラは、このお兄さんのことが気になって仕方がなかった。


「お兄さんは……」

「きみが倒れているのをたまたま見つけたから、助けたんだ。ヴェスペリーニャ平野で人に会うのは珍しい。おまけにどう見ても冒険者でも傭兵でもない、小さな女の子なんだから尚更だ。なにせ世界樹から離れた場所では、普通の人なんて滅多に見かけないから」


 お兄さんは焚き火に枯れ枝を折ってくべながら穏やかな声で言う。聞いているだけで心が和む、不思議と人を落ち着かせる声だった。


「住んでいた村がなくなっちゃったから……他の街に行こうとしてて」

「なるほど。でもこの辺りの街によそ者を受け入れる余力はないんじゃないかな」


 アイラはこくりと頷いた。


「だからもう、死んでもいいって思って」


 アイラはふかふかな毛布に身を横たえたまま、か細い声を紡ぐ。暖かくて落ち着く。このままもう一度目を閉じて、一生目を開けたくないと思った。魔物に食い殺された父や、硬い地面に打ち捨てられた母に比べたら、とても贅沢な死に方だろう。

 お兄さんは、ちょっと困ったような笑みを浮かべた。


「実際、その方が楽かもしれないね。希望を抱いて新たな場所に行き、また絶望するくらいなら、女神様の下に還ったほうが幸せだ」

「はい」


 パチパチと薪を焦がして炎が昇る。

 その時、久しく嗅いでいなかった良い香りがアイラの鼻腔に届いた。

 これはミルクを温める香り。それも、野菜や肉などが溶けて煮込まれた、複雑な香りだ。よく見ると焚き火には鍋がかけられていて、そこから湯気が立ち上っている。

 アイラのお腹がグウと鳴る。嗅覚が刺激されていやが応にも空腹を思い起こさせた。もう何日、食べていないだろう。最後に食事したのがいつかさえアイラには思い出せなかった。


「お腹空いてるかい」

「はい」


 素直に頷くと、お兄さんはお椀に鍋の中身をすくって入れてくれた。


「どうぞ」


 スプーンと共に渡されたお椀を受け取る。おそるおそる中を見た。ごろっと大きめに切られた野菜と肉がたっぷりと入っている。ここ数ヶ月はほとんど朝露と雑草と木の実しか口にしていなかったから、きちんとした食事などかなり久しぶりだ。

 ゴクリと生唾を飲み込んだアイラは、お椀に口をつける。

 種々の食材が溶け出したミルクスープは、それだけでご馳走だった。骨と皮だけになってしまったアイラの体に栄養が染み渡る。美味しい。温かいスープが、泣きそうになるくらい美味しい。実際に涙がじわっと流れ出て頬を伝う。

 泣きながらスープを食べた。

 スプーンを動かし夢中で食べた。柔らかい野菜とお肉が、アイラの空っぽな胃袋の中に入っていく。

 あっという間に一杯目のスープを食べてしまうと、お兄さんは二杯目を盛ってくれた。三杯でも四杯でも、アイラが満足するまでおかわりさせてくれて、途中でパンまでくれた。ふかふかのパンは噛み締めるたびに素朴な小麦の味わいとバターと砂糖の味わいがして、とても美味しかった。

 そうして心ゆくまで食事をして満腹になったアイラは、ようやく周囲を気にするだけの余裕が生まれた。

 まず気がついたのは、アイラがずっとよりかかっていた柔らかなふかふかの暖かいものが、生き物であるということだ。巨大な体は全身が赤とオレンジ色の美しい毛に覆われており、前脚についた鉤爪一本がアイラの手ほどもある。尻尾はまるで今目の前で燃えている焚き火がそのままかたまったかのような形をしており、炎そのものに見えた。間近に迫った半開きの口からは鋭い牙がびっしりと生えており、体毛同様赤とオレンジにきらめく瞳はアイラを捉えて写し込んでいた。思わずアイラは息を呑んで叫んだ。


「わっ、ま、魔物!!」


 慌てて離れたアイラであるが、尻餅をついて転んだ。お兄さんは爆笑した。


「たしかにルインは火狐族だけど、魔物じゃない。火狐族は獰猛で攻撃的だけど、ルインはおとなしい性格だ。おかげで身内争いで自滅した仲間たちの輪に入らず、こうして生き延びたんだし」


 その言葉に応じるように、燃える焔がそのまま具現化したような毛並みを持つ狐に似た生き物は「キュウ」と言い、前脚に頭を乗せて寝てしまった。

 ひとしきり爆笑したお兄さんは、アイラを優しく見つめながら尋ねてくる。


「君の名前を聞かせてもらってもいいかい」

「アイラ」

「いい名前だ。俺はシーカー。冒険者をやっている」

「冒険者……」


 話に聞いたことがある。冒険者というのはこの世の秘境や前人未到の地に行き、希少な素材や強力な魔物を狩って生きる人たちの総称だ。過酷な世界を生き抜くため、普通の人には使えないさまざまな魔法や剣技を使えるのだという。

 シーカーと名乗ったお兄さんは、確かにアイラがこれまで見てきた村の人たちとは異なる格好をしていた。革のベストにはたくさんのポケットがついていて、腰にもポーチのようなものを巻いている。亜麻色の長ズボンの裾を茶色のショートブーツにねじ込み、手には厚手の革の手袋をしていた。隅には年季の入ったリュックが置かれている。耳に嵌まった金色のピアスが焚き火の光に反射しているのを見て、お兄さんの耳が少し尖っていることに気がつく。尖った耳はエルフの証だ、と昔に母が読んでくれた童話で知ったことがある。するとお兄さんは伝説の種族、エルフなのだろうか。

 お兄さんはなおも、穏やかな声を出した。


「さて、アイラ。まだ死にたいと思う?」


 聞かれてアイラは即答できなかった。

 先ほどまでアイラは確かに死にたかったはずだ。空腹でひもじくて辛くて、体が全然動かなくて、父も母も死んでしまって、生きていても仕方がないと思っていた。

 今はどうだろうか。

 一度諦めた命だったのに、お腹がいっぱいになって手足が動くようになった途端、なんだか惜しくなってしまった。今死ぬのは、とてつもなく恐ろしい。

 ボロボロの衣服の裾をぎゅっと握ったアイラは、首をフルフル横に振る。

 お兄さんは頬杖をつき、焚き火ごしにアイラに柔らかな視線を送ってくる。


「ん、そうか。話は変わるけど、アイラにはたぶん魔法の素質がある」

「魔法の?」

「そう。得意属性の魔法がある場合、髪や目の色に現れることが多い。君は見事な赤髪と澄んだ水色の目をしているから、きっと火魔法と水魔法両方が使えるはずだ。どう? どうせ行くところがないのなら、しばらく俺と一緒に旅をして魔法を覚えてみないか」


 この提案は、頼れる人が誰もいないアイラにとってとてつもなく魅力的だった。

 ほとんど何も考えずアイラは首を縦に振る。

 シーカーは破顔した。


「なら、今日からよろしく」

「よろしく、お願いします」


 アイラが寄りかかっている、火狐族のルインが、キュウと高い狐のような鳴き声を発した。

 

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