瞬間を彩る
咲翔
***
目の前に見える、砂に塗れた白線から――遥か向こうに見える真っ白な帯を目指す。
足を動かせ、腕を振れ、前を向け、風を切れ。
スタートラインとゴールテープはどうして同じ白色なんだろう、なんていう唐突な疑問を頭に浮かべながら、私はその白に飛び込んだ。
「ハルメー、ちょっとタイム落ちてるよーぅ」
遠くで計測をしてくれていた部活の友人――ミナツが、私の名を呼んでいる。まじか、タイム落ちてたか。
「そっかー、何秒くらい落ちてる?」
手についた砂をパッパと払いながら、小走りで彼女の元へ向かう。
「んー、0.2秒」
「結構落ちたね」
「なんかね、序盤から中盤の起き上がりのタイミングがベストの時より早かったかも」
「あー、確かに。いつもより風の抵抗強いなとか思ってたんだけど」
「じゃあそれだ。風が強かったんじゃなくて、抵抗受けてる時間そのものが長かったんだね」
私の感じたことを汲み取って、きちんとした言葉に落とし込んでくれるミナツ。彼女は頭がいい。学力的な部分も含め、なんかこう、人間として頭がいいっていうか。
「ハルメ、どうする? もう一回走る?」
「いやー」
私は苦笑いして首を傾げてみせた。
「もういいかな。今日は結構走ったし」
「あら、そう」
「タイムも落ちていくばかりだしね。調子の悪いときは走らないに限る」
「そういう感じなのね。じゃああたしが走ってくるわ。ハルメ、計測お願い」
ミナツは私にクリップボードとペンと精巧なストップウォッチを押し付けると軽やかに走っていった。
「ハルメー、走るよー」
「はーい。100mでオッケー?」
「もちろん100だよーぅ」
遠くでミナツが両手で輪っかを作った。青空に、白い学校指定の体操着が映える。私はそんな友人の姿を見とめたあと、ストップウォッチの液晶に目を落とした。
「Ready」
マネージャーの声がグラウンドに響く。私もそちらに顔を向けた。一人、レーンでクラウチングスタートの姿勢を取るミナツ。
「Set」
ミナツの腰が上がる。途端、私は思った。ああ、ミナツの顔は下を向いているけれど心の目は前だけを向いているんだな、と。きっとミナツの視界には茶色い地面と白線しか映っていなくて、でもその白がゴールテープに見えてるんだなって。
わかった。
だって私もいつも見てるから、その光景を。
近くて遠い、その白い帯を。
パンと短い銃声が校庭にこだまして――私の右手の親指がストップウォッチのスタートボタンを押し、ミナツの右足がスタートラインを踏み切った。
地面、空、ゴールテープ。
茶色、水色、白色。
ミナツの見ているであろう色の移り変わりを、私もまた見る。ああ、ミナツのフォームはやっぱり綺麗だな。でももう少し足の回転速くできる気がするな。
風を切る、音がした。
気づけばミナツは100mという距離を走り終わっており、私は無意識ながらもいつもの癖でストップウォッチを止めていたようだった。
「ハルメ」
名前を呼ばれて顔を上げた。
「あたし、どうだった?」
「ん、ああ」
私はさっき記録したばかりのタイムを読み上げる。それを聞いて唸るミナツ。
「んー、昨日のほうが速かったな……」
「ちょっとね、私が言えることじゃないかもなんだけど、足の回転に無駄がある気がした」
「それは、ずっと?」
「いや、ところどころ。それがなくなれば、あと少し速くなる気がする」
なるほどね、と素直にミナツは頷いた。
するとそのとき、丁度私たちの頭上を飛行機が通り過ぎていった。ゴオオオオオという轟音に、しばし耳を塞ぎたくなる。
「あ、飛行機」
「自衛隊かな」
二人でしばらく、その飛行機が残していった細長い雲を見つめる。飛行機雲……。晴れ渡る青い空に、白い線が。
「あたしさ、ちょっと飛行機雲、羨ましいんだよね」
突然、ミナツが呟いた。
「そりゃまた、どういうわけで」
「なんかさ、飛行機が飛びましたよーっていう痕跡を少しの間残しておけるじゃん」
「うん、飛行機が通ったあとに残る雲だからね」
「あたしたちが走った後って……何も残らなくない?」
「え?」
「いやぁ、なんかさ……短距離って短すぎて六秒か七秒かで終わっちゃうじゃん。途中で分かりやすいドラマのある駅伝とかマラソンとか、目を惹く投てき競技とか……そういうのが持っている諸々を、あたしたち持っていないなって」
ミナツが私から奪い取ったストップウォッチを弄びながら、薄れゆく雲に目を細める。
「そうかな」
私の口から、言葉が飛び出た。
「そんなことないと思うけど」
心の中を、そのまま紡ぎ出していくように。
さっき“感じた”色とりどりの世界を思い出して。
「短距離ね……確かにグラウンドには、コースには何も残らないかもしれない。だけど、心の中になんか残らない? 走ってる最中の一瞬一瞬の記憶とか、途切れ途切れだけど……青空が見えたときの感動とか」
ミナツの目が見開かれた。
「確かに……ある、あるわ記憶」
そう――私たちは感じているはずなのだ。たった七秒とかそこらで終わってしまう勝負の間に、土を蹴る音を、光あふれる空の輝きを、白への焦がれる想いを、風を吹かせている感触を。
「そっか。気づいていないだけだったんだ。飛行機雲を羨ましがる必要はないんだね」
ミナツが小さく笑った。
そして今度は大きく肩を震わせる。
「てかさ……今のあたしたちの会話、すごくアオハルドラマっぽくなかった?」
「いやそれ思ったわ」
私も吹き出す。
「飛行機雲への憧れ、短距離走が残すもの……って! 完全にアオハルやん」
「うっわ、恥ずかし」
「その恥ずかしさを紛らわすためにも、もう一本走りましょーか!」
「え、ハルメ、さっきはもう走らん言ってたのに」
「なんか、さっきのミナツと飛行機雲見てたら走りたくなったの!」
そう、今日のうちにもう一度感じておきたかった。私が走っているときに何を見て何を聞いて何を思っているのか――七秒間の、色とりどりを。
「よーい、どん!」
部活動の最中だというのに、私たちは掛け声もおざなりに、レーンも外れて、ただひたすらに走りまくった。マネージャーが「何やってんだ、あいつら」という目で見ているが、気にしない。
ただ、白から白へ。
青空のもとへ。
その瞬間を私たちの色で染めていく。
うまく走れなくても、タイムが伸びなくても、今は気にしない。ただひたすらに、漠然とした悩みを抱えてしまう時期だからこそ――何も考えずに。
足を動かせ、腕を振れ、前を向け、風を切れ。
――走れ。
Ready?
Set
GO!
瞬間を彩る 咲翔 @sakigake-m
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