この男は狂っている

うもー

この男は狂っている


今日は雲ひとつない快晴だった。

ビルの屋上に出た私はフェンスに腕を置き、街を見下ろす。あいかわらずの都会の喧騒と、社会に順応しながらせわしく生きる人々の姿がある。

大嫌いな景色。


私は昔から集団の中で生きるのが苦手だ。子供のころは一人遊びばかりで、学生時代も不登校気味だった。要領も悪く、周りの人が簡単にできることが私にはできなかった。

新卒で入った会社は一年足らずで辞めた。仕事も人間関係もうまくいかず、毎日が苦しくて、生きている感じがしなかった。


最後の出勤日、高橋部長から「逃げてばかりじゃ社会でやっていけないぞ」と言われたことを思い出す。

腹が立った。

自分の無能さなど、自分が一番わかっている。

わかっているけど、どうしたらいいのかわからない。

仕事を辞めてからは毎日、将来の不安と焦りで押しつぶされそうだった。働かなければと思うけれど、どうしても体が動かなかった。


そして今日、久しぶりに外に出た。

思いっきり空気を吸い込む。

何度も嗅いだ都会の味。

少しも名残惜しさを感じさせないくらいに不味かった。

おかげで、さっさと死のうと思えた。


フェンスをまたぐ。

数十メートル下の地面。

落ちれば、確実に死ねる。

足がすくんでしまうのは、きっと本能的なものだ。

大丈夫。

落ち着け。




――何してんだ?


後ろで声がした。

振り向くと、よれよれの作業着を着たガタイのいい男が立っている。

「来ないでっ!」

とっさに叫ぶ。

「あ? なんだよ、いきなり」

男は怒鳴られたことに対してのみ、不服そうに顔をしかめる。私がフェンスの外側にいることには、気にも留めていないようだった。

「出てって」

「なんでだよ、空見ながら飯食うと思ってんのに」

「いいから出てって!」

「はあ? なんで?」

ああ、イライラする。

最後くらい、きれいに死なせてくれてもいいじゃないか。

「……これから死ぬから、邪魔しないでください」

「死ぬ? 死ぬって、どうやって?」

「ここから飛び降りるんです!」

「ああ!?」

男はようやく状況を察したのか、目を見開く。

「そんなのすんじゃねえよ、おめえ!」

そう叫ぶ男を見て、こいつもやっぱり相いれない人間だ、と思う。


以前、唯一の友人である奈津子と久しぶりに飲みに行ったとき、仕事の悩みを打ち明けた。死にたい、と半分本気で愚痴をこぼした私に、奈津子は「死ぬなんて、そんなこと言っちゃだめだよ」と軽々しく言った。だめな理由を訊くと、めんどくさそうに苦笑いをするのだ。

そこら辺に転がっている倫理観で簡単に蓋をしてしまう彼女は、きっと私の気持ちなんて理解できないだろう。

きっと、この男もそうだ。


怒りが沸いてきたが、怒っても余計に面倒くさくなるだけだと思い、私は目を閉じて大きく息を吐く。


「……!」

目を開けると、男がずかずかとこちらへ歩いてくるのが見えた。

「止まって! 来ないで!!」

叫ぶ私を無視して、男は歩く。

「それ以上近づいたら飛ぶから!」

そう叫んでも、男は止まらなかった。

もう、飛ぶしかない。

「……っ」

そう思っても、フェンスから手が離れない。

一歩が踏み出せない。


ああ、くそ、くそ。



ついに男は私まで到達し、私の胸ぐらと袖を掴むと、乱暴にフェンスの内側へ投げ入れた。

男は、倒れた私の胸ぐらをつかんだまま、

「ここから落ちたらいてえだろうが!」

と声を荒げる。

馬鹿だ、と思いながら、私は思いきり男を睨みつける。

「わかってるわよ!」

「わかってねえ!」

次の瞬間、重い衝撃が右の頬骨に走った。

今まで感じたことのないような鈍い痛みが、じわじわと顔全体に広がる。

何が起こったのかわからず、ぽかんとしている私に

「これよりも、ずっと痛いんだぞ!」

と男が叫ぶ。

ああ、こいつは私を殴ったんだ、と理解する。

「なにすんの!」

と私が怒鳴ると、男はもう一度、同じところに拳をぶつけてきた。

「っう……」

一回目よりも強い痛みが広がる。

骨がじんじんと痛む感覚。

思わず、手で頬を抑える。

「わかったか!?」

男はまっすぐに私を見る。

こいつは狂っている、とようやく確信した。死んだらダメだと一丁前な倫理観をぶつけてきながら、躊躇いもなく人を殴るだなんて、めちゃくちゃじゃないか。


「ぷっ、あはは」

思わず吹き出す。

どういうわけか、恐怖よりも面白さが勝っていた。

「なんで笑ってんだ」

男が困惑した表情を浮かべたのを見て、勝った気持ちになる。


その時、

「田上! お前、なにやってんだ!」

と同じ作業着を着た、白髪交じりの男が屋上に入ってきた。よく見えないが、後ろにも数人いるようだった。

「なにって、こいつ、馬鹿だからよ」

と、男は私の胸ぐらを掴んだまま、全く動じずに言う。

馬鹿はお前だろうが。




田上という狂った男は取り押さえられ、まもなくして警察に連れていかれた。私は治療を受けた後、警察から聴取をされる。話を聞くと、田上はビルの清掃員だそうだ。その後、さきほどの白髪交じりの男を含めた何人かのおじさんから、深々と頭を下げられた。


助かった、と言っていいのだろうか。いっそのこと、見知らぬ男に殴り殺された方が、自殺するより、よほど気が楽だったのではないかとも思う。

まあ、あの男は私を殺す気なんてなかったし、私も痛いのは耐えられないから、それは叶わなかっただろうが。



その事件以来、私は死ねないでいる。

理由を訊かれると、なんとも言葉で説明しづらい。

あいつは狂っていた。

狂っていて、社会には適していない人間だった。考え方、感じ方、すべてが社会と合わない。種類は違えど、私と同じだった。あんなやつが生きてるのに、私が死ぬのは、なんだか馬鹿馬鹿しく思えてしまったのだ。


私はこの先も、なんであのとき飛べなかったんだ、と毎日を後悔しながら過ごすことになるだろう。あいつは馬鹿だから、そういった心の苦しみも痛みも知らない。だから私を助けたのだ。

ああ、いらいらする。

とりあえず、死ぬまでにあいつを一発殴ってやろう。


右頬が、まだジリジリと痛む。













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