3.冒険の先のボロアパート

 知希の仕事は、フォークリフトを操っての倉庫整理だった。主にボルトやナット、鉄筋、鉄骨、仮設工事用品などの建築資材を取り扱っている。


 工業団地の一角にある会社は、元は総従業員数二百名ほどの中小企業だったが、ある有名な大企業の傘下に入ったことで大きな躍進を遂げた華々しい歴史を持つ。


 増築された倉庫はとてつもなく広く、その発展ぶりを象徴していた。通路は二台の自動車がすれ違えるくらいは幅があり、棚に積み上げられた荷物は見上げると首が痛くなるほどだ。故に従業員同士の距離間は適度で、人との関わりを避けたかった知希にとって、それは精神的に幾分か楽で、理想的な仕事であった。


 少なくとも、前職よりは。


 定時になると、知希はそれ以上職場で無駄な時間を過ごさないようにしていた。終礼を終え、終業のベルと共にロッカールームへと走り、自分のスペースにヘルメットと安全ベストを入れると、代わりにショルダーバッグを引き抜く。世間話に花を咲かせる従業員たちがなだれ込んでくる前に、急いで職場を後にするのだった。



 会社を出ると、背後ではいまだフォークリフトのブザー音が複数鳴り響き、機体上部の回転灯が自己の存在を主張するべく光り続けていた。普段はまだ昼のような明るさであるこの時間帯において、その光が鮮明に見えるのは、陽の光を包み込むかのように広がる曇り空のせいだ。一雨きそうな雲の連なりである。


 愛車を停めた駐車場へ向かう道中、車のキーを求めてショルダーバックに手を突っ込んだ。湿ったハンドタオルや替えの靴下の間をかき分け、目的のものを探ると、いつもはそこに無い物に手が触れた。


 何を入れていたのか、頼りない記憶を探りながらそれを引き抜く。


 思わず足を止めると、踏みしめた駐車場の防犯砂利がギリリと悲鳴をあげた。


 それは薄いメモ帳のようなもの。紺色に染まったそれには『日本国旅券、JAPAN PASSPORT』の金文字が彫ってある。


「忘れてた」


 もうすぐ期限を迎えるにあたり『勉強がてら自分で更新してこい』と、母が言っていたのをすっかり失念してしまっていた。渡航の予定などないが、有効期限が切れてからの新規申請となると後々面倒なのである。


 まだ知希が学生の頃、母が思い切って海外旅行に行こうと言い出した際に作ったものだ。裕福な家庭では無いし、身の丈にあった慎ましやかな旅行ではあったが、青谷一家にはそれでも十分すぎるほどの贅沢だった。


 パスポートの中には紙切れが挟まれていて、申請に必要な書類を箇条書きで連ねてある。母が世話を焼いてくれたものだ。既に用意したものには取り消し線が引いてあり、この紙で言うとあと必要なのはひとつだけだった。


「戸籍謄本か。市役所で取れるって言ってたっけ」


 スマホの画面を見つめ、時刻が三時三十分であることを確認する。市役所が閉まるまでにはまだ時間がある。期限までそう日数は無いし、面倒なことはさっさと片づけてしまおう。帰宅に向けて怠け始めた体にそう鞭打って、車を市街地に向けて走らせることにした。



 田舎町ではそうそうお目にかかれない十五階建ての建物を前に、知希は一瞬尻込みした。日光を遮るほどに巨大な建造物は、昭和の始まり頃に建てられたものを、増改築を繰り返して長年使用されてきたものだ。市内で一番だったその高さは、郊外に大規模なテーマパークが建設されるまでの間、破られることはなかったという。


 正面の自動ドアをくぐり、入ってすぐのところに設置された案内板に目を通す。眩暈がするような文字の羅列に戸惑いながらも対応の窓口を見つけると、それは幸いにも一階の一角にあった。


 連れられて来ることはあっても、ひとりで来るのは初めてだ。何から始めて良いのか迷っていたところを案内の女性に助けられ、ひとまず申請用紙に記入をすることになる。


 本籍地と筆頭者の名前で躓(つまず)いた。いままでそんなことを考える機会など無かったからだ。


「ええっと」


 助けを求めるようにして、パスポートに挟まれたメモを読み返す。必要書類が書かれた面を裏返した時、別の母の字が目に入った。本籍地と筆頭者がしっかり書かれている。


 助かった。また出直すというのもさすがに辛い。周りの人の多さや、煩雑な申請手順に早くも疲労し始めていた知希の感情は、ひとまずの安堵を得る。


 母の書いた通りに、筆頭者の名前を用紙に記入していく。


「青谷(あおや)……、信明(のぶあき)……」


 そう記入して、ふとペンを持つ手が止まった。


 これが父親の名前……。


 正直なところ、知希はこれまで父のことは名前すら知らなかった。いや、気にしていなかったと言うべきだろうか。母子家庭で育ってきことに、特に不自由を感じたことはなかったからだ。父が不在だからと言う理由ではいじめられたことも無かったし、父が必要だと思うことも無かった。


 だが、この歳になって初めて父の名前に触れた時、妙な胸のざわつきを覚えた。何かがもたれかかってくるかのように、それは重くのしかかり、そして離れようとしない。


 奇妙な感覚に眉をしかめながらも、いま住んでいるアパートとは別の、覚えのない本籍地を記入し、申請用紙を完成させる。


 用紙を提出して十数分後、名前を呼ばれると機械発行された番号札と交換に紙切れ一枚を受け取る。

 初めて手にする公式書をまじまじと見てみた。市をイメージした薄い青色の背景の上に、知希の家族の情報が載っている。


 妹の綾(あや)に、弟の瑛二(えいじ)。


 知希の詳細には母、佐知代の名前と父、信明の名前が記載されていた。


 書類を手に、知希はしばらく動くことができなかった。未だ、もたれかかっている何かが、そうさせているのだろう。パスポートを更新し終えた後もなお、その足が出口を向くことはなかった。その理由が何か、分かるまで。


「あの、すみません」


 そして再び、案内の女性に声をかけた。



 気付けば知希は、”戸籍の附票”というものを取得していた。


 これには、籍に入っている者の現在の住所が載っている。戸籍謄本では分からない部分だ。知希と綾のボロアパートに、瑛二が入っている学生寮まで、詳しく記載されている。


 そして、父・信明の居場所も。


 車に乗り込んだ知希は、附票を手に再び固まっていた。ごくりと生唾を飲み込むと、静まり返る己が体にじんわりと染み渡る。


 先の見えない闇に誘(いざな)われているかのような感覚。それは、一種の好奇心か。あるいは、成人した知希にとって当然の感情なのかもしれない。


 いずれにせよ、知希は母に嘘をついた。帰りが一、二時間遅くなる、と。自分へのご褒美に新しいゲームを探しに行っていたとでも言えば、なんとでもなる。


 少しばかりの背徳感はあったが、これから起きるであろうことを母に正直に報告する気はない。下手に母を傷つけるのも嫌だった。


 父、信明がまだ市内に住んでいたことは意外だった。離婚までの道のりを経験すれば、お互いに距離を置くものだと勝手な想像があったからだ。スマホの地図に従えば、市役所からはものの三十分しか離れていない。


 ナビ通りに車を走らせ、目的地前の道路脇に停める。そして”その建物”をじっくりと観察した。


 木造二階建ての集合物件。知希のボロアパートよりは幾分かマシに感じる建物だが、それでも錆びの染み込んだ外壁やささくれた木の柱を見るに、それなりの年季が入っているように思える。玄関の扉から扉までの間隔が極端に狭く、一部屋の広さがそこまで無いことは外からでも窺(うかが)い知れる。ファミリータイプの物件ではない。


 一月三万といったところだろうか、と知希は勝手に頭の中で見積もった。父がいままでどのような生活を送っていたのか、気にならないではない。独り、どんな気持ちで毎日を過ごしてきたのか。


 運転席のドアに手をかけ、知希は考えた。父は一体どんな姿をしているのか。善人なのか、悪人なのか。果たして、急に現れた知希にどのような反応を示すのか。全てが不透明な霧に包まれていた。


 そして知希自身、父に会って何をしたいのかという明確な目的は特に持ち合わせてはいない。ただ漠然と「父親に会ってみたい」という気持ちだけが先行しつつあるだけなのだ。


 気付けば足はアパートの集合ポスト前の土を踏んでいた。空中で指を這わせ、十個あるポストの名前をなぞっていく。


「青谷……、二○五号。間違いない」


 附票に書いてある通りだ。


 取ってつけたような、頼りない鉄製の階段を上る。赤錆に塗(まみ)れた階段は、踏みしめる度にその体を揺らし、震えた。一歩一歩、父の部屋に近づくにつれ、知希の心も同じように揺れ動く。


 四つの玄関を通り過ぎ、目的の部屋の前で立ち止まった。チャイムのボタンは無い。拳をぎゅっと握りしめ、少しの間知希はそこで立ち尽くした。


 これは分岐点だ。扉を叩いた瞬間から、良くも悪くも人生は変わってしまうのだろう。もう後戻りはできない。


 おさまらない気持ちに見切りをつけ、拳を持ち上げると、扉を三回ノックする。


 コンコンコン。


 アパート全体を伝う軽い音が、夕焼け空に遠く響き渡った。


 そして全ての音が止まった。遠い街からの喧騒も、学校帰りの子供達の笑い声も、車のエンジン音も。知希の心臓さえ、動きを止めたかのような静寂がしばらくの間訪れた。


 返事は、なかった。


 一瞬遠のいた現実が、再び時を取り戻す。


 時間も時間だし、留守なのだろう。だが、もう一度戻ってこようとは思わなかった。二度来る勇気と精神力は持ち合わせていない。それに誰かに「来るべきではない」とそう言われているかのようにも思えてならなかった。そんなはずはないのに。


 重たい落胆とともに、知希にのしかかっていた”何か”はすっと落ちたようだった。諦めがつくと、変に体が軽くなる。期待というものは、裏切られるものなのだ。


 踵を返そうとしたその時。


「あのぅ」


 背後で弱々しい男の声が上がった。


 はっと振り返ったその先に、ひとりの中年男性が立っていた。


「何か、御用でしょうか?」


 黒縁のメガネをかけた男は、知希が視線を下げるほどの身長しかない。黄ばんだ白いTシャツに薄汚れたデニムという組み合わせ。広い額に、頭の天辺まで後退した生え際。心許ない髪は極度の薄さで、残りが心配になるほどだ。だらけきった体は誰がどう見てもメタボのそれであり、冬場であるにも拘わらず顔に汗を浮き上がらせている。


 まさに世の女性が嫌悪するであろうその道を突っ走ってきたかのような人物だった。


 まさか、これが……。思わぬ事態に、知希は息を呑んだ。

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