君を想えばこそ
ルノア
1.十七年の物語に終幕を
-1-
青谷知希(あおや ともき)が、十七年という短い人生に終わりを迎えたのは、硬く冷たいアスファルトの上であった。厳しい冬の寒さがよく染みついていて、身体の熱を奪っていく。
強烈な眠気を感じるように瞼は重くのしかかるが、狭まる視界の中、その瞳は最後の光景を焼き付けようとしていた。
地面に転がるペダルの反射板は粉々に割れ、無残にも折れ曲がった深緑色の自転車が横たわる。車輪は空回りしながら、息絶えるかのように勢いを失くしていった。
背後にそびえる天神の山が、不気味に紅く照らされている。禍々しい空を二羽の黒いカラスが泳ぎ、鳴いている。詠(うた)っているのは、黙示録の一節だろうか。
ボンネットを大きくへこませた白のスポーツカーから、男がスマホを片手に飛び出してきた。顔は視界の外だが、これが本当に黙示録の始まりなのだとしたら、彼は四騎士の一人目であるに違いない。
痛みを感じたのもほんの一瞬にすぎなかった。すぐに体全体が麻痺して、この世の繋がりを遮断していく。
きっかけは本当に些細なことだったのだ。考えれば考えるほど、どうしようもなくつまらないことで、失笑さえ込み上げてくる。もし時間を巻き戻すことができたのなら、一言素直に謝りたいとさえ思った。黙って言うことを聞いておけば良かったのだ。
しかし十七ともなれば、ちょっとした揺さぶりで、感情が零れ落ちるのは簡単なことだった。空になった器で残酷な外の世界を彷徨(さまよ)ったのなら、こうなったのも当然の結果と言える。
自慢だったはずの視力もすぐに永遠の闇へと誘(いざな)われ、残った聴力ももはや残された時間を刻む秒針の鼓動しか受け付けなくなっていた。
電池切れの時計のように、次第に音の間隔は広がり、やがて完全に停止してしまう。
湧き起こる様々な想いが身体を覆いつくす感覚に身を捧げながら、知希はふうっと最後のため息を吐いた。
-2-
部屋で寝転がったまま意味もなく天井の染みを数えていた信明(のぶあき)に、緊急の知らせが舞い込んできたのは、時計の短い夜光塗料が二の数字を指していた時だ。何をするでもなく、いつもの日と同じように夜中まで呆けていた体に、鞭打つような着信音だった。
信明の携帯が鳴ることは過去数年の間で、指で数えられるほどでしかない。彼にとっては、そのくらいが丁度良い。
だからこそ、突然このような時間帯に携帯が鳴ったことに、少なからず嫌な予感を感じた。虫の知らせとでもいうのだろうか。
気だるさを羽織ったまま、おもむろにベッドから転がり出る。
手にした二つ折りの携帯に浮かび上がる<佐知代>の文字。電話帳に登録された数少ない連絡先のひとりだ。
渋い表情で固まったまま、しばらく背面液晶を流れるその名前をじっと見つめていた。
早鐘を打ち始める心臓。熱くなる身体。滲み出る汗。そこには形容しがたい複雑な想いがあった。彼女と話をすることに少なからず恐怖心すら抱いている。
十秒経っても、着信音は鳴りやまなかった。
諦めて携帯を開いた。もう何年も話をしていない。今更何を語ろうというのだ。
一息ついて緑のボタンを押す。
「……」
相手の出方を待った。だが、続いたのは息苦しくなる沈黙でしかなかった。
耳を澄ませて、様子を探る。
うっすらと聴こえてきたのは、すすり泣く女の声。
何事かと思った信明は、控えめな声量で声をかけてみる。
「……もしもし」
また数秒ほどの無音が流れた。辛抱強く待ち続け、それからやはり通話を切ろうとした時だ。
『ノブくん……』
もう聴くことはないだろうと思っていた懐かしい言葉に、信明の心は一瞬だが跳ね上がった。ずっと聴いていたいと思える時期もあった彼女の声は、いまはひどく降りしきる悲哀に濡れてしまっている。
「どうした」
短くそう聞いて、相手の反応を待つ。どこかぎこちなく、不愛想に聞こえてしまったかもしれない。
またすすり泣く声を挟んで、彼女が口を開く。
『ノブくん、お願い。助けて……』
助けて? 何を。
他に誰もいない自室で誰にともなくしかめ面をして見せた信明は、携帯を握りしめる手から尋常ではないほどの汗が噴き出していることに気づく。
『知希が……』
その後、途切れ途切れに彼女の口から語られた事態に、信明は気を失いそうにすらなった。
「すぐに行く。どこの病院だ」
話が終わるのを待たず、携帯を耳と肩の間に挟んだままダウンジャケットを掴み、財布と車の鍵だけをポケットに突っ込んで部屋を飛び出した。
階段を転げ落ちるように降りて行った信明の背後で、自室の扉が閉まる音が夜の闇に木霊した。
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