馬酔木

二辻

馬酔木

 私は平々凡々で、いや、そう言うことすらも烏滸がましいくらいに、なんの特徴もなく、すべてにおいて平均以下としか思えず、自分自身が存在する価値があるだなんて、一切思えないような人間だった。

 楽しい記憶などない、なんて言わない。

 辛いことばかりだった、とも言わない。

 でも、平均して充実していたかどうかという意味では、否、と答えることが出来る。

 そんな、平凡などこにでもいる人間だった。


「でも、ここで、私は生まれ変わることが出来るんです。すべてを変えることが出来るんです」


 自分を照らしているのはキラキラとした光。

 この舞台に、今立っているのは私ひとりだけだった。


「この一歩を踏み出せれば、ずっと望んでいたものを手に入れられると信じています」

「望んでいたものというのは?」


 向かい側にいる男性が、少しだけ眉をひそめて尋ねてくる。


「変化です」


 そんなものは、自分でどうにでもできるものでは? とでも言いたげな顔をしている男に私は満面の笑みを向ける。


「こんな私でも、世界を変えることが出来ると、信じています」

「それは、大層な望みですね」

「ええ、私のようにちっぽけでなんの取り柄もない人間が起こせる変化など、大したものではないでしょう」

「ならば――」

「でも、貴方なら別です」


 私は、胸に右手を当てる。その手に触れるのは白いドレス。


「貴方ならば、この世界を変えることが出来る」

「……買いかぶりすぎですね」

「そんなことはないでしょう! だって、だって貴方は」


 ――神様なのだから。


 目の前の男が、すっと目を細める。その瞳は、瞳孔は、動物のような平たい形をしている。

 だから? と頬杖をついて小さく首を傾げて見せた彼は、私に言葉を促す。


「この命を捧げます。私の命で、わたしたちに恵みを与えてください」

「……ああ、なるほどそういう意味ですか」

「神様に捧げられることで、私は世界を変えることが出来るのです。なにも出来なかった私が、誰かのためになることが出来る」


 簡単なことだ。私を食べてくれればいい。

 生贄として、貢がれた私の身体を。

 神様が受け取ってくれたら。

 それだけで、変わる。

 変えられる。


「嫌だと言ったら?」

「そんな……」


 よもや拒否されるとは思っていなかった。愕然とすれば、彼は喉の奥で笑って「いや、食べてあげますけれど」と唇を弓形にする。


「でも、私を自己満足のために使われるのは、あまり気分が良くないですね。誰かのために、じゃなくて、自分が誰かのために犠牲になれたのだ、という自己陶酔が欲しいだけでしょう? ひとのせいにしちゃいけない。私は、贄が欲しいなどとは一言も言っていません。人間が、勝手にそう思って勝手にあれやこれやと捧げてくるだけですよ」


 なんとも面倒くさそうに、欠伸混じりに男は言う。


「事態が自分たちの満足する方向に収まるまで捧げ続けるのだから、そりゃ人間は満足するでしょうし、効果的な方法ともなるでしょう。こちらの迷惑など、微塵も考えてもいないこの行為が」

「そ……れは……」

「いや、あなただけが悪い話ではないから、気にする必要はありません。ただ私からは求めていないということは、理解していていただきたいものですけれど。それに、貢がれたのなら有難く頂く主義です。心配しなくても、大丈夫ですよ」


 だったら、希望通り、彼は私を食べてくれるのだろうか。

 役に立たせてくれるのだろうか。

 悦びで身体が打ち震える。

 これで、わたしはみんなの役に立てる。身を捧げた尊い存在として、感謝してもらえるのだ。なにもなせずに忘れ去られる凡俗の徒としてではなく、語り継がれる特別な存在になれるのだ。

 私にも、出来ることがあった。

 最後の最後に、他人の役に立てた。

 この人生は、無意味ではなかった。

 嬉しくて、ああ良かった、と安堵で涙がこぼれてくる。


「ああ、神様ありがとうございます。これで、ここから……私は忘れられることがなくなるでしょう」

「語り継がれる人生の始まりですね。おめでとうございます、名も知らない娘さん」

「ありがとうございます、ありがとうございます」

「では」

「はい、では」


 ぐしゃ、と目の前に崩れ落ちたものを前に、男はまた唇を歪める。


「だが申し訳ない。今はおなかがいっぱいだったよ」


 娘を照らしていた光が雲間に消える。男もその場をあとにする。自分には人間が望むように世界を変える力などない。ただここに在るだけのものなのだ、と呟く声が闇に溶ける。


 次の幕は、お相伴にあずかろうとやってきたものたちの物語だった。

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馬酔木 二辻 @senyoko

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