お母さんの人生転機

ちのあきら

第1話

「ヒロト。母さんね、教師を辞めてスーパーハカーになろうと思うの」

 休日の午後。主婦たちも家事を終え、のんびりとし始める夕方に差しかかる少し前のこの時間。

 突然下宿先の寮から俺を呼び出した母さんは、行きつけの喫茶店に着くなり、こんな寝言を抜かしやがった。

 思わずオウム返しに聞き返した俺を誰も責められまい。

「ごめん、今なんて?」

「母さんね、教師を辞めてスーパーハカーになろうも思うの」

「スーパーハカー」

「そう、スーパーハカーよ」

 聞き間違えじゃなかった。

 そうだったらどんなに良かったか。

 母さんはまっすぐに俺を見ている。その瞳には一点の曇りもない。

「母さんさ、……歳いくつだっけ?」

「女性に失礼よ。今年で三十八になるわ。まだピチピチよ」

「ピチピチかどうかは知らないけど……今からなるの?」

「新しく物事を始めるのに、遅すぎるということはないわ。本人のやる気と努力の問題よ」

「言ってることは立派だね」

 なりたいモノを抜きにすれば。

 俺は痛む頭を押さえつつ、もう少し深掘りしていくことにした。仕方ない。

「で、聞きたいんだけど。そのスーパーハッカーって何なの」

「違うわ。スーパーハカーよ」

「スーパーハカーって何なの」

 うぜえ(笑)

 俺は既にうんざりしつつあったけど、我慢して母さんに聞く。

 母さんは見たことないくらいのドヤ顔で、意気揚々と語り始めた。

「しょうがないわねぇ。ヒロトが知らないなら教えてあげるわ。母さんもお友だちから聞いたのだけどね」

「…………」

「スーパーハカーっていうのはね。すごくすごい正義の味方のことよ」

「すごくすごい正義の味方」

「そうよ。どんなパソコンにもたちまち防壁を破って侵入して、あらゆる個人情報をネットに晒すことができるのよ」

「最悪じゃねえか。どんなところが正義の味方なの」

「この世には悪が蔓延っているわ。それを正すためには、ときに正道から外れることもあるのよ」

「犯罪者の理屈だね」

「世界が変われば基準も変わるわ。そうなればスーパーハカーの見方も変わる。いつまでも古い基準に凝り固まっていてはダメよ」

「うん、最新の基準でも悪だったと思うけど。なんでそんなもんになりたいの母さんは」

「そんなもんじゃなくてスーパーハカーよ。大事なことよ」

 うるせえ。もうキレそう。

 けれども俺は必死に我慢する。母さんはこういう人だ。ここで腹を立てていては一切話が進まなくなってしまう。

 俺は怒りを抑えるために一旦深呼吸をし、喫茶店のマスターにハンバーグセットを注文する。食わなきゃやってられないって。

「いったいどうして急にスーパーハカーなんて言い出したの。なんか変なテレビでも見たの?」

「失礼ね。お友だちに聞いたのよ。これからはスーパーハカーの時代だって」

「お友だち何者だよ……」

「スーパーハカーよ」

「そいつが原因かよ」

 出てこいよ今すぐぶん殴ってやる。人の母親にスーパーハカーとか吹き込みやがって。

「だいたいさ、母さん今は教職でしょ。そっちの仕事はどうするのさ」

「もちろん、辞めるわ。やり甲斐はあるし安定した職だけれど、スーパーハカーには負けるもの」

「どんだけなりたいのさスーパーハカー。そんなに儲かるって言われたの?」

「わからないわ」

「わからない!?」

「だって、世の中のためと言っても今は認められづらい職だもの。スーパーハカーは、闇に沈み、その中で光を追い求める——」

「急に厨二病発症するのやめてくれ。収入安定しないって、生活はどうするのさ」

「まずヒロトのお小遣いを削るわ」

「ゔぇっ!?」

 なんだと!?

「仕方ないわよね。ヒロトなら理解してくれるって信じてる」

「ちょいちょいちょい、ちょ、待って?」

「ヒロトは優しい子だもの。母さんの新しいスタートを心良く祝ってくれるわ」

「そりゃそうできるならそうしたいけれども!」

「あ、寮のお金はちゃんと持つから安心してね。そこは親としてもきちんと責任を果たすわ」

「そ、それはありがたいと思ってるけど……」

「ちょうどいい機会だし、ヒロトもアルバイトを始めてみたらどう? 新しいことを始めるのは良いことよ?」

「ば、バイトに関しては考えてみるよ……」

「そうね。新しく挑戦すれば、失敗したり挫けたりするかもしれない。けれども、それも含めて大人になるための一歩なのよ? 今はお小遣いを減らされて母さんを恨むかもしれないけど、きっといつかわかる日が来るわ」

「…………そうかぁ?」

 俺は首を傾げる。たぶんこの件では一生そんな日は来ないと思う。

 それに気になる部分がまだまだあった。

「母さん」

「なぁに?」

「母さん、機械音痴だよね? パソコン一台すら家にないのに、どうやってスーパーハカーになるの」

「当然、買うわ。そして勉強するわ。そのための準備はすぐにでも始めなければならないわ」

「……母さん、理系が駄目すぎて国語教師になったと思うんだけど」

「そうよ?」

「職場でパソコンの電源切ろうとして、コンセントぶち抜いて同僚の先生からブチ切れられてなかったっけ」

「そんなこともあったわね。仕方ないわ、人は間違いをするものよ。今後の私はスーパーハカーだから、そんなミスは起きないわ」

「スーパーハカーだから」

「スーパーハカーだからよ」

「まだなってないよね?」

「もうなったようなものよ」

 この自信、どこから湧いてくるんだろうか。あまりに自信満々だから、俺の方が間違っているのか不安になってしまう。

 母さんはたぶんスーパーハカーより詐欺師の方がまだ向いてると思う。

「……パソコン、どんなの買うつもりなの?」

「とりあえずヘソクリ全部持ってきたわ。百万円もあれば買えるでしょう」

「ひゃくまんえん」

「百万円よ。教師の仕事は安定した収入があったからね。生活もしばらくは安泰だし、ヘソクリも随分貯まったわ」

「ヘソクリなんてあったんだね」

「ええ。いざというときの備えのためにね。我ながらよく貯めたわ。今がそのときよ」

「そうかなぁ……?」

 イマイチ自信が持てないので、俺は母さんの言葉に曖昧に頷くだけだった。


 何とも言えない空気になった。俺はしばらくコーヒーを啜っていたが、マスターが注文したハンバーグセットを持ってきた。

 母さんが何食わぬ顔でそれを受け取り、むしゃむしゃと食い始める。

 それ、俺が頼んだやつだよな?

 破天荒ぶりに戸惑う俺を無視して、母さんはあっという間にハンバーグセットをたいらげる。食後のコーヒーを追加注文し、紙ナプキンで口元を拭った。

「この後ね、お友だちと一緒にパソコンを買いに行くの」

「あ、そうなんだ。例のスーパーハカーの?」

「そうよ」

「じゃあ安心だね。機械に詳しい人なんでしょ?」

「それがね、その人も機械音痴なの」

「————!?」

「画面を見てると動悸、息切れ、眩暈がするらしいわ。だから苦手なの」

「そんな人がスーパーハカーなの!?」

「そうなの。何でも機械が使えない分は拳でなんとかしてきたらしいわ」

「ハッカーなんだよね?」

「スーパーハカーよ。母さんも鍛えなきゃダメかしら……? ボクシングとかで」

「少なくとも俺が知る限りでは必要なさそうだね」

「そうなの? でもお友だちは素手で十メートル級の獲物を仕留めたって言ってたわよ?」

「何を仕留めたんだ……?」

「信用できる人だから、嘘は言ってないと思うのよね」

「ほんとにぃ……?」

 これほど信用ならない話があっただろうか、いやない。

 とはいえ、俺が積極的に関わる必要はないだろう。今まで一人で俺を育ててくれたんだ。これから先は母さんは母さんの好きにやれば良いと思う。

 そんなことを考えていたら、急に母さんの気配が変わった。

 真剣な眼差しで俺をまっすぐに見つめてくる。

 俺は時折目にするこの母さんが苦手だった。悪いことをしたときに見透かされるような、奥底を覗く目だ。

「さて、最後にお話があります」

「何でしょう」

「母さんはこれからスーパーハカーとして新しい道を歩き始めます。それで、今のうちに聞いておきたいのよ。ヒロト、貴方は何をしたいの?」

「俺——?」

「そう。——ヒロトはまだまだ若いけど、人生は有限よ。何かを始めるのに遅すぎるということはないけれど。早いに越したこともないのよ」

「それは、まぁ……」

「今はまだ中々考えつかないわよね。さっきのアルバイトもそうだけれども、何かないの? 新しく始めたい、そうしたいと思えること」

「始めたい、そうしたい……」

 俺は考える。

 小さい頃は、サッカー選手になりたかった。

 それから歳を経て、宇宙飛行士に憧れた。

 最後に思いつくのは、ゲームを作れる人になりたかったことだろうか。

 今は何になりたいんだろうか。

 何をしたいんだろうか。

 黙り込んでしまう俺に、母さんが優しく笑いかける。ちょっと安心した。こういうところがずるいと俺はいつも思う。


 それから少し時間をおいて。

 母さんは紙ナプキンで口元を綺麗に拭うと、颯爽と立ち上がった。

「ヒロト。お話はこれで終わりだけど。しっかりと考えるのよ。世の中は決して捨てたもんじゃないわ。きちんと努力すれば、必ずいつか報われる。そう信じて突き進みなさい。迷っても良い。立ち止まっても良い。けれども、努力は忘れないように。いいわね?」

「うん、母さん」

「じゃ、母さんは帰るわ。身体に気をつけるのよ、ヒロト」

「うん」

「じゃあね」

 立ち去る母さんを見守る。

 俺の母さんはこういう人だ。

 でたらめで、破天荒で、だけど何故かしっかりしていて。

 決めるときはぴっちり決める人なんだ。

 ちなみに喫茶店の伝票はきっちり置いていったため俺が払った。


 後日、下宿先の寮に一枚のハガキが届いた。

 そのハガキには写真付きでスーパーハカー始めました! とでかでかと書いてあった。

 肝心の写真は、帽子をかぶった母さんが、得体の知れない巨大な生物を仕留めて満面のピースサインをしていた。

 俺は母さんに聞かれた通り、自分のやりたいこと、始めたいことを探している。

 スーパーハカーについては、怖くて詳細は聞いていない。

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