始まりがなければ

池田エマ

始まりがなければ

 依央(いお)は私の幼馴染だ。実家がお隣さんで幼稚園から高校まで同じ進路を辿り、この度晴れて同じ大学に合格した。親同士も仲が良くて双子の姉妹のように育てられたから、私は依央のことならなんでも知っていると思っていた。

 進学を期に私たちは大学近くのマンションでルームシェアを始めることにした。これはお互いの両親も大賛成で、笑顔で送り出してくれた。依央と一緒に住むのは初めてだったけど、一緒に掃除をしたり料理をしたり、うまくやれていたと思う。私はこのまま依央と仲良く過ごしていけると思っていた。


「私ね、和佳奈とキスがしたい」

 土曜日の夜は依央と一緒に少しだけ夜更かしをする。映画を配信サービスで見たり、他愛ない話をしたり、恋バナをしたり。依央が私にキスをしたいと言ったのは、そんな土曜日の深夜のことだった。

 熱っぽい瞳が私を見ていた。青天の霹靂とはこのことだろう。私は驚き過ぎて、ただ依央を見つめることしかできなかった。私と依央は恋人じゃない。ただの幼馴染だ。

「なんで……」

 思っていたよりも随分と情けない声が出た。掠れて震えて今にも消え入りそうだった。それもそうだろう。私は今、自分の足元が崩れ落ちていくような感覚の中にいるのだから。

「好きだから」

 たっぷりの沈黙のうち、依央はそう答えた。今にも泣き出しそうな顔をしてそんなことを言う依央が、知らない人間のように見えた。

 依央は誰よりも強い人間だった。外見は大人しそうに見えるのに、自分の意思をはっきりと伝えられる人。いつも自信がなくて躊躇ばかりしている私を引っ張ってくれるのも依央だった。「後悔は後からするものでしょ」というのが依央の口癖で、前ばかり見ている人だった。

 依央にも弱さがあることを知っていたけれど、私から見た依央の弱さなんて取るに足らないものだった。依央はその弱点から逃げないし、立ち向かい克服するためなら努力を惜しまない。それは弱さなんて言葉で括るには不相応で、だから依央は強いのだと信じてきた。

「好きって……私は、依央のことずっと友達だと、思って……」

 依央の瞳から熱は消えなかった。ただ私をそのままの温度でじっと見つめながら、そこに乗せられる感情が悲しみに変わる。十年以上も一緒にいたのだ。依央の喜怒哀楽は手に取るようにわかる。わかるのに、知らない感情を持った依央がそこにはいた。強い依央が稀に見せる弱さに、いつも私はどうしていいのかわからなくなる。今もそうだ。私はどうしたら依央と前みたいに笑えるのか、ただ必死に考えていた。

「知ってる。和佳奈が、私のこと恋愛対象にできないこと」

「あ、え……」

「ずっと見てたから、知ってるよ」

 午前一時をとっくに過ぎた時間だった。依央の後ろ、夜を切り取ったような窓ガラスに、酷い顔をした私が映っている。今日このまま世界が終わってしまったらいいのに、なんて馬鹿なことを考えた。なにも変わらず、ただの私たちのままこの世から消えられたらどんなにいいか。だけど依央はそんなこと許してはくれない。

 依央は真っ直ぐ私を見て、もう一度告白した。

「私は和佳奈が好き。好きだから、キスしたい」

 もうぐちゃぐちゃだった私の思考に依央がとどめを刺す。冗談では済ませられない、戻れないところまで話が進んでしまった。何より依央の瞳が雄弁に、この感情は嘘ではないのだと語っていた。苦しくて、胸が潰れてしまいそうだと思った。

「なんでそんなこと、言うの……」

 最低な私が心の中で喚く。そんなの勝手に奪ってくれたら良かったのだ。いつもの強引さで一方的に唇を奪われたのなら、私は少し怒ったあとで依央を許して、この先も一緒にいられたのに。私が依央を拒絶したら、この先なんて望めなくなる。

「和佳奈に、許されたかったんだ」

 依央が曖昧に笑ってそう言った。どうしてそんな愛しいような、寂しいような感情を乗せるの。私はただ友達の依央が大切で、大事だっただけなのに。好きだなんて、残酷だ。

 私は依央のことならなんでも知っていると思っていた。私はこのまま依央と仲良く過ごしていけると思っていた。ずっとずっと一番の友達として、隣で笑っていられると思っていたのに。

「依央」

「うん」

 依央が静かに目を閉じた。まるで判決を静かに待つ被告人のような姿だった。依央は強い人間だと今日だけで何度思い知っただろうか。依央は自分の気持ちに嘘をつかなかった。私へ自分の気持ちをちゃんと伝えて、私の返事を待っていてくれる。なんて誠実で酷い人なのだろう。

 私は弱い。弱くて狡くて、どうしようもない。大好きな友達の依央を失うことを恐れている。でも依央と恋人になる覚悟はできない。依央の望みはできるだけ叶えてあげたいと思う。でも私は依央の本当の願いは叶えてあげられない。どうして私はこうなのだろう。

「ごめんね、依央……」

 ぐちゃぐちゃになった心のまま、謝りながら依央にキスをした。触れた唇は思ったよりも冷たくて、なんだか泣きたくなった。きっと依央が望むキスはこんなのじゃないだろう。知っていてこんなキスしかできない私は、酷い人間だ。だけど依央は私をギュッと抱き締めて、言うんだ。

「ありがとう、嬉しい」

 こんなに悲しいありがとうを、依央から聞きたくなかった。依央が喜んでいる姿を見て、苦しくなったりしたくなかった。なんで私は依央を好きになれなかったんだろう。ずっと一緒にいたのに、どうしてこの心臓は同じ速さで動いてくれないのだろう。どうしてこの感情は同じ熱を灯してくれないのだろう。

「和佳奈はそのままでいいんだよ」

 私の背中をゆっくり依央が撫でる。優しい眼差しで私を許す。それがどんなことより悲しくて、私は唇を噛み締めて涙を堪えていた。

 依央の恋をちゃんと始めてあげられたら良かったのに。他でもない私が終わらせた。それがこんなにも、悲しい。

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