第18話 飛び立つ日

 とうに陽は沈んでいた。

 やっとのことで〈鳥籠〉まで帰り着いたレンは、明かりに火を灯すとすぐに陶器の水差しから二つのグラスへ水を注ぐ。喉がからからに乾いていたのだ。


「さて、聞かせてもらいましょうか。ニルバド皇国へ行くのが現時点での最良の選択だという、その根拠を」


 睨むような眼差しでマルコを見つめ、視線を外すことなく一息にグラスの水を飲み干した。

 彼はといえば水も口にせず、わずかに開け放している扉のすぐ傍で立ったまま位置を変えない。


「では手短にご説明します」


 明らかにマルコは警戒を強めている風だ。

 いったいこの〈鳥籠〉までどこの誰が襲ってくるというのか、とレンは不思議に思う。上りと下りを往復するだけで恐ろしく疲れるのに。

 間断なく扉の外を見遣りながらマルコが言った。


「理由は明快、ジャズイール第六皇子の存在に尽きます」


「ああ、戦争にめちゃくちゃ強くて冷酷で、少しばかり公平な人ね」


「んん、まあそんなところで」


 レンの雑な理解に対して、今日ばかりはマルコも改善を求めてこない。


「そのジャズイール皇子ですが、標的と定めた国や都市に対して必ずある要求をしてくるのです。事前に綿密な調査をした上で、その国なり都市なりが最も大事にしているものを差しだせ、と。差しだして恭順の姿勢を示せばそれでよし、でなければ敵対行動と見なして大軍を差し向けるのがあの方の常套手段でした」


「なら今回は、ヴァレリア共和国にとって〈遠見〉こそが最重要だと考えたのね」


「間違いないでしょう」


 はあ、とレンはこれ見よがしなため息を吐いた。


「かわいそうに。その〈遠見〉が偽物の凡骨とは露知らず」


「レン様が凡骨とは面白くも何ともない冗談ですね」


 真剣そのもののマルコはにこりともしない。


「とにかくそういう理由で、フランチェスコ様とおれはいつかこのような事態が起こると想定していました。その上で、レン様が生き延びるためには何が必要なのかを話し合ったのです」


「もしかして、ニルバドの言葉を習得させたのもそのため?」


「はい。フランチェスコ様の発案ですね」


「まったく。いらんことばかり考えるな、あの人は」


「そんなことはありませんよ。今日だって使者のテスレウ殿を相手に見事な振る舞いを披露したそうじゃないですか」


「情報が早いね。フランチェスコの『耳』はどこにでも潜り込んでいるってサラから聞いていたけど、本当だったのね」


 別に探りを入れているつもりはなかったが、あからさまに目を逸らしたマルコの態度が雄弁に事実だと物語っていた。

 彼はすぐに話題を元に戻す。


「フランチェスコ様としては、あくまでニルバド行きも可能性の一つ程度に捉えていたようです。なのでそこの部分に関してはおれと見解が割れます」


「割れる? マルコは別の見方をしているってこと?」


「以前にお伝えしましたよね。ジャズイール皇子は奴隷兵であろうと敵であろうと、結果を出せばきちんと評価する人物だと。身分を問わず才能を愛し、審美眼にも優れた方なのです」


「なおさらわたしには関係なさそうだけど……って、ちょっと待って。まさか」


「そうです。レン様には〈鑑定〉があります」


 迷いの欠片も見せずマルコは言い切った。

 ヴァレリア共和国において、〈遠見〉の最上位護衛兵の任にある彼が口にしていい発言ではないはずだ。

 レンの心に困惑が渦巻く。


「じゃあ、今後はニルバドのために〈鑑定〉をして生きていけって言うの? ヴァレリアを守る立場であるはずのあなたが?」


 それって裏切り行為じゃないのか、という台詞はどうにか喉元で留めておいた。彼を非難したいわけではないからだ。


「失礼ながら考え違いをされていらっしゃるようです。おれが守るのはレン様、あなただけですよ。元々ヴァレリアという国自体に恩義などありません。故郷でもないどころか、筋としては仇にあたるわけですしね」


 当のマルコは事もなげに言ってのける。

 確かにその通りではあった。ヴァレリア共和国の意向を受けたダルマツィオ・ディ・ルーカ率いる傭兵団が、彼の故郷である商都テザンを攻め落として両親を処刑したのはまぎれもない事実だ。納得するしかない。


 だがレンにはまだニルバド行きを渋る理由があるのだ。

 仮にマルコの見立て通り、幸いにもレンがニルバド皇国で一定の処遇を受けられたとしよう。けれどもそれはあくまでレンに限っての話だ。


 ニルバドから脱走してきたマルコに幸運な未来などない。のこのこと舞い戻った間抜けな脱走兵に待っているのは確実な死だけである。

 ならば彼がニルバド皇国へも同行してくれると考えるのは、いささか虫が良すぎるというものだろう。


「離れたくないのか、わたしは」


 思うよりも先に声が出た。

 レンはやっと己の感情に気づかされた。

 傍にマルコのいない自分を想像すると、耐え難いほどの寂しさが彼女を押し流していこうとする。欠落の中で溺れかけてしまう。

 急に恥ずかしくなり、真っ赤になっているはずの顔を両手で覆い隠す。


 なのにマルコの反応は鈍いものだった。


「離れたくないって、ヴァレリアからですか?」


 真顔で見当外れの質問をしてくる始末だ。

 思わず怒りを覚えかけたレンだったが、おかげで少し冷静になることができた。

 努めていつも通りの口調を装い、「離れたくないのはヴァレリアじゃないよ」と後戻りのできない言葉を投げかけた。


「わたしもあなたと同じ、ヴァレリアなんかどうだっていい。サラが紡いできたことを無意味にしたくなかったから、どうにか〈遠見〉を演じてきただけ」


 わたしが離れたくないのはヴァレリアじゃない、と再び繰り返す。


「だってマルコ、ニルバドから命がけで逃げてきたんだよね。わざわざそんなところへ戻っていくだなんて正気の沙汰じゃないもの。護衛の任務だってこれで終わりになるんでしょう?」


「何だ、そんなことを心配していらっしゃったんですね」


 肩透かしだと言わんばかりの態度でマルコが答える。

 精いっぱいの告白をしたレンとは随分な温度差だ。


「ここ最近は平穏な日々が続いていましたからね。奴隷部隊にいた頃とはまったく人相が違うはずですよ。自分でもわかるんです。なのでニルバドへ足を踏み入れても、誰もおれだと気づいてくれないんじゃないですか」


「茶化さないでちょうだい」


「いえ、そんなつもりは。本気でそう思っているんですけどね」


 マルコは優しく笑みを浮かべた。


「どのみち関係ありません。言ったはずですよ。たとえ相手が誰であろうとも、おれの仕事はあなたをすべての敵から守ることだと」


 最初に出会った日と同様に、生涯の誓いを敢然とレンに告げたマルコだったが、次の瞬間には一転して鋭く獰猛な目つきへと変わる。

 剣を抜き、小声で彼は言った。


「レン様、奥へ。どうやら招かれざる客のようです」

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