第5話 遠見のサラ

 アンネッタの名を捨て、レンとして生きる日々が始まった。


 自分でも意外なほどに新しい生活へ早く馴染んでいっているレンだったが、あまりにも驚くことが多すぎたせいで感情が置いてきぼりにされているからでもある。

 ただひたすらに受け入れていくしかないのだ。


 とはいえ、驚愕の大部分は初日に集中していたのを時折思い出す。

 無謀にも〈遠見〉相手に掏摸を働こうとした、まさにその日だ。


「静かで穏やかで、ちょっとだけ寂しい場所での生活だけど、眺めだけなら地上のどこにだって引けはとらないはずよ」


 レンを連れてきた張本人である女が、夕日を背景にして両手を広げていた。

 遠見のサラ、そう名乗った彼女がレンを案内してきたのは、ヴァレリア共和国で最も高い尖塔の天辺だ。

 後ろへ倒れそうになるほどに見上げるばかりだったこの場所が〈鳥籠〉と呼ばれているのはレンも知ってはいたが、まさか自分がそこへやってくることになろうとは夢にも思わなかった。


 まるで世界の中心に立っているような高揚感が一瞬だけやってきたものの、そんな気分はすぐに萎んでしまう。

 延々と続く塔の螺旋階段を休みなく上ってきたせいで足が痛んで仕方ない。

 もう今日は一歩も歩けないよ、とその場にへたり込んでいるレンを見て、相変わらずサラはにこにこと笑っていた。


「あなたが〈遠見〉の一族最後の生き残りだってこと、ちゃんとフランチェスコが政庁上層部の方々へ説明しに行っているからね。必ず許可は出してもらうから心配しないで」


 随分と話が大きくなっている。

 今さらながらにレンは怖くなってきていた。

 地上での掏摸未遂の出来事の際、あのフランチェスコが「命の保証だって致しかねる」と口にしていたのを思い出してしまう。

 この嘘がもしばれてしまったら、いったいどんな処罰を受けるのか。


 しかしサラにはそんな懸念など微塵もないようだった。


「もし何か問い質される機会があれば、そのときは『記憶が混濁していて思い出せない』の一点張りで通してちょうだい。それであの人たちは何も突っ込んでこれなくなるはずだから」


 彼女は力強くそう言い切った。

 ここまで黙ってついてきたレンだったが、サラに聞きたいことは山ほどあったためおずおずと挙手をする。


「あの、質問してもいい?」


「もちろん!」


 どうぞどうぞ、とサラは積極的な発言を促してきた。

 レンも意を決して彼女に問う。


「〈遠見〉の一族って、何なの?」


 いろいろ聞かなければならないことがあるにせよ、まずはそこからだとレンは考える。〈遠見〉の一族が何であるかを知っていなければ、偽りとしての振る舞いにもきっと齟齬が生じるはずだから。


「あ、そこからかあ。うん、確かに。まずはそこから始めないといけないね」


 納得したように頷き、サラも手近な窓枠へと腰掛けた。


「じゃあレン、わたしたち〈遠見〉がヴァレリア共和国においてどういう役割を果たしているかは知っているかな」


「えと、何となくは」


 まだぎこちなさを残しながらも、サラとの会話には少しずつ慣れ始めている。

 無遠慮にレンが窓の外を指差して言った。


「この塔の最上階から遠くまで見張りをして、異変が起こっていないかどうかを常に確認する仕事。それが〈遠見〉だって教わった。とても大事な役目で、表には出てこなくても国を根っこの部分で支えている人たちなんだって」


「うんうん。他には何かある?」


「えー、他にって言われてもな……。〈遠見〉の人たちには、わたしたちよりもずっと遠くまで見渡すことができる目があるってことくらいだよ」


 レンの答えにサラは満足したようだった。


「概ねその通りだね。少し付け加えると、〈遠見〉となる資質を備えているのはある特定の一族だけであり、その一族の中でも飛び抜けて彼方まで見渡す目を持っていた者が歴代の〈遠見〉として選ばれてきたんだ」


「じゃあサラもそうなんだね」


 すごいや、とレンが無邪気に称賛の言葉を口にする。

 このときに初めて、サラの笑顔が翳りを帯びた。


「ありがとう。でもわたし自身が努力して手に入れたものではないから、すごいと感じたりはしていないのよ」


「そっか……」と申し訳なさそうにレンは呟く。


 慌てたサラの顔から憂いの色はすぐに消え、元の朗らかさが戻った。


「よし。じゃあ、とりあえず見てもらおうかな」


 きょとんとしているレンへ、サラは茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせる。


「〈遠見〉としてのわたしの仕事ぶりをね。レンに披露するのは初めてだから、張り切っていつもより遠くまで覗いちゃうぞ」


 彼女の言葉に、疲労を忘れてレンもわくわくしてしまった。


「ねえ、どこまで見ることができるの?」


「もちろん遥か彼方まで。鳥たちが飛んでいくより、船乗りたちが海を渡るより、もっとずっと遠くまでね」


 といっても傍からだとたぶん地味ではあるんだけど、そうサラは付け加える。


「だからわたしの目が捉えたものを、ちゃんと口に出して教えてあげる」


 勢いよく窓枠から上半身を乗りだし、すぐに「まずは塔を下りるよ」と朗々たるサラの声がレンの耳に届いてきた。


 夜の市を控えて早くもお祭り騒ぎの政庁前広場。

 初代統領ルージア・スカリエッティの立像。

 豪商たちの大邸宅と庭園。

 小さな集合住宅でまだ残ったままの洗濯物。

 難攻不落を誇るヴァレリアの城壁。

 その上で哨戒しながら欠伸をしている若い警備兵。

 馬車が行き交う整備された街道。

 水かさを増した川にかかる橋。

 人の背丈ほどもありそうな草原。

 そこになぜか一本だけ残っている古い大木。

 収穫の時期が近づいている黄金色の畑。

 子供たちが走り回っている小さな集落。

 今にも崩れてしまいそうな崖。

 あちらこちらに転がっている大きな岩。

 すれ違った渡り鳥の群れ。

 日が沈む前に街へと急ぐ旅の行商人の馬車。

 活気に満ちている港湾都市。

 酒場の前で殴り合いの喧嘩をしている五人の男。

 荷受けを指揮する筋骨隆々の女。

 停留している貿易船、甲板で働く水夫たち。

 海、想像を絶するほどに広大な水の塊。

 輝く緑、深い青、あるいは吸い込まれそうな黒。

 重たげに揺れながら海はずっと続いている。果てしない。

 小舟に乗って漁をしている老人。

 ようやく見えてきた灯台。

 白く弾ける波打ち際。

 夕日に照らされた砂浜が塗り潰されて橙になっている。

 ここはもうニルバドの領内ね。

 港も見えてきた。暮らしぶりはヴァレリアとほとんど変わらないな。

 でも見慣れない形の木々が多いんだよ、ニルバドは。

 もっと先へ進もう。山も越えて、もっと先へ。


 こうやって並べられていくサラの言葉を、〈鳥籠〉で一人残された後もレンはずっと覚えていた。

 それほどまでに印象的であり、淀みなく語られた光景を繰り返し想像したからだ。

 サラの視線はさらに奥へと向かっていく。


 大きな街だ。名前は何といったかな。

 目抜き通りを抜けた小高い丘の上、金に似た輝きを放つ屋敷。

 二階の窓際、一人の男が立っている。

 長身痩躯に灰色の髪、品はあるが簡素で動きやすそうな服装。

 小脇に抱えているのは美しい装飾が施された、初めて目にする弦楽器。

 腰に差した剣の柄に彫られているのは三つ首を持つ黄金の蛇。

 これがニルバド皇国の紋章だよ。

 すらりと伸びた男の褐色の指が、弦をおもむろに弾きはじめる。

 何度か見たよ。この人がニルバド皇国第六皇子のジャズイールだね。

 戦神だとか、ニルバドの槍だとか、そんなあだ名で呼ばれている怖い人。

 あれ、すぐに指が止まった。口元には薄い笑み。

 別の男の人が部屋へ入ってきたみたい。黒い髪、左目の下に大きな傷がある。

 ジャズイール皇子が楽器を置いて、その男の人と抱き合った。

 口づけも交わしている。わ、恋仲なんだ、この二人。


「初めてだよ、あの人のこういう姿を目にしたのは」


 後ろへと倒れこみ、仰向けとなったサラが独り言のように漏らす。

 レンがその顔を覗きこむと彼女の目は真っ赤に染まっていた。夕日よりももっと濃い、さながら血の赤だった。

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