勝手にお前の恋愛を諦めるな

私が悪いなんて絶対許さない

「やりなおしたいことってあるじゃないですか」


「なんだ突然」


 文学部B棟の奥の奥。薄暗い廊下の端にある研究室2は、日当たりが悪く常に薄暗い。それだけでも暗い雰囲気を醸し出しているのに、中途半端に新しいコンクリート打ちっぱなしの壁が冷たい印象までも助長している。デザイナーズ研究室、と言ってはしゃぐこの研究室の主、つまり日本伝統文化ゼミ担当である長谷川はせがわ教授の満面の笑みを、山本凛やまもとりんは窓の外に浮かべて顔を歪めた。


 会話をしている風ではあるものの、実際顔を見ようとイスを軋ませたのは凛だけだった。突然押し付けられた研究室の片付けに不機嫌であったことも確かだが、いつもいつも、全てに興味がないように装っている目の前の男が気に喰わない。苛立ちがつのり、わざと音をたてて近くのパイプ椅子を蹴った。


「おーい掃除くらい静かにやれー」


 隣のパイプ椅子に腰かけた男、鈴野一すずのはじめが、読んでいる文庫本から目を離さずに口を開く。凛は、負けじと鈴野の方を向かないようにホコリを被ったファイルを棚から引き出した。あまりのホコリっぽさに目を細める。


「やってない人に言われたくないです」


「ここは長谷川ゼミだぞ」


「だからなんですか」


「日本伝統の美しい作法で女性らしくあれってこと」


「うわキモ」


 キモ、の言葉が低く響いて、それを発した凛でさえその後の言葉が出なかった。でも、後悔はしていない。今どき日本伝統の、とか、女性らしく、なんて流行らないと思っているからだ。日本伝統文化を扱うからこそ軽視できない時代の流れを、この男は常に軽視している。自分で沈めた空気を無視して、ファイルの並べ替えを進める。


 凛の背後で、ふう、と息をついて、文庫本を閉じる音がした。呆れている声ではない。今日はここまで、の一息だ。長谷川ゼミを選んで半年、嫌でも毎週顔を合わせていればわかる。いや、わかるようになってしまった。この男は研究室に入り浸りすぎるのだ。


 大学3年の初め、卒論のテーマと、それにあったゼミを選びなさいというオリエンテーションがあった。しかし、卒業生の例を見ても、研究室の名前を見ても、正直どれもピンと来ない。コンビニのバイトに打ち込みすぎて学業をおろそかにしたせいもあるのか、自分の興味が向かないだけなのか、凛は測りかねていた。卒業できるならどこを選んでも同じだ。ならば、と、教授紹介のページで一番顔が好みの長谷川ゼミに入ることにした。今思えばそれが間違いであり幸福であった、と後にバイト先でこぼすことになる。


 長谷川教授の顔は、凛にとって本当に好みであった。40代前半の少し疲れた肌、下がり眉、ふにゃっとした笑顔。全てが好きなタイプのど真ん中で、眺めている分には申し分ない。申し分ないが、教授には放浪癖があり、すぐにフィールドワークに出てしまう為大学に留まっていることが少なかった。


 つまり、好きな顔を見られないどころかなんのアドバイスももらえない。一番最初の顔合わせで、卒論?どうぞご自由に。という言葉を残して、あとはたまのメールくらい。ゼミのことは鈴野君に聞いてね、とメッセージが届いた頃には、遠いネパールの地にいるらしかった。ああ、だからこのゼミ、選択したの自分だけなのか。そこで初めて気付くくらいには、凛には学内の友人が少なかった。日本を知るには海外から、というのも教授が講義をすっぽかす時の常套句らしいと知ったのも、ここで鈴野に会ってからだった。


 そんな凛に残された最後の頼みの綱が、この男、鈴野一なわけであるが、こっちはこっちで頼りがいがなく、返ってくる言葉も適当適当超適当。長谷川教授が鈴野に聞けと言うくらいだからどれだけ頼りになるのかと思ったら、「知らん」「自分で調べろ」「俺に聞くな」しか言わないのである。なにが鈴野君に聞けだ。聞いてくれもしないではないか。自分より1学年上というだけで威張り散らかすこの男に期待するのを、凛は一切やめにした。


 蛍光灯焼けした薄緑色のファイルを、ホコリと格闘しながら並べ替える。数字の番号順に並べるということすらできていないくせに、な~にがフィールドワークだ。まずは自分の巣くらい整えてからエサを探しに行けば良いのに。苛立ちがつのり、ファイルをさばく手も雑になる。もうすぐテーマを決めて既定のデータベースに登録しなければならないのに、未だテーマのテの字にも手がかかっておらず、凛はかなり焦っていた。私の卒論どうすりゃ良いんだよ!もう今すぐ叫んでめちゃくちゃにしてやりたかった。ちょっと顔がタイプだからって!


「お前さ」


「山本です」


 背後で鈴野が立ち上がる音が聞こえて、凛が不機嫌なまま言葉を返す。手は止めずに動かしていたが、ホコリで鼻がむずむずしてくしゃみが出た。かっこ悪、と鼻をすすると、ぬっ、と後ろからポケットティシュが差し出された。すこし迷った後、あざす、と受け取る。悔しさが残る凛の行動に、鈴野はフン、と鼻で笑った。


「ヤマモトサンさ、教授の顔が好きでこのゼミ入ったんだっけ」


「そうですけど」


「じゃあ伝統文化とか興味ないんだ」


 そうですけど!?と、ポケットティシュの恩も20cmくらいある身長差も忘れて掴みかかりそうになったのをなんとか抑えた。このゼミを選んだ経緯なんて、教授本人にも伝えているしこの男にも何度も何度も説明させられた。自分の気持ちを包み隠さず言うことは、隠し事や嘘が苦手な凛の精一杯の誠意だった。間違っても能が好きで、狂言に興味があって、などと言いたくない。自分の正直さに、多少誇りを持っていた。隠していないのにいちいちなんだ、と鈴野を睨みつける。


「俺もない」


「……でしょうね」


 ぎろりと睨みつけたつもりが鈴野は全くひるまず、それどころか凛をまっすぐ見据えたまま伝統文化興味ない宣言をしてきた。このゼミ、教授以外誰も伝統文化に興味ないのかよ……。凛は自分のことも含まれるとはいえ呆れて目を丸に戻した。


 とはいえ鈴野が伝統文化に興味がないことは、凛にとって特に意外でもなんでもなかった。いつも読んでいる文庫本は大体が海外の名著を翻訳したものであるし、教授と卒論に関して話すとき以外伝統文化や海外の文化について何か発しているところを見たことがない。いつも謎に研究室に入り浸る人、という認識でしかなかった。


 しかしだからなんだ。お前に卒論のこと教えたりはできねーよってか。今の時点で先輩らしいことをしてもらったこともなければケンカ腰以外で会話をしたことも思い当たらない。何故かいつも鈴野が凛につっかかり、小さな言い合いに発展することが多かった。たまに研究室一番奥のイスに座る長谷川教授が、それを見て笑っているくらい。その笑顔は、悔しいがすごく好きだった。


「あのさ、俺もなんだよね」


「はい?」


 鈴野が、珍しく言いにくそうに凛から目をそらす。いつもならまっすぐ目を見て悪態をつくタイミングで、自分より大きな男のつむじが見えそうなことに、凛は気持ち悪い違和感を覚える。


「俺も、ハセセンが好きなんだよね」


 ハセセン、凛は頭の中で、というかもはや口に出して鈴野が口に出した言葉を繰り返す。ハセセンって誰だっけ?あ、長谷川教授の呼び名か、と正解を導き出すまでに数秒かかって、口を開けたまま固まっていたらしい。鈴野が自嘲気味に笑った。


「最初は顔が好みだなって思っただけなんだけど」


「顔が……」


 好き、って自分みたいに顔がってだけじゃなく、恋愛対象として好きってことか。ここまでまた数秒を要して、凛は自分の頭の中が依然としてこんがらがっているのを感じた。なるほどこれは多様性だ。自分が嫌う女性らしく、と同じ地点にある性質のもの。そう思えば、なんとなく鈴野の言っていることが理解できた。


 言っていることを理解、はとりあえずできたが、今自分が目の前の男に何を言われているのか、凛はまだそのあたりを掴めていなかった。突然教授が好き?しかも何故私に?次の言葉が中々思いつかない。


「突然なんだよって思った?」


「まあ……はい」


「正直でよろしい」


 偉そう、だけど無理している気もするなと凛は思った。普通、仲良くもない1学年下のかわいくない後輩にいちいち自分の好きな人を告白するだろうか。もしや罰ゲーム?でもこの人友達いなそう、あと、意味のない嘘はつかない人だ。半年の付き合いだけど、そこには確信があった。鈴野とまた目が合う。


「失礼なこと考えてるだろ」


「考えてました」


「男が男好きになんなよって?」


「いや友達いなさそうだなって」


「違う方向の失礼だったわ」


 実際、この男は何がしたいのだ。長谷川教授のことが好きなら勝手にアピールでもなんでもすれば良いのに。凛は、鈴野が意味もなく毎日研究室にいた理由をなんとなく察して更に混乱していた。何をするでもなくただぼうっとこちらを見つめる鈴野の不気味さに、一歩後ずさりする。背中に飛び出たファイルの背が当たって痛い。


 顔は笑っているのに目が笑っていない。鈴野の感情の読み取れない低い声が、研究室に反響した。


「やりなおしたいこと、あるよ」


「え?」


「だからさっきの。やりなおしたいことってあるじゃないですかってやつ」


 ああ、と凛は自分が言ったはずの言葉を思い出して頷いた。そんなこと言ったっけ。研究室の選び方間違えたって意味で言ったはず。頭の中で繰り返し、こんな状況になるならやはり間違いだったと確信する。


「俺も、この研究室を選ぶんじゃなかったって思ってる」


「は?」


 不気味な空気はどこへやら。凛は、鈴野の告白に間髪入れず一音発した。あまりにも速いスピードで繰り出されたそれに、鈴野が逆に後ずさった。パイプ椅子の足を踏んで、ギィ、と音が鳴る。少しだけ距離が遠くなった後輩は、明らかに不快感を体全体で示していた。


「なんだよ」


「長谷川先生のこと好きなんですよね?」


「まあ……」


「まあ?」


 今にも飛び掛かりそうな勢いで凛が一歩前へ出る。さっきまでの疑問が吹き飛んで、代わりに怒りのようなものが湧いてくるのがわかった。勝手に告白して、勝手に落ち込むな。意味が分からないとかそんなことより、凛にはそれが腹立たしかった。


「なんで私にそれを言ったんですか?」


「やりなおしたいことっていったら、それを思い出したから……」


「なんでやりなおしたいんです?好きなんですよね?側にいたいんですよね?」


「そんな簡単じゃねーんだよ」


 鈴野が凛の大きな両目を避けるようにして下を向き、そのまますぐ後ろのパイプ椅子に腰かけた。力なくだらりと両手を下げ、さながら燃え尽きたボクサーのようである。凛はその姿を見て、フンッと鼻を鳴らす。


「簡単じゃねーってだけで、諦めるんですか?」


「お前さっきから急にすごい詰めてくるじゃん」


「お前じゃありません山本です」


「どうしろって言うんだよ」


「だから、諦めんなって話です」


「はあ?」


「私にそんな話しておいて、簡単に諦めんなって話です」


 パイプ椅子から伸びる長い鈴野の両足を囲うようにして、凛は肩幅に足を広げて仁王立ちした。今度は鈴野が、何が何やらという顔をしている。むすっとした顔のまま、凛は鈴野に言い放った。


「私が悪いみたいで気分が悪いです。是が非でもくっついて下さい」


「なんだそれ」


「あなたと先生が恋人同士になれば先生も放浪しなくなるでしょうし、私は卒論のアドバイスももらえて万々歳じゃないですか」


「好きなんじゃないの、ハセセンのこと」


「顔が、好きなんです」


 こんな短時間でなんだそれを連発することになるとは、と鈴野はかつてないほど近い距離にいる凛を見上げた。こんないちゃもんのつけかた、あって良いのか。こんな不機嫌な顔で、好きな人の話をすることになるなんて。絶句した鈴野に、凛が上から指令を下す。


「さあ、今日から鈴野さんと長谷川先生のラブラブミッションスタートです」


 得意げに口角を上げる凛の顎が上に上がり、腕を組んだ姿を、鈴野は悪役みたいだ、と思った。誰にも言えなかったことをこの女に言ったことが、間違いだったのだろうか。あるいはどこにも行き場のなかった気持ちへの救済か。


「私の卒論の為に、頑張ってください」


 1つ歳下の女に差し出されるまま、鈴野はその小さな手を力なく握った。





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