ゆでたまご協定
Writer Q
第1話
ユキヒトさん、と私は心の中で読んでいる。
行人という名前で本当はユキトと読むらしいが、50歳前後の、穏やかそうなこの人にはユキヒトの方がしっくりくる……と私は思っている。
「ホットコーヒーのAセットと、ゆでたまごを単品で1つお願いします」
私の顔を見ると、注文を間違えないようにゆっくりと話した。
私に気遣ってくれているのだが、そもそも間違えるはずがないのだ。だって、いつも同じものしか注文しないのだから。
「眞央さん、大学は楽しいですか? 確か筆談サークルに入っていましたよね?」
おしぼりと水をテーブルに置くタイミングで、ユキヒトさんが話しかけてきた。私を含めてこの店にはアルバイトが3人いるが、一人ひとりの名前をしっかりと覚えていてくれる。
「はい、毎日エンジョイしてますよ」
嘘だ。本当は全然楽しんでなどいない。先月、男が原因でアイミと決裂し、サークルを退会したばかりだ。でもネガティブなことを話して心配させるのは失礼なように思えて、正反対のことを言ってしまう。
「そうですか。それはよかった」
朝の7時台に、ユキヒトさん以外の客はほぼ来ない。店長が店を7時30分からオープンしているのは、ユキヒトさんのためだけにやっているようなものだ。
ユキヒトさんは、いわば常連客だ。
私はまだこのアルバイトを始めて1ヶ月だから詳しくは知らないが、店長によると、だいたい5年くらい通い詰めてくれているらしい。
店の定休日である火曜日以外は、毎日来る。オープン直後の朝7時30分すぎに現れ、いつも決まってカウンター席の一番左側に座るのだ。
店長はユキヒトさんの名前を思い出せない時、いつも「ほら、あの、……ゆでたまごが好きなおじさん」と言う。それくらいにユキヒトさんは、ゆでたまごを食べるイメージが強い。
というのも、ユキヒトさんがいつも食べるモーニングのAセットには、そもそもゆでたまごが付いているのだ。それなのに、さらにゆでたまごを単品で注文し、毎日2個食べる。
「できたよ」
私がハンドドリップでホットコーヒーを淹れ終えるタイミングに合わせて、店長ができ上がったモーニングのプレートを配膳棚に上げる。
それとコーヒー、フォーク、紙ナプキンをトレーに載せて、ユキヒトさんのテーブルに置いた。
店内はテーブル席が4つと、5人がけのカウンターがあるだけの小さな喫茶店だから、店長とアルバイトの2人体制で回せてしまう。
「ありがとう」
いつも、配膳だけで必ずお礼を言ってくれる。
若い私に決して横柄な態度を取らないし、優しいし、……一言で表現するなら、ユキヒトさんは紳士だ。同世代の私のお父さんとは全然違う。
ハーフサイズのトーストにゆでたまご、ミニサラダ、ウインナー、ヨーグルトのプレートにホットコーヒーというモーニングAセットで、税込み450円は確かにお得だ。東海エリアの喫茶店で定着しているモーニングという格安の文化は、滋賀県出身の私からすれば、最初驚いたものだ。
ユキヒトさんは、そこに単品でゆでたまごを追加するから、全部で530円となる。
モーニングのプレートを前に、必ず手を合わせて「いただきます」と言うのも、ユキヒトさんのかわいいところ。早朝のアルバイトは正直タルいが、ユキヒトさんを見ていると毎朝、癒される。
そして、必ず最初にゆでたまごを1個食べる。
その食べ方は独特だ。
まずたまごをテーブルに静かに打ち付けながら、殻全体にくまなくヒビを入れる。
そして、たまごの底に人差し指を入れ、あっという間にキレイに殻を剥いてしまう。
そして、その殻のカケラを親指と人差し指で挟んで、ナイフのようにたまごの中心に浅く差し入れると、そのまま水平にたまごの外周を切り込む。
するとゆでたまごは、上半分の白味、黄身、下半分の白味に3分割され、それを一口ずつ塩をかけて食べていくのだ。
「どうしてそんなにゆでたまごが好きなんですか?」
この日、思い切って聞いてみた。
「昔、ボクは今よりもっと太っていてね。そしたら妻がダイエットにいいから、と毎朝2個用意してくれるようになったんですよ。それで改めてゆでたまごが好きになったというか、朝食べることが習慣化してないと寂しいというか」
プレートを食べ終えて、コーヒーを飲みながらユキヒトさんは答えてくれる。
「寂しいんですか? ゆでたまごがないと……?」
「はい。数年前から妻と別居していましてね……。それでここに通って、ゆでたまごを毎朝食べることで、足りない栄誉と、一人きりの寂しさを埋め合わせてるんですよ」
ユキヒトさんは、顔を赤らめて言った。なかなかはにかんで若い私に話ができるおじさんっていないように思う。
「寂しいなら、奥さんと暮せばいいのに」と思わず口にすると、店長が「余計なことを言うんじゃないよ」と注意する。
すると、ユキヒトさんは笑った。
「店長さん、いいんですよ。眞央さんの言うとおりですから。別居とはいえ、離婚はしていないし、仲が悪い訳でもありません。今も月に2回くらいは会うのでね」
「じゃあ、何で夫婦なのに一緒にいられないんですか?」
「その方が、お互いうまくいくから……? かな。いや、お互いが自然とこのカタチを望んでいた……? のかもしれないですね」
「それでいいんですか?」
「はい。寂しくはあるけど、それくらいがちょうどいいんですよ」
そして、ユキヒトさんは体を私に向け、見据えてきた。
「だから、眞央さん」
「はい」
「この先、大切な友人や仲間、家族との関係は大事にしてくださいね。気に入らないから拒絶するのではなく、また、自分の気持ちを無理に理解してもらうでもなく、あるがままのお互いの違いを理解すれば……」
「すれば、どうなるんですか?」
すぐに頭の中に、ケンカ別れしたばかりのアイミが頭に浮かんだ。
「共存できます」
「共存? 仲直りじゃなくて……ですか?」
「はい。今のボクと妻は離婚しないで共存するために別居しているんですよ」
「相手の理解力の限界を知って、諦める、みたいなことですか?」
「いえいえ、決してボクも妻も諦めてないですよ。むしろ、妻は誰よりもボクを理解してくれています。これは諦めではなく、相手に自分本位の期待をしない、ということです」
ユキヒトさんの言う関係性は、まだ大学生の私には難しい。
「仲直りは譲り合ったりしなくちゃいけないから、窮屈ですよね。そうではなくて、お互いそのままで、ケンカや問題になる要因を手放したり、捨ててしまうことで共存する方が、ずっと関係を維持できますよ」
「そうですか」
「執着しないでね。ま、寂しくなることがあったら、ここでゆでたまごを一緒に食べましょう」と、また笑っている。
「私も執着しないようにしてみます」
また嘘をついた。今の私は到底、アイミを許せそうにない。ホントは未来永劫、末代まで呪ってやりたい。
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