クソ雑魚作家もどきの俺達へ
白川津 中々
第1回 そのネタ、もうやったよ
万人の万人に対する戦い。
これはホッブズのリヴァイアサンに書かれているとされている一節である。
中学で習った当初、俺は「うっひょーかしこかっこいい! 妄想のネタにしよう!」と息巻いて授業中爆睡をきめていたわけだが、きっと同じような反応を示した方も多いと思う。そうとも、こんなかしこかっこいい表現に憧れないわけがない。そして、後に小説を書くようになって作中で引用したりするわけだ。なんかみんな集まって国を作ればいい感じに闘争を抑制できるんじゃね? 的な事を素敵に記すのである。こういう知的な内容は自身の知性を発揮できる気がするし(義務教育レベルだが)、とても気持ちよく書き上げられる。
ここまでは問題ない。
ここからが問題だ。
連載が終わり一息つき、また連載を開始する。
俺は終わらせた作品は直後に読み返さない。不備があると恥ずかしいからだ。校正に時間をかけていないのである(こっちの方が恥ずかしい)。だから、一度使ったネタを忘れてしまって次回作でも用いてしまう事がまったく多い。上記のリヴァイアサンなんかももう何度も擦っている。そしてたまに読み返して、「うわ、またリヴァイアサンじゃん……」と落ち込むのだ。引き出しのなさを痛感する瞬間である。
これは設定などにも当てはまるもので、「あ、こんなキャラクターいいね」と思って書いていたら過去作で似たような奴がいたりする。これが辛い。読んでいる方から「また前と同じだよ」と思われててダメージを負わないはずがない。創作力がないのかと激しく落ち込む。また、コメディでも下ネタだったりきわどい表現を使う場合が非常に多い。それしかないのかと自己嫌悪。エログロを書きたいのとエログロしか書けないのとでは雲泥の差。漫☆画太郎のように極める事もできない俺は、トラックに轢かれてバラバラになるシーンもきっと脆弱に表現してしまうだろう。
なにを書くのも昔の焼きまわし。
最近、そんな風に思えて仕方がない。
サラピンの想像力が懐かしい今日この頃。
仕事が忙しいと言い訳しては、何もしない毎日である。
そうそう。冒頭のリヴァイアサンについてなのだが、なぜ”書かれているとされている”などという曖昧な表現を使うのかというと、それは俺がリヴァイアサンを読んでいないからだ。こういうところが、ネタの枯渇に繋がっているのかもしれない。
ちゃんと、インプットしよう……
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