プロローグ

序 998人目の愛してる①


 10月の末にもなると紅葉は鮮やかに色づいている。

 秋の季節の、このもっとも美しい時は、読書と食の欲求を味わうのにもっとも適していると言われている。

 名も知れないこの学生服の少女も、ベンチに腰掛け、本棚ですっかり眠っていた長編の恋愛小説を、この時とばかりに引っ張り出して、うっとりと思いを馳せていた。

 1ページを愛おしげに開いては、物思いに浸りつつ、ビスケットをひと齧りする。

 そしてまた1ページだけを読み進め、時折り、秋の空を眺めるなどして、空想の中の恋物語に涙を流して、ビスケットを頬張るのだった。

 葉がすっかり枯れてしまうまでには、彼女は悲恋を、物語の主人公と共に経験して、ちょっとだけ大人になり、またちょっとだけ増えてしまった体重を悲しみつつ、本をそっと閉じるのだろう。


 

 そのベンチが設置されている美術館の大時計が、ちょうど正午を回った頃である。

 軽薄そうな雰囲気を持つ若い男が、美術館から出てきた大学生風の女性に声をかけていた。


「や、彼女。可愛いね。暇してる? 

 お茶飲みに行こっか」


 腕にたくさんの資料を抱えた女性は、男を一瞥することもなく無視して突っ切って進もうとする。


「あ、待って待って、行かないで。

 ジャジャーン。ご紹介。

 僕はタツヤ。ただのイケメンだよ。

 あ、ごめん。間違えた。

 すっごいイケメンだった。イエイ」


 などと背後で、はしゃいでいる男に相変わらず目もくれず、女性の足は止まらない。実につっけどんな態度だ。

 彼女は思う。たった今、美術館で感銘を受けた芸術品の数々を、帰路の一歩一歩で踏みしめて記憶に留めようとしていたのに、すっかりバカな男に水を差されてしまった。足を止めて、ため息のひとつでも見せつけてやりたかったが、苦学を重ねて学芸員の道を歩もうとしている彼女は、人生でもっとも自己啓発に捧げなくてはいけない大事な時期の、この一分一秒を、ナンパに没頭するような軽薄な男に使うつもりはない。そもそもナンパ男など大嫌いなのだ。知性のない声を聞いているだけで吐き気がする。こういう手合いは話を少しでも聞くそぶりを見せてはダメだと昔からよく知っている。


 

「ほらほら。

 僕、カッコいいよ。

 見て見て」



 彼女は無視を続ける。

 持っている資料を片腕で抱え込み、もう片方の手でシッシッとやる。



「ほらほら。こんなところにイケメンがいるよ。

 もったいないよ。イケメンだよ〜。

 僕、すっごくカッコいんだから。

 ねぇねぇ、見ないと損するよ〜。

 見たらゼッタイ話をする気になるから〜」



 はぁ? 

 という言葉が喉まで出かかったが、彼女は口に出すのをやめた。

 こんなのを少しでも相手にしたくない、という嫌悪感がますます強く出てしまう。

 しかし、相反した思いも出てくる。そこまで言うならば一目ぐらい見てやろうという気にもなる。

 けれどもコイツには言葉を使うのも面倒くさい。冷淡な態度だけであしらってやろうと思っていたが、もっと酷いことをしてやろう。こういう自惚れたバカは身の程と言うものを思い知らせなきゃダメだ。自分は美醜を精査する力がある。しつこいこの(どうせ)醜男を、目で嘲ってやるのだ。飛び切りのE判定をくれてやろう。



          ⚪︎

 


「あ、やっとこっち見てくれた」



 目を見開く女性。

 彼女の目の前に現れたのは醜男などとんでもない。振り返るとそこには、美そのものが存在した。

 というよりもコレは、本当に人間の領域にあるものなのだろうか?

 初対面でこのような非現実的なものを間近で見せつけられてしまうと、認識の正しさにやや不安が出てきてしまう。

 彼女の頭の中で幾度も認識の修正がなされる。

 そして、学芸員を目指し、秀才と謳われた彼女の出した答えは、––––

 

 ––––目の前にいたのは、美しい彫刻だった。

 驚くほど精巧で完全なる美の造形がそこにはあったのだ。

 たった今、美術館の中で感銘を受けた絵画よりも遥かに美しい。男の容姿は、今まで自分が恍惚してきたどの美術品よりも一目で優れていると分かった。


「えっ‥? お兄さん、格好良すぎ。何で彫刻なの?」

 

 思わず感嘆の声が出てしまう。意味の分からないことも言ってしまった。

 とにかく目の前で微笑む男の顔は美しすぎて、イケメンとかそんなレベルの造形じゃなかった。


「見ちゃった? 

 イケメンがすぎるって?

 やだなあ、そんな事あるよ〜」


 などと笑顔で話す男。

 こんな軽口を言えば、大半の一般女性は苛ついてこう応じるだろう。


 ––––はぁ? うっざ。

   はしゃいだことを言って、あんたバッカじゃない?


 そう言われてもしょうがない言動だ。

 声だけ聞けば、まさに軽薄そのものだった。

 失笑ものの大バカだった。

 だがそこに芸術品のような顔が付くと、とても愛らしい言動に思えてしまう。


「いきなりカッコ良すぎちゃってごめんね〜。

 僕、彫刻くんだよ。

 アハハ、違う違う。ごめんてば〜。

 僕はタツヤだよ」


 美しい。ただただ、美しい。

 彼女はまばたききもできず、彼に見入る。

 顔の微妙な変化を一々と気に入ってしまう。ディテールに目を奪われてしまう。

 芸術として不完全であるはずの人の顔を見て、感動をするなんて事があるなんて夢にも思わなかった。

 一級の作品に出会った時よりも、なお自分の心を打ち震えさせる衝撃があった。

 両腕に抱えていた沢山の資料が足元に落ちた。

 ずっと求め、探求してものがここに見つかった気がした。

 彼にこの喜びを伝えたい。感謝を込めて伝えてあげたい。

 でも語彙が圧倒的に足らない。

 自分の学業はこの時の為に修練されて来たようなものなのに、目の前の男を適切に評する能力を持っていないことを彼女は口惜しく思った。


 ––––ああ、私はこの人を知りたい。

   深く、深く、存分に彼を探してみたい。


 と、切望してしまった。

 たった一目、見ただけなのに、魂が抜かれるほど見惚れてしまった。

 そうして彼女の口は、無意識に動いていた。彼に自分の名を自ら明かした。男の誘惑に乗っかるのは生まれて初めての事だった。


「君、大学生? ふーん、美大なんだ。

 じゃあさ、じゃあさ。ゲームゲーム。

 この僕の芸術的な顔にピッタリな表現を当てっこしようか?」


 すで彼に魅了されていた彼女は、やや放心気味に頷く。

 もはや彼女には目の前の男を、完璧な芸術品が喋っているようにしか見えていなかった。


「アハハ、ダメダメ。

 ここ突っ込むところじゃないよ〜。

 僕、カッコいいからさ。

 これはありよりのありなんだよ。

 OK、KO。KO牧場。

 うん、かっこいいね、オーレ。

 こんな感じ。

 アハハ。面白かった?」


 何も面白くなかった。

 言ってることも、オチもよくわからない。

 一人で笑い出しているが、同じセリフを他の男性が言えば、寒気どころか、こんなのウザすぎて疫病の兆候だ。国が国ならば、国際指名手配され、即死刑ものであり、こんな冒涜的なウザさは戒律の厳しい地域によっては罪認定され、社会が許さなかったろう。

 だが彼は、彼の持っている顔面パワー、ただそれだけで、無罪放免され、世界にも許されていた。


「ね? 僕は芸術的なイケメンなのです。

 じゃ、頑張って謎解かなきゃだね。

 この顔がクイズになりまーす」


 放心して言葉を発せなくなった彼女に、男は一人でツッコミを入れ、一人で笑っている。

 声だけ聞いているとやはりバカそのものだったが、まったくもって自意識過剰ではない。この男の顔には、そのセリフに相応しい資格も説得力もあった。


「ホラ、じっくり見て。

 恥ずかしがっちゃ、ダメ」


 彼は彼女に自分の美しい顔を近づける。息が届きそうだ。もう少し近づけばキスの射程圏内になる微妙な距離だ。


––––唇を見て。

  鼻を見て。

  ねぇ、目を見て。


 女性は至近距離で男の超絶イケメンフェイスを凝視する事になる。

 男の美しい顔を見惚れるあまり、彼女はもう言葉を発する事ができなくなっていた。

 

「どう、アイドル? 

 じゃ、国宝級? 

 天使なんかはどう? 

 王子様は? 

 例えるなら100年にひとりとか?

 100年じゃ足らない? 

 じゃあ、1000年とかならどうかな。足りてる?」


 ナルスティックで気色悪い事この上ない発言の連続だった。

 しかしだ。この特殊な事象について今一度確認しなくてはならない。


 この同じ台詞をおっさんが言えば、怖気が立つだろう。普通の男が言ってもそうなる。テレビや誌上で映る、どのイケメンが言っても許されないレベルの事を言ってしまっている。

 けれども、この男には何を言うことも許されていた。

 どんな愚かしいことも。気色の悪いことも。傲慢なことも。卑猥なことも。冒涜も罪も。彼の美しい顔が免罪符となり全てが許されていたのだった。


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