第14話 翼


 騎士と木菟ミミズクが、平原から丘を臨む。


「準備はいいか、蜂鳥の騎士」


「少し待って、馬を繋ぐから」


 フェザーは地面に杭を打つと、縄を結んで馬を繋ぎ止める。長く走らせてしまったと、馬を労るように撫でた。


 ケフェウスは杭の上に留まり丘を睨む。彼女はその横にしゃがみ込むと木菟に訊ねた。


「行く前に、貴方はロベリアについてはどれだけ知ってるの?」


「名前、それから、とんでもなく美しい女の姿をした性格の悪い怪物ってことくらいだ。何か知っておくべき事があるなら手短に頼むぜ?」


「まず、湖に侵入するのは簡単ではないということ。彼女には湖に出入りするものを制限する力がある。でも、湖から引き離せばその力は失せる」


「それ以前に、どうやって湖の中から誘き出すつもりだ?」


「それに関してはそこまで深く考えなくても大丈夫だと思う。一言二言挑発すれば飛び出して来るから」


「根拠はあんのか?」


「私のことが嫌いだから」


 それは実に簡潔な答えだった。ケフェウスはなる程と頷いて続きを促す。


「二つ目は私のこと。蜂鳥の騎士フェザーは、守るべき花が傍にいる場合に限り、確実に勝利する。そして、決して傷付かない。でも、プリムラは囚われてる。つまり、今の私じゃロベリアには〈絶対に〉勝てない」


 これは道理や理屈の話ではない。


 彼女たちはそういう存在なのだ。か弱い存在が愛する者を守るため、強大な悪や理不尽に立ち向かい、そして勝利する。それは人々が伝説に託した願いでもあった。


 とは言え、蜂鳥という弱き者があまりに強大な存在に勝利しては現実味がない。人々を納得させる為の要素として、愛する者が傍にいる場合に限り、無敵としたのだろう。


 限定的な強さ、そこから外れれば非常に弱い。


 これがなければ、蜂鳥の騎士が後世に残ることはなかったかも知れない。そんな属性を付与された本人からしてみれば、厄介極まりない話に違いない。


「勝てなくてもいいさ。言ってみりゃ囮なんだからな。ま、本気で戦うこともないだろ」


「ロベリアはそんなに甘くない。他の何も目に入らないくらい、私に集中させないと意味がない。だから、本気で戦わないと」


「そうか、なら、そっちは頼んだ。で、俺が湖に入ったら、そこからは時間との勝負ってわけだ。まあ任せろ、何とか見つけて連れて来る」


「もし」


「何だ?」


「もし、その時既に私が死んでいたら、プリムラを連れて遠くへ逃げて」


「ハッ、そんなことにはならねえよ。俺には分かるんだ。だから、そんなこと言うな」


「……ありがとう。さて、そろそろ行かないと」


 フェザーは数歩前に進み、丘を見上げた。


 そして、これまで温存していた翼を広げた。広げたと言うより、突然背中から生えたようだった。


 それは蜂鳥が持つ本来の翼ではなく、月明かりに透ける鮮やかな一対の羽根。まるで蝶の羽根のようなそれには、花が鏤められた紋様が浮かび、柔らかに風に揺れている。


 こんな羽根で飛べるのかと不安になる程に、それは小さく、薄く、か弱かった。フェザーも少し困ったように笑っている。


「これが今の私の翼みたい。誰が想像したんだろう? 淡い菫色の翼だなんて、私には合っていないような気がするけど……」


 ただでさえ騎士の要素が少なかったことに加え、そこに羽根まで生えてしまうと、僅かな騎士の要素は完全に掻き消されてしまった。


 これも様々な彼女が混ざり合った結果なのだろうが、今の彼女は愛らしい花に誘われた妖精のようだった。


「後はお願い」


 それだけ告げて、フェザーは飛び立った。


 突然現れた喋る木菟を当然のように信用している自分に少し驚いたが、ケフェウスには自分達と同じく現実とは違う場所にいる匂いがした。


 単にそれだけの理由だが、それだけでも何故か信じられた。これはケフェウスの性格に寄るところも大きいだろう。


 そのケフェウスは今、湖の真上を避けて上空を大きく旋回していた。性別不明のこの木菟は音もなく飛ぶことが出来る。フェザーが敵意を一身に引き受ければ見つかる心配もないだろう。


 だが、どんな時も予想外の事態は起きるものだ。


「オイオイ! 話が違うじゃねえか!」


 フェザーが湖の真上に到達したと同時、地響きと共に湖は無気味に波を立てると、次の瞬間、規格外の巨大な顎が水面を飛ぶ蜂鳥を喰らわんと迫る。


 不意を突かれた蜂鳥は空中で身を捩り、辛くも回避に成功する。ロベリアは勢いそのままに飛翔すると、轟音と共に湖を跨ぐように両脚をついた。


 一方、巨大な顎を回避した蜂鳥フェザーは、腰に差した慈悲深き短剣を抜き、龍の眼を目掛けて弾かれたように上昇する。


 その薄い菫色の羽根は一見すると微動だにしていないように見えたが、辛うじて視認出来る残像が絶えず動いていることを証明していた。


 その異常な羽ばたきの力によって生み出される爆発的な推進力が、隼の急降下と同等の速度を誇る急激な上昇を可能にしている。


 遥か上空で彼女たちは睨み合う。互いに睥睨し、必殺の一撃を見舞う機会を窺っているのだ。


 小さな蜂鳥と巨大な龍による現実離れした対決。これこそが、彼女たちが幾度も繰り返した伝説の戦いなのだろう。


「相も変わらず、ちょこまか飛んでばかり。今もそれしか出来ないのかしら? ちょっとは頭を使ったら? 今の貴方は一撃で死ぬのよ?」


「いつも一撃で死んでいるのはそっちだがな。今回は片眼で済むと思うなよ、ロベリア」


 短剣と呼ぶには長い、針のような切っ先を向けて突撃を仕掛ける蜂鳥に、龍は鋭い鉤爪を三つ備えた剛腕を振り下ろす。


 それは破壊的な一撃だった。


 直後に空気が破裂するような衝撃音が空に響く。しかし、それは標的に命中したわけではなく、尋常ではない速度が生み出した音に過ぎない。


 蜂鳥は空中でぴたりと静止し、鉤爪が過ぎ去るのを待って再び上昇する。蜂鳥のみが可能にする特異な飛行が龍を翻弄した。


「フェザー、こんなに花のない貴方なんて初めて見るわ。ああ、そう言えば、プリムラなら瓦礫に潰されて死んだわよ?」


「下手な嘘を言うな。花が枯れたのなら私に分からないわけがない。それにしても、相変わらずの木偶の坊だな、ロベリア」


 挑発を躱して、フェザーが不敵に笑う。


 その笑みに我慢ならなかったのか、龍は再び破壊的な一撃を振り下ろす。これを静止したまま横に滑るように躱し、蜂鳥は一瞬にして上昇する。


 蜂鳥は憎々しげに睨みつける龍の眼光に怖れること無く、その切っ先を向けて突き進んだ。


 その時、龍が嗤う。


 待っていたとばかりに顎を開き、喉奥から火炎を吐き出した。それは一瞬にして夜空を真紅に染め上げ、周囲一帯の影を消し去った。


 空中では回避不能の火炎の放射を、蜂鳥は敢えて羽ばたきを停止させて落下することで回避する。そして炎が収まった瞬間に上昇すると共に、龍の広大な胸部に一撃を見舞った。


 龍は再び嗤う。到底貫けるはずのない龍の鱗を〈まち針〉で幾ら刺した所で、致命傷になることなど万に一つも有り得ない。


 それは〈これまでの戦い〉が何度も証明している。そして毎度の如く、眼を狙う以外の方法がないと気が付くのだ。


 しかし、フェザーは胸と言わず、脚、腹、腕、背中、至る所を刺して飛び回った。煩わしいことこの上ない攻撃にロベリアは辟易している。


「本当に鬱陶しいわね。随分元気に飛んでいるけど、一体どれだけ食べたのかしら?」


「ロベリア、血が出ているのに気が付かないのか? どうやら、今の私は一人でお前を倒せるらしい」


 はったりだった。


 だが、全てがそうではない。事実、貫けぬはずの鱗を貫かれて血を流している。針で指先を刺した程度の出血だが、たったそれだけの事実がロベリアの動揺を誘った。


 これまでに無かった事態を受け、更に有り得ない事態がロベリアの脳裏を過ぎる。蜂鳥はこの眼を刺さずとも私を殺し得るのではないか。


 それは行き過ぎた考えだとしても何かが違うのは確かだ。第一、過去にあれ程の飛行を見せたことがあっただろうか、一度も攻撃が当たらないなどと言うことはなかったはずだ。


 もしや、自分と同じようにフェザーも元々の伝説から外れた存在になっているのだろうか。だとすれば、この姿では勝てないのではないか。


 とは言え、黒髪に捕らえたリトラの血液によって依然力は増し続けている。あと少しもすれば、どの過去をも超える力が手に入る確信があった。


 万一に備えて姿を変えるのも手だ。今の自分は龍に拘らずとも別の形をとれる。


 瞬時に思考を巡らすロベリアであったが、僅かとは言え、意識に死角が生じてしまう。上空のケフェウスはこの機を逃さなかった。


「今しかねえな」


 遥か上空で翼を畳み、一気に降下する。


 この瞬間、自身の遥か上空から飛来する物体にロベリアは気付けなかった。ケフェウスは湖の真上から被さる龍の巨体、湖をぐるりと囲む巨大な尾、その僅かな隙間を縫って水面へ急降下を試みた。


「くそっ」


 だが、龍の尾は尾ではなかった。それは無限とも思える黒髪を束ねた極大の縄、それが一瞬にして解けたかと思うと、侵入者を絡め捕らんと一斉に木菟に迫った。


 フェザーは救出しようと咄嗟に降下を試みるが、ロベリアがそれを許さない。三度振るわれた龍の剛腕が、降下する蜂鳥の羽根を無惨に引き裂いた。


「フェザー!!!」


 その様子を目にした木菟が叫ぶ。


 今や制御を失って落下する彼女が地面に激突するのは免れない。しかし、自分が直ちに方向転換を試みれば間に合う距離にある。


 だがその場合、次の機会は永遠に訪れないだろう。この間、この一瞬にも満たない間にケフェウスの逡巡を感じ取ったフェザーが叫んだ。


「行って!! 私はまだ飛べる!!」


 ケフェウスは視線を戻すと限界にまで翼を畳み、追い縋る黒髪の群れを振り切って水面へ向かって突っ込んだ。


 フェザーは落下しながらも、群がる黒髪の拘束を免れた木菟が水面に飛び込むのを見届け、安らかに笑った。




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