元旦に生まれて

吾妻栄子

第1話

――ホギャア、ホギャア……。

 生まれたての命の叫びが響いてきた。すぐ近くのはずなのに何故か遠くに感じる。

「生まれたか!」

 隣の間からお義父とう様の誇らしげな声が上がる。

「我が家の跡取りだ!」

 バタリと襖を開けて入ってくる足音が近づいてきた。

「こちらの赤ちゃんはですね」

 産婆さんはこうした場面には馴れているのか、どこか宥めるような調子で続ける。

「本当に可愛らしいお嬢様でございます」

 シンと隣の間まで湧き立っていた空気が静まった。

 その静寂が、横たわっているこちらの胸を刺す。


*****

あきら、お昼ですよ」

「はい」

 中庭でスケッチブックにクレパスで絵を描いていた七歳の娘は真っ白なリボンを結んだ漆黒の髪の頭を振り向ける。

 豊かに真っ直ぐな黒髪に赤みのない白い肌、太く真っ直ぐな一文字眉に切れ上がった大きな目。

 七歳にしては背丈も高く、外遊び用の紺地のワンピースから抜き出た手足はどこか異人めいて長かった。

 この子は母親の目にも決して不器量な娘ではない。

 男にしてみたい、とは娘を目にした多くの人が口にする言葉だ。

 まだお腹にいた頃に亡くなったあのひとに似ているから当然と言えば当然なのだが。

 元旦に生まれたこの子にはお義父様があらかじめ決めていた名前がそのまま付けられた。

 せめて「旦子あきこ」とか女の子らしい名前にしたかったとは思う。

 けれど、私の言葉など端から聞き入れる方ではないし、敗戦に次ぐ華族廃止令で家も傾き、病気がちだったお義母様に先立たれ、跡取り息子も不意に亡くして生まれてくる孫に全ての望みを掛けていたお義父様には誰も異を唱えられなかったのだ。

「何度言ったら解るんだ? この刀は売らない!」

 二階からの怒鳴り声に私も旦も思わず固まる。

「もしどうしても欲しいというなら私はこの場で腹を切るから、その後に持って行ったらよかろう」

 激しさが収まった代わりに苦さの増したお義父様の声を聞きながら七歳の娘は切れ上がった大きな目を伏せた。

 顔が影になっているせいか一際大きな瞳を取り巻く白目がどこか青みが勝って見える。

 この子はいつの間にか泣くとか怯えるとかいう振る舞いをせずにこんな風に降り掛かる理不尽を耐え忍ぶようになった。


*****

「ねえ、お祖父様」

 昼食の牡蠣のスープ――これは女中のタキさんが闇市で材料を買ってきて久し振りに作れた特製の一品だ――を口に運びながら七歳の娘は尋ねる。

「学校の先生が仰ったのだけど、日本はもう平和な国なのでしょ」

「そうだよ」

 お義父様は目尻の皺を深くしてゆっくり頷く。 

 その様子を目にすると、跡取りとなる男児でなくとも血を分けた孫はこの人にとってやはり可愛いのだと判る(元から同じ羽田の血筋の者には甘い方ではあるけれど)。

「それならどうしてお祖父様は刀をお持ちなの」

――日本はもう敗けましたよ。これは私たちの敗北です。

――陛下ももう御自分は人間と仰せです。それで、どうして私たちが高貴な人間でいられますか?

 そうお義父様に告げたあの人と同じ目をしている。

 相対するお義父様もその時と同じ表情の消えた面持ちになった。

「あれは家康公の頃に我が家に授かってから代々伝わってきた大切な宝だ」

「いつか敵が我が家の者を襲う時があれば迷わず刺せと教えられてきた」

「今は世の中が変わったけれど、元は華族の家だったと知れば狙う者が少なくない」

「だから、私が生きている限り手放すことは出来ないんだよ」

 重い声で語るお義父様の眼差しがふとこちらに向けられる。

「私の死後に君たちの生活の足しに必要ならあの刀を売ってくれても構わない」

 廊下の奥に膳を下げに現れたタキさんの顔に悲痛なものが走るのが私の位置から認められた。

「しかし、その時でも少しでも価値の判る人の手に渡して欲しい」

 これでおしまいという風にお義父様は椅子を立たれる。

 次の瞬間、バタリと大きな山が崩れるような衝撃が私と旦のまだ座っている食堂全体に走った。

「旦那様!」

 タキさんが床に俯せに倒れたお義父様に駆け寄る。 

 

*****

「もうすぐこの年も終わる」

 日のすっかり暮れた窓の外に積もる雪を眺めながら病床のお義父様が寂しく微笑んだ。

「年が明けたら旦のお誕生日だね」 

「今度は八歳になる」

「この前、マサコさんが私に木槿むくげの花を描いて下さったの」

 学校の美術クラブで一緒に活動している上級生の名だ。

「マサコさんのお父様が昔は総督府にお勤めで小さな頃はソウルにいらして、その時のお宅の庭には綺麗な木槿が沢山咲いていたんだって」

 お義父様は優しく頷いた。

京城けいじょうか。昔、訪れたが美しい街だった」

 干上がった大地さながら深い皺の無数に刻まれた顔の中で二つの目だけが泉のように潤んだ光を点した。

「あそこも東京と同じく戦火で壊されて、また新しく生まれ変わっていくのだろう」

 骨と縮緬じみた皮ばかりになった手が空に伸びてゆく。

 その手をまだ一回り以上小さいが白く瑞々しい肌に覆われた手が握り締めた。

「お前たちはその新しい世界を見ておくれ」

 孫娘は応える。

「私は自分の足で行って自分の目で見てきます」


*****

「お祖父様はってしまったのね」

 白い布を被せられた祖父を旦は見詰めて呟く。

「もう苦しまずに済む所へ」

「最期までご立派な方でした」

 タキさんはそれだけ言うと、病室に置かれた薬や湯桶を片付け始めた。

 私も立ち上がる。

「親しい方に葬儀のお知らせをしないとね」

 こんな時にこんなことを考えるのは不謹慎だと知りつつあかく染まり始めた東の空に思う。

 自分もこれから何か新しいことを始めよう。(了)

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元旦に生まれて 吾妻栄子 @gaoqiao412

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