笑顔で別れ
「荷物は全部送ったから、この場所にいるのは今日で最後よ。今日くらいは勝手にしなさい」
八月三十一日の朝、わたしに向かって母はそう言った。
相変わらず母は嫌いだが、巡くんに別れも告げさせてくれないような血も涙もない人ではないらしかった。
わたしは母の言う通り好きにしようと、家を出た。
海へ向かうと、既に巡くんは来ていた。
「彩夏さん」
「ごめん、待った?」
「いや、待ってない」
彼は、わたしが昔彼に助けられたということを未だに思い出していない。
このことを伝えるタイミングは、もうこれで最後になるかもしれない。
でもどうしてか、彼が昔助けた人はわたしだったんだと言おうとは思えない。
「海、荒れてるね」
彼は言った。
出会った時はじりじりと砂浜を照らす太陽が熱いくらいだったのに、今は空に暗雲が広がり、波打つ海際は夏だというのに少し肌寒く感じられた。
でも、海も荒れているが、それよりも荒れているのはわたしの心だった。もしかしたら巡くんの心も、同じくらい荒れているのかもしれない。わたしに怒っているかもしれない。
「お別れなんだから、海くらいは落ち着いてれば良かったのに」
わたしがそう願っても海は荒れている。
巡くんの方を見ると、肩を震わせながらわたしに背を向けていた。
わたしへの怒りを隠しているのか、それともわたしとの別れが悲しいのか。
そのどちらかはわからなかったけど、どちらにせよ巡くんを傷つけてしまったのは間違いない。
「わたしたち、本当は出会わない方が良かったのかな……?」
せっかく出会えたというのに、出会いの嬉しさよりも別れの悲しさの方が際立って感じられる。
空は変わらず暗く、わたしの考えを肯定しているかに見える。
「そんなわけない。僕は、彩夏さんと出会えて本当に良かったと思ってる」
空を覆う雲が、少しだけ減った。
光が、僅かに差し込んだ。
わたしは思わず立ち上がって、海を背に巡くんと向き合った。
「わたしも」
別れを辛気臭く暗鬱にしているのは、荒れた海だけではなくわたしの考え方もだった。
それに気づいて、わたしは巡くんの方を向くと、笑顔を作った。
巡くんは目を瞠った。
涙が頬を伝った。
彼は目を閉じた。
次に目を開けた時、その顔に浮かんでいたのは悲しげな表情ではなく、取り繕った笑顔でもなく、心からの笑顔だった。
雲が少しずつ開けて、空が少しずつ明るくなった。
風が少し収まって、海が少し静かになった。
「……悲しんでも、憂鬱になるだけだよね」
巡くんは笑った。
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