誰が為に 〈ほ〉

 骸井九が神下の下へと辿り着いた時、そこに広がっていたのは絶望であった。

 神下のそばに居る大柄の幽霊が刃物を嵯峨野の首へと押し当てて待っている。

 それと、この状況なのに何故かにんまり笑っている嵯峨野というのも相まって、正確な状況を捕えられないまま時間だけが流れる。

 一体どうしてこうなったのだろうか。

「神下……じゃないよな」

「えぇ、そうよ。というか……さっきぶりね」

「お前、なんでまだ生きてるんだよ」

「それに関していえば私もなんで生きているのか分からないわ! でも、どうやら運が良かったみたい」

 骸井は、なるべく刺激しないように丁寧に言葉を選んでいた。

 何せ、目の前にいるのはさっき自分が殺した女だから。

 そんな絶対に起こりえない事態に遭遇したからこそ、さっき抱えた罪悪感がぶり返すように、わざとらしく自分自身を苦しめるために現れた幻覚なのだと、無理やりにでも現実逃避したくなる思考を留めるように、いたって丁寧に、平常であるそぶりを見せて対話をする。

「それでは聞こう。なぜ嵯峨野君の首にそんな物騒なものを押しつけさせている?」

「私もこんなことはしたくなかったわ……でも、信念をもって目的を達成する場合、時には大胆な行動も必要なの」

「……目的はなんだ」


「それは変わらないわ。――貴方と一緒にいたい。ずーーーーーっと一緒に暮らしたい。それは変わらない。でも前までは方法を選んでいた。あなたに配慮していた。でももうそれは辞めたの」


「手段を選ばないと?」

「そうよ。今から貴方に二つの要求をする。それが叶った暁にはこの子を解放してあげる」

「……」

 条件を聞かないことには何も言えないけれど、それを聞くという事自体が相手の手の平の上なのかもしれないという葛藤。

 しかし、それといって良い案が他に浮かぶかというとそうでもないのが現実だった。

「条件は」

「〝私の存在を完全にこの世界から無くす事〟。これが私から貴方に課す条件。これが出来たら彼女の安全は完璧に保証されるわ」

「ちょっと待て」

「どうしたのかしら」

「今、〝存在を完全に無くす〟って言ったか?」

「言ったわ」

「……急にどうしてだ。僕はさっきお前を完全に消すつもりで能力を発動し、お前を消し去った。だけど、お前はまだ目の前にいる。なのに今度は私を消してほしい? 色々と矛盾しすぎている」

「あの時、私の〝体〟は完全に消え去ったわ。でも想いは消えなかった。だから私はここにいる……と思っているけれど、実際私自身も何故生きているのかは分からないし、もしかしたら今は、〝生きている〟と言う事すら怪しいかもしれない」

「だから言っているんだ。さっきの二の舞になる可能性が高いだろう」


「それは【消失】の文字を使ったからでしょう? どうして貴方は【死】という文字を使わなかったの」


「それは――」

 それは聞かれたくなかった、という言葉が骸井の心を貫くように去来した。

 一つは使用する文字の意味が大きかったり複雑にしすぎると、能力を発動した時に精神を大きく削ってしまい体の負担が大きいという事もあった。

 しかも、この結界内にある無数の文字は自分で書いた文字よりもかなり精神を削る。

 でも、能力を発動できないかと言われたら、それは違う。

 たとえその後にほぼ一日を犠牲にして休息を挟まなければならなくなったとしても、覚悟を決めれば発動できるのだ。

 しかし、目の前にそびえ浮かぶ大きな〝死〟という文字が網膜に焼き付いた後、目の前で非業にも死にゆく人間を見るのは、人間の域を超えた精神の持ち主でない限り、あまりにも耐えられない。

 これを意気地なしという者がいたら、それは想像力足りないただのそこら辺に跋扈ばっこする有象無象と変わらないだろう。

 当事者になったら、目と鼻の先まで生死の匂いが掠めたら、後悔の念が一生頭をよぎりながら、いく数年の寿命を過ごすことがどれだけ残酷な事なのかを理解出来ないのなら、それならば辞めちまえ、と覚悟の有無を問いたくなる。

「――そんな貴方だからこそ頼めるお願い」

 白井有栖は優しく微笑んだ。

「分かった……ただし条件がある。言質で契約を履行するのは余りにも杜撰ずさん過ぎるから、さっき言った事を能力によって約束させる、というのならその条件を飲む」

「えぇ、分かったわ」

 嵯峨野を一瞥すると、目を瞑っていた。

 神下は頭のなかで【契約】の文字を思い浮かべる。

「……っ」

 流石にこれだけ能力を発動していると、かなり精神を浪費してくる。

 その影響か体が少しダルく頭がぼんやりし始める。


 ――ゴオオォーーン……。


「……嘘だろ」

 聴覚消失。

 油断をしていたなんて微塵も思っていない。

 いつ攻撃してくるのか、白井有栖の一挙手一投足を常に見張っていた。


 ――ゴオオォーーン……。


 視覚消失。

 骸井は慌てて能力な発動を止めて、別の文字を思い浮かべる。


 ――ゴオオォーーン……。


 全身の感覚消失。

 咄嗟に思い浮かべた【戻】の文字は、本能から訴えてくる〝精神の擦り切れる予兆〟を裏切ることができず、不発に終わった。


 ――ゴオオォーーン……。


「私の目的は最初に言ったわよ? 九ちゃん、貴方が欲しいって」

 骸井を完全に掌握して完全に我が物にした白井有栖は、能力範囲内であった嵯峨野の事など目にもくれずに骸井の手を握った。

 そして、精神の主導権を完全に奪われた骸井九は、白井有栖の体を能力で生成し、白井有栖は神下の身体からその体へと乗り移った。

 そして、神下の体が光り始めると、体自体が光の集合体へと変化し、その光は宙にある光の点、この結界の出口へと繋ぐ巨大な階段を織りなしていく。

 こうして、階段を上っていく白井有栖と骸井九は嵯峨野花を置いて、この結界を離れるのだった。

 そして、

 この結界は閉じられた。

 もう開く術の失ったこの巨大で堅牢な結界は、嵯峨野を幽閉する巨大な棺桶へと姿を変えたのであった。

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