知らない人にはドアを開けない

平川はっか

第1話

 『眼科医と初めてのコンタクトレンズ』というシチュエーションCDを聴きながらカボチャを煮ていると、ふいにピンポンと玄関のチャイムが鳴った。

 火を止め、右耳から神宮寺先生(眼科医)に低い声で「もっと大きく、目を開けてごらん」と囁かれながらインターフォンのモニターを見る。立っていたのは若い男だった。紺色のキャップを被り、作業着を着て、ガスや水道の業者のようにも見える。なんだか嫌な予感がしたのでそのままモニターを見守っていると、彼の右腕が動き、またピンポンとお気楽なチャイムが部屋に鳴り響く。

「君の角膜、すごく綺麗だよ」先生の甘い声を耳に感じる。「瞼の裏も・・・・・・ほら、かわいいピンク色だ」

 困ったな。男はその場から動く気配を見せない。再び、今度はピン、ポーンとやけにためてチャイムが押される。玄関とキッチンは繋がっているから、無視して料理を再開するのもなんだか気分が悪くて、「大丈夫。怖くないからね」という神宮寺先生の言葉に背中を押されドアを開けてしまった。

 とたん、イヤフォンを外した左耳に「あっお忙しいところすみませーん」と男の溌剌とした声が飛び込んでくる。

「今ってお時間ありますか?」

「いいえ」

 男はめげる様子も見せず「すぐに終わりますんで」と言う。首から社員証らしきものをぶら下げているが、紐がねじれて裏面しか見えない。わざとそうしているのかもしれない。

「今ってどこの電力会社使ってますか」

「使ってません」

「いやいや、そんなわけないでしょう」

 男は何が楽しいのかニコニコと電気料金の見直しを勧め、男の会社と契約すればいくら得になるかを説明した。その全てに適当に相槌を打ちながら、意識はずっと、ほぼ無音の右耳に集中していた。

 今流しているシチュエーションCDはダミーヘッドマイクのため、通常のCDとちがい、音に奥行きがある。耳元に唇が触れそうな距離でしゃべっていたかと思うと、背後から囁いてきたり、足元から聞こえたりと臨場感たっぷりなのが特徴だ。そして今、右耳からは吐息に近い微かな音しか伝わってこない。つまり神宮寺先生は今、左耳に向けてしゃべっていることになる。

 誰であろうと人と話すのにイヤフォンをしたままというのは失礼だろうという性格が災いした。イヤフォンを左右さし替えるか、いやそもそも男の相手を律儀にする必要もないのだし、もうドアを閉めてしまおうか。

 そう思ったとき、

「ところでお水ってどうされてますか?」

 男がカバンから何かのパンフレットを取り出すのと、右から「瞳孔、開いちゃったね」という声が聴こえたのは同時だった。思わず「えっ」と声が出る。

 さっきから気のない返事ばかりする相手が急に興味を示したと思ったのか、男はさらに饒舌になり、「実はおすすめのウォーターサーバーがありまして」と説明を始めた。

 こっちはそれどころじゃない。なぜ瞳孔が? いつの間に散瞳剤をさされたのか。これからコンタクトを入れるのに?

 聴き逃していた部分を確認するべく、一人で喋り続けている男をドアの前から押しのける。多少抵抗にあったものの、いつもジムで鍛えている上腕二頭筋のおかげで難なく追い払えた。やはり持つべきものは筋肉である。

 鍵を閉め、ついでにチェーンもかけ、CDを巻き戻し、一人になったキッチンでまたカボチャを煮るべく、再び鍋に火をつけた。

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