後悔の日
南雲 皋
前編
(カチッ)
ソレは、いつだって私のそばにいました。
最初にソレを認めたのはいつのことだったでしょう。
物心ついた頃には当たり前のように見えていたので、きっと産まれた時からそばにいたのだと思います。
ソレは大抵の場合、私の隣に立っていました。
隣に別の誰かがいるときには、私の視界に入るようなところに立ちます。身体の向きはその時々で異なっていましたが、顔だけは常に私の方を向いていました。
母が私の見ている物を知ったのは、幼稚園に通い始めた頃だったと思います。
それまでも、私がソレに向かって手を振ったり、何かが見えるような素振りをしていた事はあったはずでした。けれど、幼い子供のすることです。猫が何もいない空間をじっと見つめるのと似たことのように思われていたのではないでしょうか。
幼稚園でお絵描きをしていた時、先生が『次は自分のおうちを描いてみよう!』と言いました。私は三階建ての自宅をクレヨンでぐりぐりと描き、隣に自分とソレを描きました。
二人を描いてもまだ余白があったので、白を埋めるように父と母を。
そうして満足気に笑う私を、先生は何か恐ろしいものを見たような顔で見ていました。
その時に描いた絵は全員分が廊下に掲示される予定だったのですが急遽取り止めになり、みんなと一緒になんでなんでと抗議したのを覚えています。
「これ、ミサちゃんが描いた絵なんですけど……」
迎えに来た母に、先生が折り畳まれた画用紙を渡しました。先生の表情が優れないことを不思議そうに見ながら絵を受け取った母は、そこに描かれた物を見てピシリと固まってしまいます。
二つ結びの女の子は私です。お気に入りの花柄のスカートを履いた私の隣には、全身肌色の、細長い、人型のソレがいました。髪の毛は少しありますが、まばらにしか生えていません。身体と同じで顔も細長く、そこかしこに人間の歯が生えています。目や鼻、耳はありません。ただ歯だけが、みっしりと生えているのです。
「な、なんですかこれ! これを、ミサが?!」
「はい……今日のお絵描きの時間に、自分の家を描いてみようと言ったらこれを描いていて……」
「何か変な物でも見せたんじゃないでしょうね、不愉快だわ! 帰りましょうミサ、この絵はそちらで処分してください!」
私の手を引っ張って足早に帰る母の横顔が怖くて、以降ソレを絵に描くのをやめました。ソレについて口にすることも、やめたように思います。とにかく母の顔色を窺う子供でした。ソレよりもずっと母の方が怖かったんです。
ですが、そう心に決めても、ふとした瞬間にソレを目で追ってしまうのは止められませんでした。私の視線があらぬ方向に向かうのを恐れた母は、家にいる間ずっとサングラスをかけているように私に命じました。
母がなぜそんなにもソレを恐れるのか、私には分かりませんでした。
確かに見た目こそ人間離れしていますが、ソレは私に危害を加えたりはしません。私が危ない目にあった時、助けてくれるようなこともありませんが。
ただ隣に、見えるところに立っているだけで、顔をこちらに向けているだけで、他には何もしてこないのです。もしかしたら見え方がズレてしまっているだけで、本当は先祖の誰かだったりするのではないか。そんなことを考えたりもしましたが、結局答えは出ませんでした。
ただ、ソレは本当に私にしか見えないのだということは分かりました。
小学校高学年になった頃、こっくりさんが流行ったんです。数人のクラスメイトと共に紙を作り、十円玉を用意して、放課後こっくりさんをすることになりました。
こっくりさんをしている間、ソレは教壇の前に立っていました。紙を囲んで座る私たちを、観察しているような感じで。
「こっくりさん、こっくりさん、おいでください。もしおいでになられましたら、『はい』へお進みください」
十円玉がゆっくりと"はい"の文字の上に移動し、きゃあきゃあと顔を見合わせます。それから他愛のない質問をいくつか繰り返して満足した私たちは、教わった通りにこっくりさんを終わらせようとしました。
「こっくりさん、こっくりさん、おかえりください」
"はい"の文字に向かうはずの十円玉は、少し鳥居の上をゆらゆら動いてから凄まじい勢いで"い" "や" "だ" と繰り返しました。十円玉から指を離すまいと必死でついていきますが、友人が一人、耐えきれずに指を離してしまったんです。その途端、十円玉はピタリと動きを止め、代わりに友人がガクガクと震え始めました。
「キャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!」
裂けんばかりに口を開いて大声で笑う友人に、私たちは恐怖しました。こっくりさんに失敗した。きちんと帰ってもらえずに、彼女の中に入ってしまったと。
大声を聞いた先生が駆け込んできて、彼女は病院に運ばれました。残された私たちはきつく注意を受け、呼び出された親と共に下校しました。
母はとても不機嫌で、しかしこっくりさんについて何か言ってくることはありませんでした。母はオカルトめいた物から意図的に距離を取っていて、だから口にするのも嫌だったのだと思います。そういうものについて話をすると、結果としてソレについても考えなくてはならなくなると思っていたのではないでしょうか。
彼女の家に入ると、むんと獣の臭いがしました。生臭さと混じり合って吐き気を催すような臭いでしたが、別の友人は何も感じていないようでした。
キツネに憑かれた彼女は顔付きからまるで変わってしまっていて、裸足で顔を毛繕いしているような動きでこちらを見てきました。素人目に見ても、キツネもしくはその系統の動物に取り憑かれているなと思うくらいの有様で。
彼女の隣には坊主頭で体格のいい男性が、腕に長く珠の大きな数珠を巻き付けて正座をしていました。男性は私たちの方を見て、少し安心したように笑いかけてきました。
「あぁ、よかった。君たちには何も憑いていないね」
私の隣にはいつも通りにソレがいましたから、初めはインチキなのかと思いました。けれどそんなことを口にできるわけもなく、黙ったまま成り行きを見守ることにしました。
男性が蝋燭に火を灯し、何やらもごもごと呪文のようなものを唱えると、ギャンギャンと彼女が吠え始めました。彼女の両親が羽交い締めにしていなければ、男性の喉元に噛み付かんばかりの勢いで暴れます。大量の脂汗を流した男性が必死の形相で数珠を握りしめた右手で暴れる彼女の頬を叩くような仕草をすると、彼女は糸が切れたように意識を失い倒れ込みました。
次に目を覚ました時、もう彼女は元の彼女に戻っていました。男性の力は本物だったのです。だとすると、彼に見えなかったソレは霊的なものではないのかもしれない。そう思いました。
男性以外にも、何人か霊感があるという人に会ったことがありますが、その誰もがソレを視認できませんでしたし、ソレが私に対して何もしてこないのも、私が見ている幻覚の類なのだとしたら納得できました。
ですから、精神科に通ってみたりもしました。具体的に話すのは憚られたので、ソレの見た目についてはぼかして説明しましたが、幻覚を見るのだと相談して、薬を飲んだりしました。何をしても、ソレは消えませんでした。
まぁ、何することもありませんし、大学に入る頃にはもう完全に慣れてしまっていましたから、問題はなかったんです。友人が何も気付かずソレと手を繋いでいるような場所に立つのを見て、笑ってしまいそうになったこともあったくらいで。
夜ひとりで帰っている時とか、夜中に目が覚めてトイレに行く時とか、そういう時には反射的にビックリすることはありますよ。なかなかグロテスクな見た目をしていますし。それでも産まれてから二十年以上、本当にずっとそばにいたんです。
だから、油断していたんです。
ソレは霊的なものではなく、私にも他者にも危害を加えることなんかないと思い込んでいた。
そのせいで、私はあの日、間違えました。
絶対にしてはいけなかったのに、間違えてしまった。
あぁ、ごめんなさい、すみません、大丈夫。話せます。最後まで話させてください。
あの日、私がしてしまったことと、そのせいで引き起こされたこと、全て打ち明けないと私……みんなに顔向けできないので……。
許されたいとか、そういうことじゃないんですよ。それでも、誰も真実を知らないまま全てなかったことにされるなんて、きっと……嫌だと思います……。
はい。前置きが長くなってすみません。
私の過ちを、聞いてください。
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