砂となり、塵となり その1

『うぉああああ!?』


 事態を目撃した鬼族から悲鳴が上がり、動揺が走る。

 エモスは自分の胸に突き刺さったままの手首を不思議そうに見つめ、そのまま取り払おうとした。

 そこへレヴィンは咄嗟に静止して、次いでアイナに声を掛ける。


「待て、抜くな! ――アイナ、治癒してやってくれ!」


 アルケスの手が、その手首まで深く突き刺さっているのだ。

 それが丁度、栓となっているから出血しないだけで、無造作に抜いてしまえば、どうなるかなど火を見るより明らかだ。


「――今すぐ!」


 レヴィンの脇を抜け、アイナは傷を見ようと傍に寄る。

 エモスは明らかに気分を害した様子で、その手を振り払おうとした。


「いらぬわ、我らにはハイカプィ様のご加護がある! この程度の傷……!」


 一歩退がろうとしたのだが、足に力が入らず、エモスはたたらを踏んで、遂に尻もちを付いてしまった。

 その事実――加護の消失こそに、エモスは動揺を隠せない。


「な、何故……? ハイカプィ様の加護が、感じられない……!」


 アイナもまた傍に膝を付いて、胸元に手を当て理力を練る。


「自然治癒力を促進したのでは、この傷は塞がりません。深手の状態では、むしろ危険です。その手首が癒着して、一体化してしまう危険すらあります。今だけ加護が外れているのは、むしろ愛情ですよ」


「そ、そうか……、主神の愛ならば……、うむ。仕方なしか……」


「治癒に掛かります。今度は抵抗しないで下さいね」


 今度は言葉通りに抵抗こそしなかったが返事もなく、ただ悔しげな顔で首肯があった。

 アイナは左手で治癒術を行使しながら、アルケスの右手に触れる。

 そうして、徐々に抜き出そうとしたのだが、まるで貼り付いたように動かなかった。


「あれ……?」


「どうした、早くしろ。痛みが酷くなって来た……」


「分かってます、分かってます、けど……。何これ、抜けない……?」


 明らかにおかしい、とその時になって、アイナはようやく気付いた。

 貫手の形でエモスの腹を貫通しているが、その中で何かを掴んでいるかのように、梃子でも動かない。


「ぐ、ぅ……! もっと優しく出来んのか……っ!」


 多少、強引に動かしてもエモスのうめき声が酷くなるだけで、それでも一向に抜ける気配がなかった。

 そうして、唐突に気づく。

 今まで切断された腕などは、地面に溶けて消えてはいなかったか――。


「どうして、この手はいつまでも姿を保ってるんです?」


「何を言って……。いいから、これを早く取れ……!」


「取れないんです! それにおかしいんですよ。どうしてこの手は、溶けていかないんですか……!?」


 まるで、その声に呼応したかの様だった。

 アルケスの手が痙攣し、かと思えば無茶苦茶に暴れようとする。


「ぐぁぁあああ……!?」


 エモスも身体を捻って痛みに暴れる。

 それを押さえ付けるには、アイナは余りに非力だった。

 弾き飛ばされながらも、周囲に助けを求めた。


「誰か、この人を押さえて! 暴れない様に! それと、この手首を引き抜ける人も……!」


 そうは言っても、この戦場で手が余っている兵など居ない。

 誰もが目の前の敵で精一杯で、余力など何処にもなかった。

 レヴィン達も率先して助けてやりたい気持ちはあったが、やはり押し寄せる淵魔の数に陰りはなく、どうしても身動きできない。


 せめて淵魔が近づかないよう、精一杯、敵の圧力を押し返すしかなかった。

 だがそこへ、鬼族の間を駆け抜けて、幾人かの鬼兵がやって来る。


 戦場においての比率は、最初こそユーカード領兵の方が多かったが、今では完全に逆転され大差を付けられている。

 だから、そこから数名抽出するぐらいは出来たらしく、アイナは有り難くその手を借り、押さえ付けて貰った。


「何だ、この手……!? おい、なんか変な色してんぞ!?」


 見れば、確かにその手は黒ずみ、変色してしまっている。

 死人の手と言えない程に、ドス黒い悪意を煮詰めた様な、醜悪な色をしていた。

 そしてその手が動く様は、まるでエモスの内蔵を、食い破ろうとしているようにも見える。


「力付くで引き抜くしかないです! でも、でも……!」


「あぁ、何だ!? 引き抜きゃ良いんだろ!?」


 救援に来た鬼兵が、アイナの煮え切らない態度に憤る。

 エモスは今も苦しみのたうっていて、すぐにでも助けてやりたい一心から出た態度だった。


「これ、下手をすると……いいえ、絶対に内蔵を傷付けられます! だから、他にも治癒術の使い手を……」


「お前が使えるんじゃねぇのか!?」


「どの程度、内臓を傷付けられるか分からないんですよ! 内蔵の修復は高度なんです! そちらにも治癒の魔術とか……、刻印でも構いません、使い手が誰かいませんか!」


 目の前の鬼兵だけでなく、声が届く範囲の兵全てに尋ねる。

 しかし、返ってくる返事はなく、まして戦闘を中断して駆け付ける者はいなかった。


「エモス様は他の奴とは身体の出来が違う! そのまま抜いちまおう!」


「駄目ですよ! 骨折とか打撲とは違うんです! 大切な臓器が傷付けたらどうするんですか!?」


「――構わんっ、やれ……っ!」


 苦しげに顔を顰め、息も絶え絶えにエモスが言う。


「抜かずにいても、どうせ内蔵を食い荒らされる。それなら……、それならいっそ、一縷の望みに賭ける」


「で、でも……! あたしじゃ万が一の時、傷を癒せるかどうか……!」


「恨みはしない。戦場なんだ、死ぬ時は死ぬ。そういうものだろう。絶対、助けろとは言わん……っ!」


 アイナは躊躇い、そしてなお躊躇って、ようやく首を縦に振った。

 両手で治癒術を制御して、傍らの鬼兵に頷きを見せる。


 いつでも良い、という合図だ。

 それを受け取って、押さえ付けている鬼兵達からも、固唾を飲んだ視線が集中した。


「抜くぜぇ……! 気晴れや、大将!」


「おぉ……ッ! さっさとしろ……!」


 鬼平がアルケスの手首を握れば、それが遮二無二暴れ出す。

 内側に潜り込もうとする動きであり、そうはさせじと鬼兵も両手で引っ張り出そうとした。


「グァァアア……ッ!」


 エモスから激痛に耐える悲鳴が上がる。

 それを痛ましく思いながら、手が引き抜かれる瞬間を、アイナは必死に待った。

 そして、ブチブチ、という耳に残る嫌な音と共に、アルケスの手が身体から抜ける。


 抜き取った手は地面に叩き付けられ、押さえていた鬼平数人掛かりで蹴り、斬り付け、最期には粉微塵に砕かれた。

 その間に、エモスの腹に空いた傷を見て、アイナは絶句する。


 主要な内蔵は殆ど傷付けられ、無事なものなど一つもない。

 胃には穴が空き、中の胃液が漏れ出して内蔵を汚していた。


 無論、傷はそれだけではない。

 あらゆる所に爪の引っ掻き傷があり、エモスが未だ息しているのが不思議な程だ。


「な、治します……! 治しますけど、あたしだけではやっぱり無理です! 誰か……誰かいないんですか! 治癒術士は、どなたか……!」


 アイナが声を枯らして叫んでも、それに応える声はない。

 治癒光を傷口に当て、出血を抑え込んではいるが、現状アイナに出来る事はそれぐらいだ。


 綺麗に入った刃傷なら、傷はむしろ綺麗に塞がる。

 しかし、拷問器具で荒らされた様な傷ならば、もっと高度な治癒術が必要なのだ。


「誰か……、誰かいませんか! このままでは、エモスさんが……!」


 それ以上は言葉に出来なかった。

 アイナは只、一命を取り留めようと、必死に治癒術を行使する。


 しかし、それを長く続けようとも、内臓を綺麗に修復する事は出来ない。

 心の焦りと、このままでは死なせるという思いが、叫ぶ声を震わせた。


「もういい……」


 エモスから掠れた声が漏れた。


「油断した私が悪い……。雑魚しかいないと……っ、高を括った者の末路としては……。あぁ……、妥当な、末路だ……」


「でも……!」


「お前の、治癒術を……頼る仲間は……っ。まだ、いるんだろう……。無駄に、するな……」


 言葉を一つ、呼吸を一つ零す度に、生命力が削がれていくかの様だ。

 顔には死相が表れていて、それをエモスも我がことだから、如実に感じているのだ。

 アイナは遂に涙を流し、それでも治癒術の行使は止めない。


「きっと助けは来ますから……! 今も声を聞いて、こっちに誰かが走って来てるはずです!」


「気休めを言うな……。鬼族に……、治癒術を使う、軟弱者などいない。刻印にしても……、同じこと……」


「話さなくて良いです! そのままで、意識をしっかり持って! ――誰か、誰かいませんか! 治癒術を――!」


 アイナが顔を左右に激しく振って、誰か来ないか必死に探った。

 しかし、見える範囲に近付く兵の姿はなく、やはり手助けに応じる声もない。

 アイナの顔が絶望に歪んだ、その時だった。


「お退きなさい。あたくしの神使の傷ならば、あたくしが治癒する事こそ務めだわ」


 その声は頭上から響いて来た。

 柔らかな光に包まれた女神が、不愉快そうな顔をしてエモスを見下ろしている。


「ハイカプィ、様……」


「安心して良くってよ。権能に頼らずとも、治癒術は得意だから」


「は……、有り難く……」


「まずは腹の中を、綺麗に洗浄しなくてはね。これじゃあ、塞ぐものも塞げないわ」


 ハイカプィが微笑み掛け、そしてエモスもまた、ぎこちない笑みを返した時――。

 暗がりから、唐突に一つの影が飛び出した。


「降りてくると思ったぞ! 神使が死に掛けたなら!」


 淵魔の間を縫い、地を滑る様にして迫る影がある。

 それは、暗い形相に不気味な笑みを貼り付けた、あのアルケスに違いなかった。

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