謀の代償 その4

「――ロヴィーサァァァ!!」


 レヴィンが血を吐く様な絶叫と共に、後を追おうと駆け出す。

 しかし、二歩目を踏み出した所で、背後から伸びてきたヨエルの手によって、その動きは止められた。


「離せッ! 俺なら落ちても刻印がある! 無事で済む!!」


「あぁ、お前ならな! だが、ロヴィーサは無理だ! もう無理だ!」


「無理なもんか! まだ――!」


「この高さだ! 生きちゃいないッ!!」


 ヨエルの絶叫は、涙声で震えていた。

 レヴィンは唇を噛み締めて、それまで振り解こうとしていた動きも止めた。


 分かっていたことだ。

 落ちていった魔獣たちの、地面に当たる衝突音が聞こえて来ない。

 それは、音すら聞こえない距離まで落ちていったことを示している。


 そして、崖下に広がる光景は森になっていて、地面がどうなっているかも分からなかった。

 だが、一縷の希望はあるはずだ。

 助かる見込みは、未だ残されている。


 それがどれ程か細い糸だとしても、レヴィンはそれに縋るしかなかった。

 しかし、その微かな一本に、縋らせるわけにいかないのが、護衛たるヨエルの役目だ。


 その役目とは、レヴィンの命を護ることが第一で、その上にあって命の犠牲も許容される。

 そして、ロヴィーサもまたその役目を負う者なのだ。

 己を救うために、レヴィンが危険に晒される事態を決して望まない。


「この高さで生きているにしろ、だったら魔獣の中にも生きている奴はいる! 血の匂いに誘われて、別の魔獣だってやって来るだろう! 下は魔獣の巣窟だ! そう思っておくべきだ……!」


 だから、到底レヴィンを行かせられない。

 ヨエルは顔を歪ませて、必死に涙を流すまいと堪えながら、思い留まるよう説得していた。


 レヴィン達三人は、生まれてこの方、ずっと一緒に生きて来た。

 それぞれが、兄弟以上の関係で結ばれていると信じている。

 見捨てろ、と口にする気持ちが、どれ程の悲痛を含んでいるかなど、想像するまでもなかった。


 レヴィン以上に、ヨエルの気持ちが分かる者などいない。

 そして、ヨエルは護衛の任を全うしようと、私心を押し殺して進言しているのだ。


 そうとなれば、レヴィンも自分の心を殺さなければならない。

 それに、何しろ魔獣の全てが崖下へ落ちていくわけでもなかった。

 後続の魔獣ほど上手く止まって、レヴィン達の方向へ転換し、襲撃しようとしている。


 その上、レヴィン達の敵は魔獣だけではなかった。

 それよりも遥かに強大で、遥かに厄介な敵が控えている。

 逃げ切るつもりなら、足を止めている場合ではないのだった。


「行くぞ、逃げるんだ、若……! アイナも早く……!」


「ロヴィーサさん、そんな……」


 アイナもまた、崖下へと消えて行ったロヴィーサを見て、呆然としていた。

 現実を実感できていないせいもあり、だから涙は流していない。

 急かした所で動きそうもなく、今にも膝から崩れ落ちようとしていた。


「嘘……、そんなの……そんなの……っ!」


「悪いがな、泣き言は後にとっとけ……!」


 ヨエルはアイナを肩に担いで持ち上げると、そのまま魔獣を背にして走り出す。

 レヴィンもまた後を追いつつ、背後へ躊躇う仕草を何度も見せた。

 諦めろ、と頭では理解していても、簡単に捨て去ることも、割り切ることも簡単ではない。


「ガァァァッ!」


 そこへ魔獣の一体が飛び掛かってきて、崖方向の視界が完全に塞がれる。

 どういう場合であろうと、染み込んだ身体の動きは、素直に動いてくれるものらしい。

 レヴィンは一刀の元に斬り落とし、それを最後に背後を振り返るのは止めにした。


 今とにかく、魔獣の相手をしながら走る。

 左手に崖、右手に森を見ながら、レヴィンは胃に重りを入れた様な不快感を押し殺し、地面を蹴って走った。


 道は緩やかな斜面になっていて、前のめりになりながらも駆ける。

 上手く下まで辿り着ければ、そこから迂回して落下場所へ行けるかもしれなかった。

 レヴィンは崖方面へ注意を向けつつ、背後から追って来る魔獣にも対処する。


 防御系刻印の利点は、本来は隙にしかならない行動を、攻撃に転用できることだ。

 頭に攻撃を受けつつ、自らは大振りな一撃を与えられる。


 残り回数を徒に減らしてしまう行動なので、何度も多用できない行動だ。

 しかし、切羽詰まった状況では、実に理に適った戦術だった。


 平地ではやはり、魔獣の方が足は速い。

 追って来る数は大幅に減ったものの、全く安心できる材料にはならなかった。


「ヨエル! 森の中へ逃げ込めないか!」


「あぁ、そうだな、いっそ……!」


 遮蔽物があれば、それだけ走り難くなる。

 足場も安定しておらず、根に足を取られるかもしれない。

 それでも、遮蔽物が邪魔になるのは魔獣も同じだ。


 数が多いとなれば、むしろ分散するのに役立てられるかもしれず、刻印回数を擦り減らすよりマシに思えた。

 しかし――。


 森の中に、何者の姿も見えない。

 しかし、いる。

 木の陰に隠れ、巧みに姿を消し、それでも気配だけは十分に伝わっていた。


 背後にルミの姿は見えていない。

 数多の魔獣で隠れていたかとも思ったが、決してそうではなかった。

 既に森の中へと姿を隠し、逃げ道を封じていたのだと察した。


「――くそっ! 駄目だ! 森の中には入れない!」


「既に先回りされてたかッ!?」


 元より、身体能力もルミの方が上だった。

 現状、既に追い付かれていたとしても、全く不思議でない状況だ。

 それでも力付くで魔獣の間を縫って追うより、逃げ道を塞ぎ、勝手に疲労する方を選んだ、ということなのだろう。


 森の中に入って来たら、それこそ一網打尽にする自信あってのことだ。

 事前に見せていた雷の魔術も脅威だった。

 レヴィンならば防げる可能性はある。しかし、ヨエルやアイナには無理だ。


 そちらを狙われて、一度でも足を止めてしまったら、もう逃げ切れはしないだろう。

 後続には、そのルミよりも恐ろしい、全てを薙ぎ払うリンが控えている。

 ――いや。


「リンは何処だ!? 森に気配がない!」


「後ろにもだ……! どこに隠れた!?」


 それよりも、いつから居なかったか、と考えるべきかもしれない。

 圧倒的武威を誇るリンを、まったくの自由にしてしまっている事実は、恐怖でしかなかった。


 魔獣の背後で隠れているにしては、余りに大人しすぎる。

 後続からそれらを蹴散らして進んでいた彼女だから、同じ様に突き進んでいた、と思い込んでいたのが間違いだった。


「くそっ……! どうする、これ絶対……誘い込まれているぞ!」


「分かってるが……! 今はどうしようもない!」


 前門の虎、後門の狼……。

 つい先ほど言っていた、ルミの台詞が思い出される。

 一体、どこからこれを想定していたのか……。

 あるいはどこまでも、その台詞を意識してやっていたのだとしたら、最初から逃げ切ることなど不可能だったかもしれない。


 しかし――。

 だからと、簡単に諦めることはしない。

 レヴィンは最後の時になっても尚、簡単に諦める境遇に身を置いていなかった。


 時として、思いの力が現実を変える光景を、幾度となく見て来た。

 淵魔と戦い、培ってきた力は、絶望を前にしても戦う価値を教えてくれている。

 もう無理だ、と思ってからが本番なのだ。


「ゴアァァ!!」

「――チィッ!」


 レヴィンに襲い掛かってきた魔獣を、また一体、斬り払って崖へと落とした。

 森の中からは、もはや隠す気もない敵意が、まるで風のように襲ってくる。

 その強すぎる存在感で、身体を押される様な錯覚さえ覚えた。


 そちらに注意を向けてしまった――向けざるを得なかった、その時だった。

 正面がまたも森になっており、道は左に大きく曲がっているのが視界に入る。


 飛び込むか、逸れるか――。

 判断は一瞬、レヴィンは大きく口を開き、そうして声を張り上げた。


「――曲がれェェェ!」


 前を行くヨエルは体勢を低くして、地面を滑りながら身体の向きを変える。

 それで止まったのは一瞬のことだ。

 足のバネを使った瞬発力で、直角に近い角度で曲がっていった。


 レヴィンは木の幹を正面に軽く跳躍すると、その腹を蹴って無理やり曲がる。

 木の幹がしなり、その反動を利用してヨエルのすぐ背後へ着地し、更に疾走を続けた。


 すぐ背後まで迫っていた魔獣たちは、やはり曲がり切れずに、森の中へと突入して行く。

 レヴィンの判断は、あわよくば、を狙ってのものだった。

 森の中に潜伏し、並走していたルミをどうにか出来ないか。

 そうと考えての判断だったが、どうやら淡い希望だったらしい。


「ギャッ!」

「――ギェッ!?」


 魔獣たちの悲痛な叫び、何かを斬り付ける音、魔術の轟きが聞こえて来た。

 そして、その音から判断する限り、上手く回避、対応したと見る他ない。


「分かってたさ、そう簡単じゃないのは……!」


 舌打ちしたい気持ちを必死に押し殺し、レヴィンはそっと背後を振り返る。

 魔獣の多くは森へと突入しており、レヴィン達を追う数は多くない。

 残りは、たったの三匹といったところだった。


 ルミの滾らせていた敵意にこそ反応し、その多くは森への突入を決めたようだ。

 それでもやはり、彼女を仕留めるまでは無理だろう。

 しかし、魔獣を引き離せただけでも儲けものだった。


 緩やかな斜面と、続く道の先にも森はあったが、左側には広い道も通っている。

 見れば、道の先は何か大きな建物へ通ずる為に、整備されたものらしいと分かった。

 その建物とは神殿だった。

 ルミが言っていた、ロシュ大神殿に違いない。


「とはいえ、そっちはもう無理か――!」


 何しろ、ルミに目的を知られ、妨害されている真っ最中だ。

 上手く撒けたにしろ、あそこに姿を見せれば、みすみす捕まりに行くようなものだろう。

 だが実際は、既に捕まっていたのだと、この時レヴィンはようやく理解した。


「――グッ!?」


 道の先、森の中から数十の神官と兵が姿を現す。

 標高は下がったといえ崖には違いなく、右手の森にはルミが潜んでいる。

 正面は完全に封鎖されており、既に魔術の障壁すら張られていた。


「追い込まれていた、だけか……ッ!」


 その事実を理解して、レヴィンは歯噛みして息を吐き出す。

 ヨエルも当然それを理解していて、どうするか、という視線を向けてきていた。


 正面へ攻撃を仕掛けても、まず初撃は受け止められる。

 複数の攻撃で突破は可能かもしれないが、それより前にルミが横合いから攻撃を仕掛けてくるだろう。


 もはや、抵抗は無意味と考えるしかなかった。

 しかし、それでも――。


「諦めることだけはしない。――そうだろう?」


「そうともさ」


 ヨエルも不敵に笑って、右手一本で大剣を構える。

 アイナが肩に乗っていて、イマイチ迫力に欠けるが、言っている場合でもなかった。


 そこへ横合いの森から姿を見せたルミが、木々の間を縫って飛び出し、二人の行く手を遮れる距離で立ち塞がる。

 それが出来るという事は、実際はいつでも横合いから殴り掛かれた、という意味でもあった。


 手加減され、踊らされ、そしてずっと手の内の中だった。

 それが分かれば、流石にレヴィン達も足を止めざるを得ない。


 そのまま直進し、ぶつかりに行った所で無意味なのは、直感として理解していた。

 だからヨエルもレヴィンの合図で、地面に長い停止跡を残しながらも急停止した。


 そこへルミから、軽薄な口調が飛んでくる。


「まぁ、ここは退いておきなさいな。ユーカードの諦めの悪さは知ってるけどさ、今は大人しくしている方が身の為よ?」


「誰が、お前の言うことなんぞ……!」


「崖下に落ちたあの娘、まだ生きているかもしれなくてよ。あの下には河が通っているの。悪運が強いのなら、まだ生きてるかもね」


「ほ、本当か……!?」


 レヴィンは藁にも縋る思いで顔を向ける。

 ルミはそれに、しっかりと頷いた。


「でも、ここで戦闘続行するなら、一秒経つごとに死へ近付く。どうする? 戦う? ……いいわよ、それでも」


 ルミの余裕は気に食わない。

 しかし、ロヴィーサの助かる見込みが持てるなら、言っている場合ではなかった。


 ルミの言葉を信用できるのか――。

 その思いは、当然レヴィンにもある。

 しかし、彼女の言葉は事実の痛い所を突いていた。


 このまま押し通るのも簡単ではない。

 何より、アイナを庇いながら戦う時点で不利な戦いだ。

 後方には神官たちも控えている。


 これらを突破し、ロヴィーサの元へ駆け付けられるかは、分が悪すぎる賭けだ。

 それならば――。

 

 一秒でも早く、彼女を窮地から助けるには、ここで膝を屈する事も、呑み込まねばならなかった。

 レヴィンはヨエルへ、武器を下ろすように命じる。


「捕らえろ! 即座に拘束、勝手をさせるな!」


 その瞬間、正面の神官から号令が掛かり、レヴィン達は即座に引き倒される。

 ロヴィーサの無事を思えばこそ、今は腕に縄が巻かれるのを、悔しげに耐えるしかなかった。

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