鍵と穴 その2
「すまん! ここは任せる!」
「任されたッ!」
淵魔と人間の戦いは、基本的に人間が不利だ。
生命を喰われる前に倒せ、という教訓は、その払った犠牲の上に成り立っている。
領内でこれ程の淵魔はまず出現しないし、させないよう奮起しているが、倒すとなれば中隊規模の戦力が必要だ。
そもそもとして、防御については、それに特化した刻印を持つレヴィンの方が優れている。
攻撃を引き受けて、その間に皆を逃がすのなら、適役と言えた。
しかし、戦闘中の連携で盾にするのと、
何より、ヨエルやロヴィーサはそれを務める為に、こうして一緒にいるのだ。
だから不満や苦渋を飲み込んで、レヴィンは河へと馬を疾駆させる。
だが、その直後、ヨエルの口から驚愕する声が飛び出た。
「何――!? 馬鹿な!」
敢えて速度を落とし、喰らい付き易いよう調整していた。
だというのに、淵魔はヨエルを無視し、変わらず直進しようとする。
狙いはロヴィーサの馬――更に言うなら、そのロヴィーサに隠れたアイナを狙っていると、すぐに分かった。
「ふざけやがって! てめぇ、こっちだ!」
ヨエルが大剣を振り被り、淵魔の側部を斬り付ける。
そうして幾撃か食らわせると、流石に無視できなくなったらしい。
その矛先を変え、ヨエルへと顔を向ける。
ヨエルは大剣を背中に収め、挑発するように背を向けて別方向へ走り始めた。
見事、役目を果たすのを見届けると、レヴィンは顔を前に向ける。
桟橋へ近付くにつれ、嫌がる馬を無理に宥めて、河へ勢い良く飛び込こませた。
レヴィンに続いてロヴィーサが飛び込み、そうして身を切る思いをしながら河を渡る。
夜の水は冷たく、膝から下には千の針が刺すかのようだ。
馬の嘶きは闇の河に流れて、悲痛な叫びに聞こえて来る。
レヴィンは馬の首を叩いて励まし、宥め、それでようやく渡河に成功した。
ロヴィーサも続けて河を渡り切り、そのタイミングで後ろを振り返る。
ヨエルは淵魔を引き付け外へ逸れ、その役目を見事に果たしたところだった。
大きく円を描くように馬を走らせ、再び河の方へ馬首を巡らせると、一気に駆け出し、同じく水の中へ飛び込もうとする。
だが、馬にも疲労が溜まっていた。
淵魔が追い付こう、喰らってやろうという執念は凄まじく、今にも馬の尻を齧りそうな程だった。
「ヨエル、急げッ!」
レヴィンは肩より高く腕を振り上げ、大きく手を振って呼び掛ける。
闇夜の中でさえ、ヨエルの焦った顔が見える様だった。
既に淵魔はその距離を詰め、手を伸ばせば届く程になっている。
そうして実際、その背へ手が伸ばされ、枝の様に痩せこけた指が、ヨエルの大剣の腹を引っ掻いた。
ヨエルの表情に出ていた焦りが、更に強くなる。
「――ヨエル!」
「ヨエルさん!」
女性二人からも声が掛かり、そしてロヴィーサは懐から取り出した投擲用ナイフを、指の間に三本挟んで続けて投げた。
ナイフは全て、ヨエルを避けつつ命中したが、淵魔には全く堪えた様子がない。
それでも、ほんの僅かでも注意が逸れれば良いと、ロヴィーサは立て続けにナイフを投げ続けた。
うち一本が、淵魔の頭部、その口元に刺さる。
淵魔は痛みを感じていなかったに違いない。しかしその時、伸ばしていた手が僅かに怯んだ。
「――今だ、飛べッ!」
レヴィンの掛け声と同時に、ヨエルは手綱を巧みに操り、馬が桟橋の先端を蹴る。
大きく跳躍し、そのまま河へ飛び込んだ。
淵魔はその場で前のめりになって踏ん張り、桟橋の先ギリギリで脚を滑らせつつ止まる。
その顔に表情はない筈だが、悔しげな――そして口惜しげな雰囲気は伝わって来た。
「ギィィィィィ!!」
ガラスを爪で引っ掻く様な声は、その気持ちを何より語っているように思えた。
河を渡り切ると、ヨエルは乱れた呼吸を整えながら、馬の上から滑り落ちる。
「――ヨエル! 無事か!」
「……あぁ、肝を冷やしたし……実際、命を削った心境だが……、でも無事だ」
「怪我はないですか」
「ねぇよ。全くない。お前のナイフの方が怖かったくらいだ」
冗談を口にすれば、皆の顔にも笑みが浮かぶ。
只その中で、アイナだけ青い顔をしてヨエルを心配そうに見つめていた。
「なんだ、大丈夫だって。危うい橋を渡らにゃならんって場面はあるもんだ……。その時、率先して渡るのが俺の役目だ」
「――いいえ、ヨエル。あなただけでなく、私達、ですよね。いつも自分だけ、と思われるのは心外です」
「そいつは済まなかった。けどあの場合、アイナを預かっておきながら、勝手にその命まで賭けられんだろ。何より、奴らの狙いは……」
言いながら背後を見て、ヨエルの言葉が止まる。
桟橋の先で立ち往生していた淵魔は、その身を翻して再び走り出した。
道の先では、左右に分かれる道があり、その左側から連なる馬蹄音が聞こえて来る。
そして、闇夜を切って現れたのは、総計四体の淵魔だった。
馬の下半身に、人の上半身。
顔は無く、泥が何重にも重なり滴る様相は、まるでヴェールを覆っているようにも見える。
「ば、かな……ッ!」
「他にも、あれだけの……!?」
もしも前提が崩れているのなら、他にも淵魔がいなければおかしい。
そういう話もした。
そして事実、他にも淵魔は存在したのだ。
ヨエルを追っていた淵魔も加わり、合計五体となった淵魔は、一斉に右側の道へと駆けて行く。
最後尾に付いた淵魔は、こちらを一瞥して、やはり同様の方向へ駆けて行った。
「待て……もしかして、あっちの方には橋があるのか!?」
「だとしたら拙い! 追い付かれたら、もう無理だ!」
既に疲労困憊だったヨエルも、息を切らせつつ馬に上がる。
地図もなく、地理にも明るくなく、そのうえ闇の中を馬を走らせるとあって、誰の顔にも悲観したものが浮かんだ。
しかし、その悲観に沈み蹲ることこそ、辺境領の討滅士には最も縁遠いものだ。
命を失うかもしれない修羅場は、それこそ数え切れないほど潜っていた。
「――行くぞ。夜明けまで走り通しだ。休息も必要と分かるが、今だけは無理してもらう」
「分かってる。急ごう」
いま最も辛いのはヨエルだ。
だが、それをおくびにも出さず頷く。
レヴィンもそれに頷き返すと、馬を翻し、闇夜の先陣を切って走り出した。
※※※
全速力で駆けたい気持ちはあっても、馬は長時間、そうした走りは行えない。
だから、歩くと走るの中間程度を意識して走らせた。
背後を気にせずにはいられず、また側面からの急襲も考えなければならない。
緊張感はどこまでも続き、心休まる暇がなかった。
だが、陽が昇ると、幾らか気持ちも穏やかになる。
淵魔は日光を嫌う訳でないが、夜道を照らしてくれればその分歩きやすく、また周囲への警戒もやり易い。
そうして夜通し移動したのが功を奏したのか、背後から迫る影もなく、ようやくひと心地つけようと休憩を取ることになった。
手早く石を並べ、薪に火を付けて、馬にも十分労いつつ、蔵を外して自由にさせる。
青い草は幾らでも生えているので飼葉には困らず、水に関しても川辺を走っていたので同様だ。
誰も彼も疲れ果て、泥のように眠りたいと思っていても、空腹だけはどうにもならない。
ロヴィーサが率先して動いてくれるお陰で、食事の準備も整いつつある。
まず温かいお茶を渡され、レヴィンは一口飲むなりホッと息を吐いた。
「はぁ……、何とかなったか……」
「そうだな……。警戒を怠ることも出来ないが……」
「橋の位置が何処かも、私達は分からないですから……。どれほど遠回りして、こちら側に来たものやら……」
「どうあっても、アイナを逃さないって感じだったな……」
レヴィンが言って、また一口お茶を啜った。
言葉を向けられた当人は、身体を小さくさせて頭を下げる。
「申し訳ないです。どこまでも迷惑かけて……」
「いや、そういう意味で言ったんじゃない。元より狙われているのを知って、同行してるんだ」
「それに、そうした謝罪はもう受け取ってる。その上で納得して、俺達も護送してるんだ」
「あまり何度も言ってますと、それが癖になりますよ。卑屈になって歪んでいきます。若様は、責めたくて言ったんじゃありません」
ヨエルとロヴィーサから援護があって、それでアイナは感謝しながら頭を下げた。
「ありがとうございます……。でも、皆さんはどうして、そこまでしてくれるんですか? ……先生は大丈夫って言ってましたし、実際こうしてくれてますけど……。でも、普通は投げ出すと思います」
「……だって、かわいそうだろ?」
レヴィンが事も無げに言って、また一つお茶を口に含んだ。
「それだけ? ……それだけの理由で?」
「淵魔が狙うから……喰われた結果が予測できないし、多分悪いことになるから。……そうした理由はあるさ。見殺しに出来ないって決めた以上、面倒見てやりたいって気持ちもある」
「……つまり、同情ですか?」
「同情で何が悪いね?」
ヨエルが愉快そうに笑って、アイナを見つめた。
「俺達ユーカードの、そしてそこに連なる者の家訓みたいなもんだ。弱者には手を、富める者は責を。同情だって、見てるだけならともかく、そこに手を伸ばせば立派な善意だ。俺達はそうやって生きて来た」
「富める者の責、ですか……」
「持てる力だって財産さ。その富を俺達は他者より多く持ってる。弱者を掬い上げられる程度にはな。つまりそれが、他者より多くの責を負うってことだ。だから、手を差し伸べるのは責務みたいなものさ」
アイナはヨエルの言い分に、随分感動したらしい。
涙混じりに頷いて、レヴィン達を見回した。
感謝する言葉を述べ、感動した眼差しそのままに、両手で包んだカップを見つめる。
それから、まるで礼をする様に何度も頷いた。
今の言葉を噛み締めているようだ。
そうして顔を上げた時、そこには一つの決意した表情が浮かんでいた。
「これは……、隠せって言われていたんですけど……。でも、信用できる者には打ち明けろとも言われてたので、どうか聞いて下さい」
「何だろう」
レヴィンが代表して尋ねると、アイナはカップを強く握り締めながら言う。
「淵魔があたしを狙う理由です。……真実かは分かりません。でも、今までそういう前提でいましたし、納得できる理由でもあるんです」
「アイナが異世界人だから狙う。それが前提だろう?」
「それは一つの側面で、本当のところは別にあります……あると思います」
「……つまり?」
レヴィンが首を傾げて催促する。
アイナは唇を舌で湿らせ、一拍置いてから口を開いた。
「あたし、神器を持ってるんです。多分、淵魔が狙うのは、それが理由だと思います」
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