第31話 宴の前に

 ヴェーラとの商談の後、シルヴェリオは約束通り、フレイヤを庭園に案内した。

 商談でいささか疲れた様子のフレイヤだったが、庭園の中に入ると途端に目を輝かせてバラに近寄る。


 慣れ親しんだ花ではあるが、コルティノーヴィス伯爵家が雇う一流の庭師が育てたバラは別段に美しく、フレイヤの心を奪った。

 

 フレイヤはアーチに這うようにして咲いているバラの一輪にそっと顔を近づけると、くんくんと花を動かして香りを嗅いだ。芳しいバラの香りに、うっとりと目を細めてほうっと溜息を零す。

 

「ここのバラたちはスパイシーな香りが強いですね」


 その様子を見ていたシルヴェリオも近くの花に顔を寄せてみる。

 

 神妙な顔つきで香りを嗅いでみるものの、その直後に微かに首を傾げた。どうやら香りがどう違うのか、わからなかったらしい。そもそも今までは意識してこの花の香りを嗅いだことがないため、比べようがないのだ。

 

「……ローデンのバラとは匂いが違うのか?」

「はい、咲く場所の土や気候によって匂いが変わるんです」

「なるほど……。次に領地へ向かう時には嗅いでみよう」

「ぜひそうしてみてください! どちらのバラの香りも素敵ですから」

「どちらの香りも素敵……か。どちらかが優れているとは言わないのだな」

 

 片や産地で咲くバラ、片や王都で咲くバラ――。

 異なる環境で育ち、異なる特徴を持つのであれば、人間は自ずと優劣を決めようとする。それはたとえ、対象が人間であっても同じことだ。

 

 そして植物が産地で優劣を決められるように、人間も血筋で優劣を決められる。

 幼いころからヴェーラと比較されてきたシルヴェリオは何度も、周りの人間からそのような品定めをされてきたのだ。

 

「ええ、どちらがいい香りなのかを感じるのは人それぞれですから。それに、どちらかが優れているなんて言ってしまったら、懸命に咲いた花たちに失礼だと思うんです。批判するのは一瞬ですけど、花たちは長い時間をかけて香りを作り出すのですから」

「……!」


 フレイヤが何気なく返した言葉に、シルヴェリオは瞠目して彼女を見つめた。調香師のフレイヤなら当然、香りの優劣をつけるものだと思っていたから彼女の意見が意外で驚いたのだ。

 

「……そうだな」

 

 シルヴェリオは噛み締めるように相槌を打つと、バラの香りを楽しむフレイヤに眩しいものを見るような眼差しを向けた。

 

 ――どちらかが優れているなんて言ってしまったら、懸命に咲いた花たちに失礼だと思うんです。批判するのは一瞬ですけど、花たちは長い時間をかけて香りを作り出すのですから。


 その言葉に、シルヴェリオは心の中に温かなものが広がっていくのを感じた。フレイヤはバラについて言及していたものの、血筋に負い目があったシルヴェリオの心にじんわりと沁み渡ったのだった。


「フレイさん、ネストレ殿下を目覚めさせることができたら――俺に香水を作ってくれないだろうか?」

「もちろんです! とっておきの香水を作りますね!」

 

 両手で拳を作って意気込むフレイヤに、シルヴェリオの表情が綻ぶ。そんな二人のやり取りを、コルティノーヴィス伯爵家で働く使用人たちが生垣に隠れて見守っては、にまにまと笑みを浮かべているのだった。

 

     ***


 庭園を散策し終えたシルヴェリオはフレイヤと一緒にコルティノーヴィス香水工房に戻った。

 すると馬車が停まるや否や、パルミロとレンゾが工房から飛び出してきた。二人とも、フレイヤとシルヴェリオの帰りを今か今かと待っていたのだ。


「シル! 商談は上手く行ったか?!」


 手に汗を握るパルミロに、シルヴェリオは「ああ」とだけ答える。

 ただそれだけの返事だったのにもかかわらず、パルミロは拳を空に突きあげて盛大に喜んだ。


「パルミロさんのはしゃぎっぷりに比べて、工房長は落ち着いていますね」


 二人の温度差を見たレンゾが苦笑しつつ、フレイヤに小さな声で囁いた。


「ええ、シルヴェリオ様は表情には出していないですけど……それでも、喜んでいるみたいです」

 

 それはちょっとした声の調子や、彼が纏う空気といった、なかなか説明し難いものではあったが、フレイヤは確かにシルヴェリオの喜びを感じ取っていた。


「義姉上には条件付きだが、優先的に材料を売ってもらえることになった。香水の独占販売の話もつけてきたところだ」

「よかった~! じゃあ、無事に開業できるな!」

 

 パルミロはシルヴェリオから直接彼の姉との関係を聞いていただけに、今回の商談の行く末を案じていたのだ。

 腹違いの弟に無関心な姉だと聞いていただけに、取引が難航するのではないかと危惧していた。

 

「本当に、よかった。これでようやくフレイちゃんが調香師に戻れるな。――よし、今晩は宴だ! 俺がたくさん美味いもんを作ってやる! 全部俺の奢りだ!」

「……悪い。俺は行けないから俺抜きでやってくれ」

「なんだよ、釣れないなぁ。仕事でも残ってるのか?」

「いや……先約があるんだ。今晩は義姉上と夕食をとることになっている」

「ええっ?! お前が家族と食事とは珍しいな」


 パルミロが知る限り、シルヴェリオが家族と食事を共にするのは年に一度あるかないかだ。

 先輩として一緒に仕事をしていた頃は、シルヴェリオはいつも寮にいて全く家族に会っていなかったように思える。

 

 そんなこともあり、パルミロは今回の事でシルヴェリオに何かあったのではないかと気がかりになった。

 

「いったいどうしたんだ?」

「義母上の話をしたいと言われたんだ。ちょうど、故郷のバラの話をしたから懐かしくなったようだ」

「バラの花……? あの名産の?」

「ああ、そのバラのことだ。……俺も、姉上と向き合いたいと思っていたところだからぜひ話したいと思ってな」

「……そうか、お義姉さんと話すんだな……」


 シルヴェリオが義姉と話そうとするのは初めてだ。パルミロは驚きに目を見開いたが、シルヴェリオの変化が嬉しくなり、ふっと笑みを零した。

 彼の目に映る後輩は、いつもの澄ました表情が剥がれて照れくさそうに目を伏せている。そんな彼を見るのは初めてだ。

 

「いい心境の変化だな。今のお前、いい顔しているよ」

「そうなのか?」


 シルヴェリオは右手で頬に触れ、ぺたぺたと触る。

 

「……フレイさんの言葉が変えてくれたんだろうな」

「フレイちゃんがきっかけなのか。たしかにお前、フレイちゃんと出会ってから雰囲気が変わったな」

「……そうだな」


 シルヴェリオの深い青色の目が、自然とフレイヤに向けられる。

 フレイヤはレンゾと工房内の配置について話しており、シルヴェリオの視線には気づいていない。そんな彼女を見つめるシルヴェリオはいつになく表情が柔らかいように見えた。

 

 パルミロは内心ニヤつきながら、シルヴェリオの肩に手を置く。

 

「それじゃあ、遠慮せずに行ってこい。宴は明日にするからよ、その時にどうだったか聞かせてくれ」

「ああ、ありがとう」


 シルヴェリオはフレイヤとレンゾに話しかけると、再びコルティノーヴィス伯爵家の馬車に乗り込む。

 そうして再び、王都にある屋敷タウン・ハウスに戻るのだった。

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