第29話 条件

 チェリーケーキを堪能していたフレイヤは、ふとシルヴェリオとヴェーラの視線に気づいた。

 

(わ、私ったら……貴族の前でケーキに夢中になっているなんて……!)

 

 ごくんと口の中に入れていたケーキを飲み込むと、そっとフォークを皿の上に置く。

 

 自分は商談に来たというのに、すっかりチェリーケーキに気を取られてしまっているではないか。

 大好きな甘い香りと未知のケーキに邂逅できた喜びで頭の中からスポンと飛んでしまったなんて恥ずかしい。

 

 己の迂闊さに心の中で頭を抱えつつ、咳ばらいをして誤魔化してみるがまだシルヴェリオの視線を感じる。

 

「あの、そろそろ本題に入りませんか?」

「……ああ、そうだな」


 シルヴェリオは片手で口元を覆うと、ついと視線をフレイヤから逸らす。

 そうして口元から手を離すころには通常運転のスンとした表情になっていた。

 

「義姉上、もう耳にされているかもしれませんが――俺たちは香水をつくるために香料の材料を売ってくれる仕入れ先を探しています」

「ああ、話は聞いているよ。セニーゼ家が手を回して邪魔をしているようだね。……成り上がりの商家が、ずいぶんと無礼な真似をしてくれる」


 ヴェーラは白金色の睫毛に縁どられた赤い目をすっと眇めた。

 その眼差しひとつで部屋の中の空気が張りつめ、フレイヤは思わず背筋を伸ばす。

 

 依然として口元に笑みを湛えているというのに、ヴェーラが纏う空気は身震いしたくなるほど威圧が込められている。

 

 ――社交界では優雅に相手を制圧せよ。


 礼儀作法の本に書かれていた一説を体現したような振舞いに感服しつつ、それをやってのける彼女を恐ろしいとも思えた。

 

(コルティノーヴィス伯爵はシルヴェリオ様と違ってにこやかだけど……シルヴェリオ様より断然怖いかも……)


 ぶるりと震えそうになるのを、拳を握って耐えた。

 

「セニーゼ家のことはさておき、私の持つ商団から材料を仕入れたいということだね?」

「ええ、必要な材料は後日フレイさんから聞いて伝えます。それとは別に――ロードンのバラを使った香水の製造と販売の許可をいただきたい」

「……うちのバラを?」

 

 頬杖をついていたヴェーラの指がぴくりと動く。顔を見ると、先ほどまで浮かべていた微笑みがすとんと抜け落ちているではないか。

 

 シルヴェリオとヴェーラは探るようにお互いを見据える。

 二人の間にぎこちない空気が流れた。

 

「ロードンのバラを使った商品は義姉上が製造工房や売り先を厳選していると聞いています。その製造工房の中にうちをいれていただきたいのです」

「なるほど……その香水を製造したいと思った理由を教えてくれないか?」

「先ほどフレイさんが、あのバラの香りが心安らぐものだと教えてくれたことがきっかけです。あの花の香りが王国中に愛されてほしいと思いました。……かつて義母上が好んでいた香りですから」

「……そうか、ルアルディ殿がきっかけか……」


 ヴェーラはそっと目を閉じる。思案に耽るように、少しの間の沈黙があった。

 ややあって再び瞼を開けた時には、また笑みを浮かべている。


「シルヴェリオの望みはわかった――それでは取引の条件を決めようか。本音を言えば可愛い義弟の頼みを聞いてあげたいところだが……あいにく私は慈善活動で商団を運営しているわけではないのでね。労力に見合った対価をいただこう」


 ヴェーラは頬杖を止めると、ゆったりと椅子の背に体を預けた。

 先ほどまでの取り繕った笑みを崩し、獲物を得た猛獣の如く満足そうに微笑む。

 

「まずは香水の販売についてだね。先ほど話していたロードンのバラの香水をうちの商団に独占販売させなさい。希少価値のある商品は惜しみなく買ってくれる客が一定数いるからね」

「ヴェーラ様、義弟相手に巻き上げるなんてえげつない……」


 先ほどまで黙ってヴェーラの後ろで控えていたリベラトーレが零した。

 フレイヤは思わず頷きそうになったものの、意識を背筋に集中させてやり過ごす。


 家族相手にも容赦なく商売をふっかけるとは、貴族の世界はやはり怖い。


「取引をするからには、定期的に視察に行かせてもらおう。そうだな……月に一度は見せてもらおうか」

「つ、月に一度……ですか」


 フレイヤは思わず聞き返してしまった。

 視察自体はカルディナーレ香水工房にいた頃にも量産した香水を卸していた取引先が来ることがあったので抵抗はないが、いかんせん頻度が異常だ。


(どの取引先も半年に一度くらいだったのに……月に一度なんて多すぎる)


 唖然とするフレイヤに、ヴェーラは笑みを深める。


「我が商団が扱う商品の品質をこの目で見ておきたいからな。もちろん、その時は工房長としてシルヴェリオも同席してくれ」

「わかりました。事前に日にちを言っていただければ魔導士団を休んで案内します」

「よろしい。それでは最後に――シルヴェリオはリベラトーレと一緒に私の執務室へ行って紙とペンを持って来てくれ」

「……は?」


 予想だにしない条件を提示され、今度はシルヴェリオの表情が崩れる。

 目と口をぱかりと見開き、茫然としているのだ。

 

 それは秘書か使用人の仕事だろうとでも言いたげだったが、ヴェーラが「よろしく頼んだよ」と付け加えると渋々と立ち上がった。


「フレイさん……すぐに戻る」

「わ、私も一緒に行きます。上司を差し置いて座っているわけにはいきませんので――」

「いや、ルアルディ殿には私の話し相手を務めてもらうよ」

「は、はい……?」

 

 ヴェーラに名指しをされてしまい、フレイヤは錆びついたブリキのおもちゃのごとくぎこちなく動いて振り返る。

 美貌の伯爵の有無を言わさない雰囲気に圧倒され、冷や汗がたらりと流れる。

 

 シルヴェリオは何度かチラチラと振り返ってフレイヤを気遣う素振りを見せたものの、リベラトーレに促されて部屋を出た。

 

 こうして広い部屋に、フレイヤとヴェーラだけが残った。

 

「ルアルディ殿、ようやく二人きりになれたね?」

「あ、は……はい」


 ぎこちなく指先を捏ねるフレイヤから、ヴェーラは視線を逸らさない。

 

「そんなに固くならないでくれ。ルアルディ殿とはぜひ個別で取引をしたいと思っていたんだ」


 硬くならないなんて無理な話だ。

 心の中で叫び声を上げつつ、フレイヤは引き攣りそうな頬で笑顔を取り繕った。

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