第27話 特別なバラの香り

 フレイヤたちを乗せた馬車がコルティノーヴィス伯爵家の屋敷タウン・ハウスに辿り着いた。

 王都の貴族区画の中でも一等地にあるその屋敷は広い庭園を持っており、一面に深みのある深紅のバラが咲き誇っている。

  

 フレイヤは窓に顔を寄せ、榛色の目にその宝石のような花々を映した。

 

「このバラたち……コルティノーヴィス伯爵領に咲いているものと同じだ……!」


 庭園に咲いているのはどれも幾重もある花弁が貴婦人のドレスのようで優雅な四季咲きのオールドローズ種。

 ムスクのように甘く濃厚で、しかしスパイシーで清涼感も持ち合わせた複雑な香り。

 根強い愛好家からは没薬ミルラのような奥ゆかしくも神聖な香りだと謳われており、実際にコルティノーヴィス伯爵領のバラは女神への感謝を捧げる祭典に献上されている神聖な花だ。

 

 故郷のロードンでは街の至る場所で目にする花だが、王都ではお目にかかれない。コルティノーヴィス伯爵領の気候と土壌でしか命を繋げないこの花は、他の場所に植えても枯れてしまうからだ。

 

「コルティノーヴィス伯爵領でしか咲かない花と言われているのに、どうしてここでは咲いているんですか?」


 隣にいるシルヴェリオに聞くと、彼は組んでいた脚をゆったりと組み替えながら視線を外に向けた。


「魔法でこの庭園の気候と土壌を領地のものに書き換えたんだ」

「気候と土壌を書き換える……魔法でそういうこともできるんですね」

 

 この世界ではほとんどの人が魔法を使えるが、その大半が生活魔法――家事などの日常に関するものをする時に使うことが多い。

 例えば水魔法を使って洗濯をしたり、火魔法を使って暖炉に火をつけるといったことに用いられるのだ。


 その他は各々の職業によって魔法の使い道が異なる。


 魔導士団の魔導士たちは魔物討伐や戦争で攻撃に、修道院にいる修道士や修道女は治癒に、そして料理人たちは料理や食材の保存のために魔法を使う。

 中でも魔導士は任務の傍ら新しい魔法の研究を行っており、彼らが編み出した魔法がエイレーネ王国の生活を支えている。

 それゆえこの国では魔導士が一目置かれており、騎士よりも人気が高い。

 

 感心するフレイヤの視界に、リベラトーレがずいと入ってきて二人の会話に割り込む。

 

「すごいでしょ? シルヴェリオ様が八歳の頃に編み出した魔法なんだよ~」

「ええっ?! 八歳で新しい魔法を編み出したんですか?!」


 大人でさえそう簡単に新しい魔法を編み出すことはできない。

 フレイヤは改めてシルヴェリオを尊敬するのだった。

 

「そう、先代の奥様がこの花を好まれていたから王都でも見られるようになさったんです。ね、シルヴェリオ様?」

「……ああ」


 シルヴェリオいつものごとく淡々と返した。

 

 深い青色の目に映るのは気高く美しいバラの花。

 しかし心に映るのは守れなかった義母。


 義母はシルヴェリオが編み出した魔法を心から喜び、そして褒めちぎってくれた。

 しかしその後、シルヴェリオは彼女が物陰に隠れて涙を拭っている様子を見てしまった。

 

 義母の視線の先に居たのは父親と産みの母親。

 彼らはシルヴェリオが咲かせたバラの花を寄り添い合って眺めていたのだ。


 シルヴェリオは頭を殴られたような衝撃を覚えた。

 

 ――あの二人のためにこの魔法を作ったのではないのに。

 結果として義母に涙を流させてしまったことを心底悔やんだのだった。

 

 その日以来、この庭園とバラの花はシルヴェリオにとって苦い思い出の場所となり、彼は近寄ることさえしなくなった。

 少しでも近いづてあの血のように赤い色を見ると憂鬱になる。

 

 そして時折、あの花の香りを嗅ぐと、喉元を絞められているような感覚を覚えるのだった。

 

     *** 


 馬車から降りたフレイヤたちを、コルティノーヴィス伯爵家の使用人たちが出迎えてくれた。

 これまでに貴族家に招かれたことがないフレイヤは、大勢の使用人たちが並ぶその様子に圧倒されるのだった。

 彼らを率いてきた執事頭は何度か菓子を届けにきてくれたこともあり顔見知りだ。

 

「おかえりなさいませ、シルヴェリオ様。そしてルアルディ様、ようこそいらっしゃいました」


 執事頭はフレイヤに満面の笑みを浮かべて何やらとても嬉しそうだ。

 周りにいる使用人たちもほっこりとした空気を醸し出し始める。シルヴェリオが屋敷に来ては口にしている「フレイさん」に実際に会うことができて喜んでいるのだった。


 そんな彼らの事情を知らないフレイヤは、熱烈な歓迎ムードに目を瞬かせるものの素直に喜んだ。

 

「当主様が客間でお待ちですが、いかがなさいますか?」

「客間か……おかしいな。リベラトーレからは休息をとっていると聞いていたが、客間で待っているとはいったいどういうことだ?」


 シルヴェリオの氷のような眼差しがリベラトーレを射抜く。

 突然の冷気に中てられたリベラトーレは、苦し紛れに口笛を吹いて誤魔化すのだった。

 

「……すぐに向かおう。フレイさんも一緒に行くから茶を用意してくれ――それとチェリーケーキも頼む。俺の分はいらない」

「かしこまりました。フレイさんのお皿には氷菓と生クリームも添えるよう厨房に伝えておきます」


 この執事頭はフレイヤが無類の甘党だと認識しているらしい。

 

 フレイヤは笑顔を浮かべるものの、内心は穴があったら入りたくて仕方がなかった。

 心遣いは嬉しいが大勢の使用人の前でこのやり取りをされると些か気恥ずかしいのだ。


「それと、フレイさんに持ち帰り用の菓子を用意してくれ」

「承知しました。直ちに用意いたします」

 

 そうして執事頭がフレイヤへの菓子の手配を最優先にしたため、当主のヴェーラが待つ客間まではリベラトーレが案内することとなった。

 

 屋敷タウン・ハウスの中へと向かう途中、フレイヤはくんくんと鼻を動かす。

 庭園から流れ込んでくるそよ風がコルティノーヴィス原産の花の香りを運んできたのだ。


 足を止めたフレイヤに、シルヴェリオが話しかける。


「急に立ち止まって、どうした?」

「王都でロードンの街の香りがするのが不思議で、つい匂いを嗅いでしまいました」

「……懐かしいか?」

「そうですね。育った場所の香りですから、嗅ぐとホッとします。故郷の香りは私を見守ってくれていた香りでもありますから、お守りのようなものなんです」


 フレイヤはふにゃりと笑うと、ゆっくりと深呼吸する。


「貴族のお屋敷にお邪魔するので緊張していたんですけど、ロードンにある花の香りを嗅ぐと心が落ち着きました。シルヴェリオ様、ありがとうございます!」


 お礼を言われたシルヴェリオ様は虚を突かれたような表情になり、ぱちぱちと目を瞬かせる。


「俺は何もしていないのだが?」

「バラの花たちがこの庭で咲けるように魔法をかけてくださったじゃないですか。おかげで緊張が解れました」

「そうか……」


 シルヴェリオは振り返り、庭園を見つめる。

 魔法をかけて以来一度も足を踏み入れていない庭園に。


「……もしも気になるのなら、後でここの庭園を案内しよう」

「いいのですか?!」

「ああ、問題ない」

「ありがとうございます! 楽しみです!」

 

 いつもは落ち着いた声のフレイヤだが、今は弾んだ声音になっている。その声が彼女の喜びをシルヴェリオに教えてくれ……彼の心にじんわりと温めた。


「お守りのような香り……か。あの魔法を編み出して、よかったのだな……」


 シルヴェリオは小さく呟くと、深く息を吸い込む。

 甘く濃厚で、しかしスッとした清涼感のあるバラの香りが胸を満たす。


 いつもは胸苦しさを覚えるはずなのに、なぜか今はその感覚がない。

 シルヴェリオはそっと片手を自身の胸に当てた。

 

「フレイさん……ありがとう」

「えっ?」


 きょとんと首を傾げるフレイヤに、シルヴェリオは口元を綻ばせる。


「この香りが心安らぐものだと教えてくれて、ありがとう」


 シルヴェリオはもう一度、庭園を見遣った。

 これまでは視界に入れようともしなかった庭園を改めて見ると、深紅のバラと深い緑色の葉の対比が美しい。

 血のような赤色と思っていた花弁は陽の光に当たると紅玉ルビーのような色に見える。


 ――世界が変わったような気がした。


 シルヴェリオはもう一度深呼吸をすると、フレイヤに向き直る。


「さあ、商談へ行こう」

「はい」


 歩み始めた二人を、コルティノーヴィス伯爵家の使用人たちが温かな眼差しで見守っていた。

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