第17話 切り札のレモングラス
御者が震えながら指差した先には車体がひしゃげた馬車があり――その向こうに、一頭の
街と街を繋ぐ長閑な草原地帯にはいないはずの凶暴な魔獣の出現に、馬車の中の空気が張りつめる。
シルヴェリオは手に持っていた菓子の入っていた籠をフレイヤに渡して立ち上がると、馬車の外に出た。
ゆったりとした足取りで二人の周りを歩いており、食らいつく隙を狙っているようだ。
(なぜ
頭と体はライオン、背中にヤギの頭部があり、尻尾は蛇のようになっている。
口から炎を吐き出すため危険な魔獣だが、生息地が人里から離れているため、滅多に人を害することはない。
(あの馬車に乗っていた者たちが
一人は老人でどことなく貫禄があり、もう一人はその老人の護衛らしい屈強な体躯の男だ。老人よりも若そうだが、それでも壮年くらいに見える。どちらもあの大型の魔獣を打ち負かせそうにはない。
お忍びの貴族か、もしくは裕福な平民なのだろう。いずれにせよ、まずは二人を助けなければならない。
しかし状況は悪くなる一方で、彼らの近くに魔犬たちが身を潜めているのが見えた。
「
「えっ、シルヴェリオ様はどうするんですか?」
「
「お、お一人で?」
「多少は手がかかるが、そうするしかない。今は俺くらいしか戦力がいないからな」
フレイヤも御者も戦闘の経験はない。一方で自分は魔導士団でいくつもの魔物討伐に参加してきたから戦闘に慣れている。
慣れないことをさせて二人を危険に晒すよりも、自分一人で戦った方が効率がいい。
「で、でも……一人であんなにも大きな魔獣を相手にするなんて……」
「それ以外に方法はないじゃないか」
「……っ」
誰の目に見ても明らかな状況であるのに、フレイヤは納得いかないような表情を浮かべている。
しかし事態は一刻を争うのだから彼女に構ってはいられない。
シルヴェリオは馬車に手をかざして防御魔法の呪文を唱えると、フレイヤの視線に背を向ける。そうして、男性たちと
「グオオオッ!」
攻撃の邪魔をされた
「そうだ、お前の敵はここにいる。さっさとその人間から離れろ」
「グアアアッ!」
まるで言葉が通じたかのように、
「
「か、かたじけない!」
壮年の男性はそう言うと、老人に肩を貸して歩き始める。どうやら老人は足が悪いようで、壮年の男性の助けなしには思うように歩けないようだ。壮年の男は怪我を負っているのか、こちらもやや歩き方がぎこちない。
そんな二人が防御の壁の間から出てきたものだから、近くに控えていた魔犬たちが舌なめずりして取り囲み始めた。
(このままでは、二人とも魔犬の餌食になってしまう――)
とはいえ
辺り一帯を凍らせる魔法を使えば魔獣たちを倒せるが、そうすれば二人を巻き込むだろう。
(いったい、どうすればいい?)
香りに驚いたのか、
「なんだ、この香りは?」
風上に顔を向けたシルヴェリオは、そこにいるはずのない人物の姿に瞠目した。
彼の視線の先には、魔法で強大な水の塊を持ち上げている御者と、その隣で水の塊に魔法をかけて震わせているフレイヤの姿があったのだ。
フレイヤは風魔法を使っているようで、水の塊を震わせて細かな霧を生み出すと、それをシルヴェリオがいる方角へと流し込んでいる。
そうしてできた霧から、あの柑橘系の香りがした。
「おじさん、見てください! 魔犬たちが山の方へ逃げていきますよ!」
「こりゃあ、たまげた。お嬢ちゃんが言っていた通りだな!」
「ふふっ、魔獣たちはレモングラスの香りが苦手なので、魔獣除けにレモングラスを植える農家もあるんです!」
二人とも目を輝かせており、先ほどまで魔物の姿を見て震えていたのが嘘だったかのようなはしゃぎようだ。
「……どうなっているんだ?」
予想外の事態に茫然とするシルヴェリオだが、逃げようとする
シルヴェリオがフレイヤたちのもとに駆け寄ると、二人は興奮が冷めやらぬ状態のまま迎えてくれる。
「あ、シルヴェリオ様、お疲れ様です!」
「シルヴェリオ様、無事で何よりです!」
うきうきとしている二人とは打って変わって、シルヴェリオはいつもの無表情のままフレイヤに問いかける。
「フレイさん、これはどういうことなんだ?」
「レモングラスの香りを水魔法と風魔法で拡散させました! 魔獣除けのために実家の店でレモングラスのスプレーを買っているお客様がいるのを思い出したんです! ちょうどレモングラスの精油を持って来ていたので、水魔法で作った水の塊の中に全部入れて――」
「そうではない。俺は馬車の中にいるように言っただろう。魔獣に襲われたらどうするつもりだったんだ?」
「も、申し訳ございません……」
しゅんと項垂れるフレイヤを庇うように、御者が二人の間に割って入った。
「お嬢ちゃんはシルヴェリオ様を助けたい一心で動いたんです。どうかそのようなことを仰らないでください!」
「……君たちまでも危険な目に遭わせたくなかった」
「シルヴェリオ様……」
思わず零れ落ちたシルヴェリオの言葉に、御者がはっとした表情になる。気まずい空気が流れ始めたその時――。
「この先も同じようなことがあったら、私はシルヴェリオ様の力になりたいです。だってシルヴェリオ様は、私に希望を与えてくれたんですから」
「――っ!」
顔を上げたフレイヤが、いつになく前のめりな調子でシルヴェリオに訴えかけた。普段は落ち着いており、どちらかと言うとおどおどとしている彼女にしては珍しい。
(俺が「与える」存在……か)
自分はどちらかと言うと「奪う」存在だ。義母と腹違いの姉、そして友人の第二王子から平穏な日常を奪ったのだから。
それなのに、彼が親友を助ける為に契約した人は、「与えてくれた」と言う。
戸惑いと微かな喜びが、シルヴェリオの心を震わせた。
「……もういい。怪我人を保護するぞ」
「はい!」
ぶっきらぼうな声で話を終わらせたのにもかかわらず、フレイヤ・ルアルディは明るい声で返事をする。
そんな二人を、御者は口元をによによと歪めて見守っていた。
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