第3話 故郷と同じ香りのワイン

 王都の平民区画にある大通りの端にある小道に入ってしばらく歩くと、<気ままな妖精猫ケット・シー亭>の看板が見えた。

 レンガ造りの店の壁は蔦で覆われており、店の扉は温かみのある木製で趣がある。


 扉を開けるとすぐに大きなカウンターテーブルが見える。

 この店はカウンター席のみで、客はみな並んで座っているのだ。

 カウンターの後ろは魔導コンロやオーブンなどの調理スペースになっており、パルミロが料理を作りながら客たちと楽しく会話をしている。

 

 この店の店主のパルミロは今年で三十歳。妻はまだおらず、「婚期を逃してしまった」とよくぼやいている。

 渋さのある顔立ちで整っており、鳶色の髪をポマードで撫でつけている髪型がよく似合う。やや下がり気味の目の色は金色で、笑うと目尻に皺ができる。

 体格がよく、身長が高くて筋肉質な体つきのため、初めて会う子どもに泣かれてしまうことが悩みらしい。


 フレイヤが扉を開けると、扉に取り付けられている鈴がカランと鳴った。音に気づいたパルミロが顔をフレイヤに向けて微笑む。

 

「いらっしゃい――おお、フレイちゃんじゃないか! 久しぶりだね。最近見ないから心配していたんだ。フレイちゃんが来るのを待っていたよ」

 

 出迎えてくれたパルミロの優しい言葉に、涙が出そうになった。それをグッと我慢してカウンター席に座ると、フレイヤの様子に彼女の変化を感じ取ったパルミロが気遣わしく声をかけてくれる。

 

「しばらく見ない間にやつれたな。またあのバカ工房長に何かされたのか?」


 パルミロはいつもフレイヤの様子を気にかけてくれる。だからフレイヤは今までにアベラルドから受けた理不尽な仕打ちを全て彼に話していた。

 

「うん……解雇されちゃった。だから明日には故郷に戻るんだ」

「はぁ?! 解雇?!」

「そう、解雇。たまたま私が担当したお客様が、私が作った香水を王妃殿下に献上して――それが原因でクビになったの。貴族や王族は、工房長が担当するお客様だから、私たちが担当したらいけないの」

「でもそれ、初めから王妃殿下に贈るとわかってフレイちゃんが作ったんじゃないんだろ? フレイちゃんは何も悪くないじゃないか」

 

 今にも店を飛び出してアベラルドを問い詰めそうな剣幕のパルミロだが、フレイヤのお腹がまたぐーっと鳴ると、鬼のような形相が抜け落ちた。

 恥ずかしくなって顔を赤くするフレイヤの頭を、大きな掌で優しく撫でる。

 

「まずはフレイちゃんの腹ごしらえが先だな。腹が減るとなおさら悲しい気持ちになるからよ」

「ううっ……恥ずかしい」

「腹が鳴るのは普通のことだ。フレイちゃんに食欲があって安心したよ。今日は何が食べたい?」

「パルミロさんのオススメで」

「じゃあ、フレイちゃんが元気になれるように大魔猪ワイルドボアの頬肉トマトシチューを用意しよう。昨夜から仕込んでおいたから、いい具合に旨味が出ているぞ」


 大魔猪ワイルドボアの頬肉トマトシチューはフレイヤが好きな料理で、よく煮込まれた頬肉は口の中に入れるとほろりと崩れるほど柔らかく、おまけにトマトシチューの味が染み込んでいて絶品だ。

 フレイヤは給料日になるといつもこの店を訪れて注文していた。パルミロがそれを覚えてくれていたのが嬉しい。


「飲み物はどうする? いっそのことワインを解禁するか?」

「う~ん、そうしようかな。私、成人してから一度もお酒を飲んでいないから、パルミロさんのオススメにして」

「おうよ。大魔猪ワイルドボアの頬肉トマトシチューに合う甘めの赤ワインにするよ」

「わあ、楽しみ!」

 

 フレイヤは今までずっとお酒を飲まなかった。その理由は、飲酒によって嗅覚に不調が起こらないようにするためだ。

 同僚たちの中には休日だけ飲酒する者もいたが、フレイヤは自分の嗅覚が鈍らないように徹底して禁酒していた。


 先に出された彩り豊かな温野菜のサラダをつついていると、目の前に華奢な形のワイングラスが置かれる。


「はい。フレイちゃんにピッタリの赤ワインだよ。名前は『バラの宝石』だ」

「ありがとう……。綺麗な名前だね」


 フレイヤはすぐにはワイングラスに触れず、じっと見つめた。

 

(もう私は調香師になれないんだから、いいよね……?)


 そう思っているのに、パルミロに出してもらったグラスの中で揺れる赤い液体を見ると心がざわつき、後ろめたくなる。

 調香師としての誇りはまだ捨てきれていない。だからこそ、これまでに禁じていた飲酒に躊躇うのだった。


「フレイちゃん、香りを嗅いでごらん。ワインは香りも楽しむものだよ」

「……うん」


 促され、恐る恐るグラスに鼻を近づける。アルコールの独特な匂いの他に貴腐ブドウの芳醇な香りやバラの花にカシス、そしてベリーの香りが複雑に絡まり合って甘い香りを演出している。


「このワインに使われているバラ……もしかすると、コルティノーヴィス領の特産品のバラかも」

「ははっ、やっぱりフレイちゃんの鼻はすごいな。そのワインはコルティノーヴィス領で作られたんだよ。フレイちゃんと同郷のワインだ」


 フレイヤの故郷はコルティノーヴィス伯爵が治める、風光明媚で長閑な地方都市。バラ農家やバラを使った商品を作る工房が多く、名産品はバラと香り水だ。

 領主はフレイヤが王都に出た年に代替わりして、今はフレイヤの姉のテミスと年が近いコルティノーヴィス家の長女のヴェーラ・コルティノーヴィスが領主となっている。

 大きな商団を持つヴェーラはその伝手を使い、領地の特産品を国内どころか外国にまで広めた。おかげで故郷の産業は活性化したらしい。

 

「……なあ、本当にフレイちゃんはもう調香師になれないのか?」

「……うん。今日ね、王都中の工房に行って雇ってもらえないか聞いたんだけど、どこも雇ってくれなかったの。カルディナーレ香水工房はエイレーネ王国で一番大きな工房だから、その工房長に睨まれたら大変だもん。それに、工房長の奥さんの実家に材料を売ってもらえなくなったら大変だからね」

「くそっ……、フレイちゃんの努力が報われないなんてあんまりだ。工房長たちは意気地なしばかりなのか」

 

 パルミロは眉根を寄せて悪態をついた。この四年間、フレイヤが調香師になるために重ねた努力を知っているだけに怒りが収まらない。


「みんな従業員を守らないといけないから、しかたがないよ……」


 フレイヤは力なく笑った。本当は泣きたいのに、昨日今日と泣いたせいなのか、涙が出てこない。


「……本当に、権力者なんて嫌い……」


 絞り出すような声で呟いたその時、場の空気に合わず軽快な音を立てて扉が開いた。

 パルミロが戸口に視線を走らせ、目を見開く。

 

「おお、シルなのか? 久しぶりだな。仕事はどうだ?」


 知り合いなのだろうか、パルミロは懐かし気に目を眇めて、入ってきた客に声をかける。

 なんとなく気になったフレイヤが振り返ると、そこには旅人が着るような焦げ茶色の長い外套を羽織っている、すらりと背が高い人物が一人で佇んでいた。

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